第一部 電気式少年 1 SOHR (2)

(2)


 ヨシュ・シラーは、空港から直接<MAJAマヤ>再生医療研究施設へ向かった。スカイタクシーで敷地内の飛行車停車場フライングカーポートに乗り付ける。再生医療研究施設の、地平線まで続きそうなほど広大な敷地は芝生に覆われ、近代的な環境建築らしく樹木や河川、池などが配備されている。木々が生い茂った小規模の森の中にある真珠色の建物は<MAJAマヤ>が運営する病院施設だ。

 特殊な珪素系素材で建設されたその建物は、研究施設というよりも芸術的な催しを行う文化施設を思わせる。屋上にある多面半円形の天蓋が特徴的だ。エントランスホールは三階部まで吹き抜け、壁も天井もほとんどの部分が透明の水膜のようで、屋内とは思えないほど陽光がふんだんに差し込む。

 ヨシュはレセプションには向かわず、悠然とした仕草でホール中央に立ち止まり、辺りを見回した。エントランスホールの壁に据えられたガラスプレートに目を止め、微笑する。


 人の名に魂が宿る。

 アンドロイドになると、名が変化する。

 魂の在処が変わるからだ。 

                      ロジャー・F・モーガン


「ヨシュ、」

 エントランスの向こう側からシェリルが姿を現した。少し疲れているようだった。普段ならしっかり整えられている鳶色の髪が今日は艶がなく乾燥して乱れている。ヨシュは遅くなったことを詫び、エルの具合を尋ねた。

「今は安定してる。ずっと眠っているわ。」

「そうか、三日間エルに付きっきりだったんだろ、学校は大丈夫、」

 そう尋ねた後で、今は夏季休暇期間であることを思い出した。

「君は家に戻って休むといい。僕はマリラと少し話すことがあるんだ。先に帰っていて。」

 スカイタクシーで帰宅の途に着くシェリルを見送り、ヨシュは慣れた足取りで、息子エルの主治医マリラ・ビレンキン博士のオフィスに向かった。中庭に面した通路を進むヨシュに、患者や職員がこぞって目を向ける。黄金きん色の髪が陽の光を弾き、眩く煌めく。同じ人間とは思えない整った外見はどこにいても人々の注意を集める。しかし彼は周囲から受ける視線を意に介さず、中庭でくつろぐ患者たちの姿を眺めたり、ドアの開いた研究室の中を覗いたりしながらあくまでマイペースだ。

 オフィスドア横のボタンを押すと、数秒間を置いてドアが横に開いた。ビレンキン博士が立ち上がり、歓迎の仕草でヨシュに椅子を薦める。

「上海はどうでしたか、」ビレンキン博士が尋ねた。

「正直、あそこで人が生活していることに驚きました。空気があまりにも濁っていて。あれでは健康な人も体を壊してしまうでしょう。」

 のんびりとした口調で答えるヨシュに、ビレンキン博士は同感だと頷く。

 <MAJAマヤ>医療生体再生局主任マリラ・ビレンキン博士は、五十代になったばかりだろうと思われるが、腕も化粧気のない顔も日に焼け、シャツから出た二の腕は引き締まっており、とても健康的だ。イタリア訛りの明朗な話し方とあいまって、医学博士というより軍人という印象を受ける。

 ドアが開いてロボットタイプのピパが入ってきた。白色の丸々と太ったフレンチブルドックが後ろ足で直立しているようなボディで、音もなく床を滑るように移動する。ピパはヨシュのそばへやってきて、「お飲み物は何になさいますか?」と聞いてきた。外見に似合わず落ち着いた低めの音声だ。

「そうだな、ジンジャーエールはある?」

「はい、ございます。」

 ピパの左手の先から紙コップが出てきて、右手の先からジンジャーエールを注ぐ。

「ありがとう。」ヨシュはコップを受け取り、早速飲み始める。

 ビレンキン博士は、その様子に小さく笑う。子供ならいざ知らず、ピパに礼を言う大人は滅多にいない。ヨシュは生まれも育ちもアメリカのカリフォルニア州だが、両親はどちらもアイルランド人だ。おおらかで細かいことはあまり気にしない気質はその血筋によるところなのかも知れない。

