それは、冷たい風がこれでもかと吹き荒ぶ夕方のことだった。私は御上おかみの居室で、茶器を丁寧に拭いていた。この辺りでは珍しい、赤土でできた茶器だ。艶めく表面には細かな模様が刻まれていて、職人の魂が込められている逸品だということを、わずか十四の私でも感じとれるほどだった。御上が使う器だ、それはそれは腕によりをかけて作ったのだろう。その職人の想いが曇らぬよう、私も丁寧に器を磨いた。そろそろ、御上がお戻りになる頃だった。


 どた、どた、と、御所には似つかわしくない音が響いた。足音だが、御上のものではない。切羽詰まったような声色とともに、こちらに近づいてくる。私は茶器とたたんだ布巾を盆の上に置き、頭をさげて待った。

 すらり、と障子が開いた。


「御上、おかえりなさ……」

「何を考えておいでなのですか!」


 私が挨拶を終える前に、野太い声が降ってきた。この声は、東臣ひがしおみ唐納からな様だろう。大きな足音は、どうやら体躯の大きい唐納様が歩く音だったようだ。それにしても、武人に似つかわしくないあわてた足取りだった。


吉良きら、ただいま帰った。茶を淹れてくれ」


 唐納様と正反対の、石清水のような主上の声が響き渡った。私はその言葉を合図に、姿勢を正し、茶を淹れる準備をはじめる。

 御上が御座みざに座られた後、唐納様がしなやかに御前に膝をつかれた。その唐納様の隣に座したのは、西臣にしおみ空夜くうや様だ。


「御上、私めも申し上げることをお許しください」


 東臣、西臣が揃って御上の居室にいらっしゃるとは、たいそうなお話なのだろう。私は赤くおこった炭の上に鉄瓶を置いた。


此度こたびのようなことをされては家臣や貴族、そしてなにより民にも言い訳がつきませぬ。ましてや山村の娘を嫁にするなど……」


 嫁? はて、今回の行幸はそんな目的だっただろうか。私は何も口にせず、ただただこの国を司る方々の邪魔にならぬよう気配を消すだけだった。


「栓のないことを言うな、空夜。もう決めたことだ。私はあの須原すわらという娘を嫁にする」

「御上! 空夜殿のおっしゃる通りですぞ。何も……」

「空夜、唐納」


 まるで渇いた地面に一滴の水を落としたように、その声色は部屋の隅々まで染み渡った。ぐ、と言葉を飲み込んだ唐納様と空夜様の背筋が伸びた。


「私が決めたことだ」


 御上はそれきり何もおっしゃらず、脇息に体を預けてしまった。それを見た唐納様は続けようとしたが空夜様が制され、二人揃って居室から下がられた。やっと静寂が戻る。しゅんしゅんしゅんと、鉄瓶の中の湯が沸いたところだった。


「あの二人は頭がかたいなあ。まつりごとに関しては申し分ないものを」


 御上はそのままの姿勢で大きくため息をつかれた。私は手を止めることなく答える。


「心配しておいでなのですよ。唐納様も空夜様も、御上が幼児おさなごの頃から仕えていらっしゃるのですから」

「吉良はまだ若いのに、大人な言い方をする」

 

 先ほどとはうってかわって、御上の声色が優しくなった。家臣たちよりも歳の近い小姓こしょうの私を、御上は昔から友人のように扱ってくれるのだ。ははは、と声をあげて笑うその表情は、二十歳の若者そのものだった。

 茶器を並べて、温めてはたらいに湯を捨てる。茶葉を落とした茶瓶に、ゆっくりと鉄瓶から湯を注ぐ。何がおもしろいのか、御上は私の所作をじっと見つめていらっしゃる。その射抜くような視線に耐えられず、私は御上に尋ねた。


「それにしても、花嫁を決めてお戻りになるとは驚きでした。いままでご婚姻にご興味はないとおっしゃっていたのに。行幸で何があったのです?」


 御上は、ふむ、とだけおっしゃった後、しばらく答えられなかった。茶器から視線を外し、何やら宙を見つめていなさる。ご自身でも不思議に思われている、そんなお顔だった。


 鉄瓶からふたつの茶器に茶を注ぐと、艶やかな若草の香りが辺りに広がった。そのうちのひとつの茶器を手に取り、私は御上に頭をさげてから一口含む。舌の上を爽やかな風が吹き抜けたようだった。


「問題ございません。御上、どうぞ召し上がってください」


 疲れて帰ったにも関わらず、茶の一杯を飲むのにも毒見を介さなければならない御方は、鳥が羽ばたき枝に止まるような所作で茶器を手に取り、茶を口に含む。

 ほう、と薄い唇の間から吐息が漏れた。私は少しでも御上の気晴らしになればと思い、居室の障子を開け放つ。朝方掃除をした庭は朱に染まっている。御方はそちらに目をやりながら、ぽつりと呟いた。


「声がな」

「え?」

「声が美しかったのだ」


 御上は思い出しながら猫にでも話しかけるように、ゆっくりとお話された。


 水町みずまちに先日の豪雨被害を確認しにいった帰り路、御上が乗っている牛車が突然止まったのだという。何事だと御簾みすをあげると、目の前に小柄な村娘が立っていたのだそうだ。御者に聞くと、突然門から出てきたので慌てて牛車を止めたという。「娘のあどけない顔がよく見えた」と御上はおっしゃる。御上が道を通られるときは、町人はみな頭をさげることになっているから、そんなに近くで民の顔を見られることは今まで無かったろう。


