36. 心が溶けて、また凍る。

 ひじきを開け、祖母が作った筑前煮や焼き魚を食卓に並べる。最後に並ぶ味噌汁の椀からは、出汁の良い香りが漂ってくる。

 寝転がってテレビを見て待つだけの父も、忙しなく動く祖母も、いつも通りだ。

 紫水のラーメンが並ぶカウンターとは違う、紛れもなくわたしの家族の光景だった。


 祖母が「召し上がれ」と言ってから、三人で「いただきます」と手を合わせる。


 口に運ぶものすべてが馴染み深い。涙が視界を曇らせるが、気付かれないようにたくさん話をした。


「わー、今日のニュース、激安海鮮丼特集だって。美味しそう。あ、でも思ったより高いな」

「でも普通は二千円以上するよ。安いほうなんじゃない?」

「そうなんだ。小さい頃に北海道行ったよね、あのとき食べた海鮮丼が美味しかったんだけど、あれいくらくらいだったんだろう」

「あれも二千円以上したはずだよ。……きよの」

「うん?」


 他愛もない会話をしていた父が、突如真剣な表情になった。真っ直ぐ目を見られ、つい目を逸らしてしまう。


「なにがあった?」


 心臓がどくんと大きく脈打った。恐る恐る視線を上げると、祖母も父と同じくらい真摯な瞳をしていることに気付いた。


「え? どうもしてないけど」

「嘘をつくなと教えたはずだよ。今日のきよのは昨日のきよのとはどこか違う。違和感くらいは覚える」

「わたしたちが気付かないとでも思っていたの? なにがあったかくらい、家族に言っても良いのよ。あすみがいなくなってからも、きよのはよくやってる。ちょっと頑張りすぎじゃないかって思うくらいね」


 あすみとはわたしの母である。祖母がこんな風に、母が亡くなったことに触れてわたしを褒めることなんてなかった。


 もう我慢は出来なかった。ぼろぼろと流れる涙は止まらなくなって、履いているスカートに丸いシミを作る。


 “本物のわたし”は今ここにいるわたしなのだと自信を持って言える。やっぱりわたしを模倣しただけの入れ物なんて偽者だ。二十年間の人生は決して無駄ではなかった。

 わたしが一生向こうで暮らすことになっても、父や祖母の心には、陽の側で生きていたわたしが居座っているのだから。


 嗚咽を漏らすわたしを、二人は穏やかな目で見守っていた。その温かさが、強く保とうとしてきた心を溶かしていく。溶解して流れ始めた心の液体は、涙となって止めどなくわたしの頬を伝う。


 すべてを言ってしまいたかったが、口をついたのは適当な嘘だ。


「学校で、ちょっと辛いことがあって。明日行きたくないなあって思ってたの」


 最後までわたしは父の教えを守らない娘だった。


 それからも適当に学校での悩みをでっち上げて話し、今日は早く寝たら良いと言われて夜の十時に布団に入った。

 学校休んだら? という、なんの解決にもならない提案には、ほどほどに苦笑を返した。


 当然、すぐには寝られなかった。自分の部屋の匂い、布団の重み、畳の軋む音……すべてを感じ取るたびに涙が溢れた。

 一度思いきり泣いたせいで、自制が効かなくなってしまったらしい。

 頬と枕と掛け布団の端をぐっしょり濡らしたまま、何度か浅い眠りに落ちた。


 朝の五時からずっと目が覚めていた。父や祖母を起こさないよう息を潜めながら、部屋中の棚を開けて中を確かめる。もうこの部屋に戻ってこないのなら、物を整理しておかなければいけない。

 もう戻ってこないのなら。そう思うたび、また涙が溢れた。


 泣いたまま片付けた甲斐あって、七時前には片付けが終わった。

 まるで起きたばかりのように目を擦りながら居間に降り、まるでこれから学校に向かうように化粧をして朝食を食べる。


「じゃあ俺は先に出るけど、無理するなよ。いってきます」

「うん、ありがとう。いってらっしゃい」


 父はわたしよりも先に家を出た。


「行ってくるね。……今日のお味噌汁、すごく美味しかった。ありがとう」

「しょっぱいかもと思ってたから、良かった。いってらっしゃい」


 祖母はわたしを見送った。


 二人に言った「ありがとう」は、これまでの人生すべてを懸けた重いもののつもりだ。


 八時前に外に出たが、“月の側”へ帰る時間まではまだ一時間ある。


 神社のほうへと向かいつつ、思い出の場所を辿ろうと歩き始めると、真っ白な髪をした男性に出くわした。


「……紫水⁉︎」

「き、きよのちゃん」


 彼の目立つ白髪はそのままに、ただ和服が洋服になっていた。白いシャツとデニムのジーンズというラフな格好でも、彼の背の高さと顔の綺麗さを持ってすれば洗練されて見える。


「どうしてここにいるの」

「きよのちゃんがもう帰って来ないんじゃないかって不安になって、僕も来てみたんだ」


 そう言いながらも、紫水は顔面蒼白で、声も掠れていてほとんど聞こえなかった。


 怪訝に思うわたしを、彼はゆっくり指差す。初めは意味が分からなかったが、彼が指しているのはわたしの家の門だと気付く。


 指先が震えている。唇さえ震えている。

 明らかに様子がおかしい紫水は、辛うじて声を振り絞ってこう言った。


三國みくにって、きよのちゃんの苗字じゃないよね?」

「ああ、うん。ばあばの苗字だよ。お母さんの旧姓なんだ」

「お母さまの名前は……?」

「あすみ。三國あすみ」


 すると紫水は突然ぼろぼろと涙を零した。

 思わず駆け寄ったわたしの手を引っ張ると、ぎゅっときつく抱き締められた。彼からこんな風に触られるのは初めてだった。


「きよのちゃんは、あすみちゃんの娘だったんだね……」


 あすみちゃん。親しい間柄のような呼び方だ。

 なにも言えないわたしに、紫水は優しい声色で教えてくれた。


「二十年前、あすみちゃんは“月の側”に来て、僕にラーメンを教えてくれたんだ」


 心臓が苦しくなって、すっと寒くなった気がした。

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