9. 狐の少女は暗躍する。

 紫水が、持っているナイフをくるくると回して、わたしのほうを振り向いた。その瞬間、わたしは彼と手を繋いだままぺたんと座り込んだ。


「大丈夫⁉︎ 走りっぱなしだったから疲れちゃったかな。それともどこか痛む?」

「……うぅ」

「ん?」

「怖かった……明日が来ないかもしれないなんて考えたこともなかった。『また明日』って言える日々が突然終わるなんて、信じられなかったし、許せないと思った。紫水はそうじゃないの」

「僕。僕は」


 彼はしばし悩んだが、ピンとこないような表情を浮かべていた。自身の感情について明言を避けてわたしのほうに向き直る。


 彼はわたしの指をマッサージしてくれる。爪の左右を揉まれるたび、凝り固まっていた身体に気泡が入るような気分になる。


「それより、怖い思いをさせてごめん。僕の婚約者として、危ない目には決して遭わせないと誓っていたのだけれど。傷ひとつなく帰ってきてくれて、本当に良かった」


 泣きそうな表情を浮かべる彼を見上げ、わたしは目を見開いた。


 彼の耳が普段より大きくなっていた。耳から目にかけて青い血管が浮き上がり、目は血走っている。元より黄金色の目さえ、シトリンの中心にアンバーが据えられたように、瞳と瞳孔の色のコントラストがより一層際立っている。

 マッサージしている手を見ると、爪がぐんと伸びていた。まるで野生の動物が獲物を狩るときのようだ。


「その目と爪……」

「おっと、こんな姿を見られたくなくて目を瞑っていてもらったんだけどな。変化へんげしかけているかどうか、自分ではわからないんだ。戻すことも出来ないから、時が経つのを待つしかないし」

「どうして見られたくないの?」

「あはは、だって、みにくいじゃないか。人でも狐でもない、中途半端な姿なんて。こういう、種族に分類されない生き物を、皆は侮蔑の気持ちを込めてこう呼ぶ。“化物”、ってね」

「もうやめて! わたしは別に、紫水の姿が醜いとは思わない。むしろわたしを守ってくれた姿なんだから美しいと思う。でもそうやって自分を蔑む紫水は確かに醜いよ」


 彼は目を丸くしてわたしを見た。

 驚いた拍子に、狐の血が蒸発するように元の姿へ戻っていく。瞳の色が落ち着いて、先ほどまでのすべてを見透かすような目ではなくなり、安堵する。無意識のうちに気を張り詰めていたらしい。


「外出は禁止されていたのに、ごめんなさい。紫水のおかげでわたしは無事帰ってこられた。あの暗い部屋で、紫水は醜いどころか希望の光に見えたよ」

「ありがとう。きよのちゃんにそう言ってもらえて良かった。自分に少し自信が持てたよ。それにしてもどうしてひとりで外出なんてしたの?」

「それは狐の女の子が……」

「うん! 福がお姉ちゃんを外に連れて行ったの」


 背後から元気な少女の声が聞こえて、わたしと紫水は「うわっ」と間抜けな声を上げて振り向いた。

 紫水の後ろから、小さな狐の少女が顔をひょっこり出している。いたずらっぽく笑う彼女に彼は呆れた表情で言う。


「お福。ついてきてるなんてまったくわからなかった。また一段と気配を消すのが上手くなって……」

「ふふん、演技も上手くなったんだよ! お姉ちゃん、福のことまったく疑わなかったもんね?」

「う、うん。結局、ママはどこにいたの? ……あなたは、なに?」

「ママなんて元からいないよ。福はねー、“すいこきょーすいしょーかい”? で暗躍してるの。今日は失敗しちゃったから怒られちゃったけど」


 理解が追いつかず、すがる気持ちで紫水のほうを見上げる。彼はなにから話そうか整理している様子だったが、お福の肩にそっと手を置いて話し始めた。


「僕たちが穂狐教を信仰しているという話はしたよね。ほとんど皆が信仰している、とは言っても、少しずつ宗派は異なるんだ。僕は“陽の側”から送られてきた人間は、穂狐さまの思し召しによって選ばれたのだから、きっと“月の側”を救ってくれるだろうと信じている。でもお福のいる“水証会すいしょうかい”では、送られてきた人間を占いによって精査するべきだと考えてる」

「穂狐さまと狐族の皆の二重チェックを受けるってことかな」

「そうだね。占いだけじゃなく薬品を使ってのチェックもしていると聞いたけど……なにかされた?」


 そういえば、注射されて腕が発光したとき、「災いをもたらす人間だ」と言っていた。そのことを話すと、彼は怒りを滲ませて、


「効果を聞いた限り、きっと動物をルーツに持たない生物、つまり“陽の側”の人間に打つと発光する薬品を打たれたみたいだね。馬鹿げた話だ、“陽の側”の人なら誰でも光るはずなのに、それを根拠に命を奪おうとするなんて」


 と言った。


 今日起こったことや紫水の話すことを考えると、異世界から送られてくる人間を快く思わない人もいるらしい。わたしがその人間であることは、できる限り秘密にしたほうが良いのかもしれない。


 紫水はわたしの指先のマッサージをやめ、爪をそっと撫でる。


「危ないことをして欲しくない気持ちは変わらないけれど、きよのちゃんが、母親を探していたお福を助けようとしたのなら責められないね。君はやっぱりこの世界の救世主なんだって信じる思いが強くなった。ぜひ僕と結婚して欲しいのだけど……」

「もー! プロポーズはやめ! ねえ紫水くん、福ね、美味しいラーメンが食べたい!」


 お福は甘えた声を出して、紫水の脚にしがみつく。子供とは思えぬおねだりのテクニックに面食らう。

 わたしを危険なところに誘い込んだお福に怒っている様子だった彼も、おねだりには負ける。


「暦上で春とは言え、夕方はまだ肌寒いね。帰って温かいラーメンを食べよう」


 先立って歩き始めた紫水の後を、わたしとお福はついていく。前を歩くお福が、こちらをくるりと振り返って睨んだのは、わたしの見間違えではないはずだ。

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