「その娘は……須原は、私に笑いかけて言ったのだ」

「なんと?」

「綺麗な瞳だ、と。その声色が耳に快く響いてな」


 ごう、と風が吹き、庭木の枯れ葉が舞った。夕焼けと夜の隙間を、御上は瞳に映されていた。


「もしもその声色で名を呼ばれたら、どのように聞こえるのだろう。そう思って気づいたら、娘に名を問うていた」


 いつも明瞭な物言いをされる御上だが、このときは言葉を探されているふうに見えた。それきり、御上は話をやめて、ずっと外の景色を見ておられた。私も、二杯目の茶を入れる準備を始めた。昔の話を思い出しながら。



 御上が先代より位を受け継がれたのは、わずか八つのことだ。御上の御母堂が病で若くして逝去され、後を追うように体調を崩された先代は、御典医の尽力も国中の祈祷師による祈りも甲斐なく、そのまま崩御されたという。

 御上になられてから早十二年。小姓の私から見ても、平和な時代だ。先代からの家臣である唐納様、空夜様のご尽力もあるが、何より御上は天神様のご加護を受けておられた。政、武芸、容姿。どれをとっても才がある御方だった。そのうえ、家臣や民草のことを心から愛しておられる。私が御上の小姓になったのも、天災で家族を亡くした私を拾ってくださったことがきっかけだった。


 小姓になりたての頃、部屋でお休みになろうと御上の隣に控えていたときのことだった。油灯ゆあかりの火がゆらめく部屋の蚊帳の中で、布団に入られる衣擦れの音が静まったとき、突然、御上は私におっしゃった。


「吉良、私の名を呼んでくれないか」


 私はたいそう驚いた。東西臣とうざいおみでさえ、御上の名を口にされることはない。御上の名は天神様から与えられたものだとされており、御上の名を呼べるのは御上の血筋の方々だけだ。


「滅相もない。一介の小姓である私が御上の名を呼ぶなんてできません」

「やはり駄目か」


 けらけらけら、と御上は笑われた。小姓になりたての私はからかわれ、忠誠を試されたのだと思い、少しむくれた。それを見た御上は布団の中で目を閉じられ、おっしゃった。


「おまえをからかったのではないのだ、許せ。誰も私の名を呼ばぬのでな、私も自分の名を忘れてしまいそうなのだ」


 そのあと御上はすぐお眠りになった。が、私はこの一言が忘れられなかった。この国のすべてが手中にある御上でも、手に入らぬものがあるのだ、と。私のような人間から遠い存在である御上も、いま、ここで息をしておられる人間なのだと気付かされた。それから御上は、私にも、もちろん他の人間にも名を呼べとおっしゃることはなかった。



 御上の婚姻が決まってから半年の刻は、準備の忙しさで瞬く間に過ぎていった。御所の部屋割の変更、家具の移動、お着物の仕立て、世話係の配置、などなど。

 それらがなんとか終わり、いよいよ今日、御上は花嫁をお迎えされる。


「雨、止みませんね」


 私は御上のそばにお仕えしながら、大広間の隣の部屋に待機していた。ここから外は見えないが、雨音と空気の湿りでまだしとしとと雨が降り続けていることがわかる。そわそわした気持ちが収まらず、何度も座る足を組み替えていた。


「天神様が喜んでくださっているのだろう。先代の婚儀の日も雨だったと聞く」


 御上は目を伏せられていた。長いまつげの間から、夜明けのように御上の朱い瞳の色がのぞく。いつもは着られない夏の儀式衣に包まれた背筋をぴんと伸ばし、川の中にそびえ立つ岩のように静かに座られている。私はその岩のそばに生える苔のように、御上の御心を乱さないよう心がけた。


「失礼いたします」


 障子の外から声がかかった。私が用件を聞き、御上に伝える。


「御上。須原様が今しがた御所に到着されたそうです。大広間にいらっしゃるとのことです」

「うむ。行こう」


 御上は一度目を閉じ、深呼吸されてから立ち上がられた。大広間に向かわれる後ろを私は付き従っていく。御上の背中はどこかいつもよりも、何か重たいものを背負っておられるようであった。

 大広間に入ると、家臣の方々がずらりと並ばれている。その最前列のさらに前、御上の御座から一段下がったところに、花嫁衣裳を着た須原様が頭を下げて座っていらっしゃった。小柄な背中は丸められていて、綺麗に結われた髪には飾り紐でつくられた花飾りが添えられている。御上が着座された。私もその後ろに控える。


「一同、表をあげよ」


 御上の令で、家臣たちが頭をあげるなか、少しどよめきがおこった。家臣たちの視線が須原様に注がれている。須原様が、頭をさげたまま動かれなかったからだ。花嫁はどうしたのだ、というひそやかな声が、大広間のあちこちから聞こえる。


「御上、」


 そばに仕えられていた空夜様が声をかけられようとしたそのとき、御上は静かに立ち上がられた。そのままためらいもなく御座から一段下りて、須原様のおそばにひざまずかれる。さらに周りはどよめいた。御上が御座から下りられるなんて。焦る東西臣のお声に耳も貸されず、畳の上で指先をそろえていらっしゃる須原様の手をとり、優しく体を起こされる。


「どうした、須原」


 御上のうしろに控えていた私からは、須原様の顔が見えた。

 幼さが残る白い頬に、一筋の跡があった。


「泣いているのか」


 御上の優しく哀しい声色に、須原様は首を左右にふって答えられた。


「雨でございます、御上」


 初めて聞いた須原様の声は、深夜に咲く花のようだ、と思った。ゆっくりと静かに、月の光を受けながら白い花弁を開く。誰も知らない、けれど確かにそこに在る美しさなのかもしれないと思った。

 いつのまにか大広間は静寂に満ち、御上の「そうか」というお言葉が小さく響いた。


 私はそこで、いつのまにか雨が止んでいることに気づいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る