「そういえば、」空の紙コップをピパに手渡し、ヨシュが口を開いた。「エントランスホールのあれは、相変わらず意味がわからないんですが、ヒントは無いんですか、」

「私も知りません。ニールセン博士が持ってきたものですからね。そもそも意味があるかどうかも疑わしいです。彼は今は日本ですか、」

「ええ、生魚ロウフィツシュが食べられると嬉しそうにしていました。僕は生魚なんて絶対食べたく無いですけど。ああ、そういえば来週には戻るそうです。」

 マリラは大きく頷いた。「来週にはあの施設が完成して、実験が始まりますからね。」

 その言葉に、ヨシュの表情が硬いものに変わる。眉根を寄せ、「最初の子供たちの人数は、」と抑えた声で尋ねる。

「十五人です。」

「…思ったより多いんですね。」

「少ないくらいです。」

 黙って頷き、俯くヨシュを見るビレンキン博士の視線が、わずかに冷ややかなものを帯びる。

「毎年二、三十人ほど子供たちがやってきます。最終的には三百人を超すだろうとニールセン博士は予想しています。」

 ビレンキン博士の言葉に、ヨシュの顔色が青ざめていく。ビレンキン博士は話題を変えることにした。

「エルの現在の容体ですが…、」

 ヨシュが顔を上げた。ビレンキン博士は空宙で指を動かす。二人の視界には、互いの<Kooperコーパー>を介して同じ立体映像が映し出されている。

「脳細胞のこの部分が僅かに収縮しているのがわかりますか、血管が壊死して内出血を起こしています。すでに進行している肺高血圧症や心臓収縮の次に深刻な症状です。」

もう何度聞いたかわからないくらい耳慣れた「深刻な症状」という言葉に、ヨシュは無言で頷く。

「肺、心臓、肝臓、腎臓、の順に、二、三年毎に移植手術をしていくことになります。その間、<UN壱型細胞>融合治療も同時に施します。まあ実験結果によってですが。」

 ヨシュの目に映る映像が移植に関する計画と、病状の変化予測を表したグラフに変わる。ビレンキン博士の口から、エルの肉体の成長率をもとに算出した回復率目安、手術日に合わせた移植用人工臓器の生成についてなどが仔細に説明される。ヨシュは説明の合間にたびたび頷き、時折なるほど、など呟いているが、顔色は益々青ざめ、表情も暗く沈んでいく。

「エルが回復する見込みは十分あります。あなたが心血を注ぎ、我々の計画に協力者を集めてくださったおかげです。」

 ヨシュは笑顔とも苦痛ともつかない曖昧な表情見せて、椅子の背もたれに沈み込む。

 オフィスに沈黙が流れた。二人の間にあった映像はもう消えている。壁にかかった計測器の針の不規則な振動音が心臓の音のように聞こえる。

 ヨシュは大きく息を吐いてから口の中で何事かを呟き、頷いた。「わかりました。博士のご献身に感謝します。…ところで、脳の損傷部分についてはどのような治療を、」

 ビレンキン博士は「そのことですが、」と言い、コーヒーを口に運んだ。「脳移植が他の臓器と比べ物にならないくらい特別に難しいものであることはご存じですよね。」

「ええ。ニールセン博士からは人工脳の移植も近いうちに実現の目処が立つと聞きました。」

 ビレンキン博士が頷く。

「確かに人工脳の移植は可能になりそうですが、臨床実験に移るにせよ多くの問題をクリアにする必要があり、時間を要します。しかも私たちは慎重に最善の治療法を決定しなければなりません。今、このプロジェクトに関わる研究者は私を含めゲノム操作による脳細胞再生治療を検討しています。けれどアッサンブラ局長とニールセン博士は脳移植を優先させています。それで…」

「つまり、現在あなた方の意見が二つに分かれてしまっているんですね。」

 ビレンキン博士は頷いた。

 ヨシュはこの数年ですっかり馴染みとなったニールセン博士との会話を思った。会話と言ってもそのほとんどはニールセン博士が一方的に話すことを聞いているだけだ。しかしその内容は奇妙で、まるで空想的であり、荒唐無稽としか思えないのにひどく刺激的で好奇心を掻き立てられ、いつも夢中で聞いていた。


 いずれはエルだけでなく、全人類が、全生物が完全な命を得ることになるだろう。


 ニールセン博士が語った、未来にもたらされるであろう壮大な希望の光は、絶望の闇の奥深くに沈んでいたヨシュの魂を照らした。ニールセン博士が思い描く新たな生物たちの幸福に満ちた新世界がヨシュにも見えた。

「私は、」ビレンキン博士が何かを言いかけたが、それを遮りヨシュは続けた。

「ニールセン博士の意見に賛成です。」

 その答えを予想していたのだろう。ビレンキン博士は一瞬間を置いて、紙の書類をヨシュに差し出した。

 短い文章で、これからの治療や研究内容に関する一切の情報を永久に秘匿する誓文が書かれている。すでに何人かのサインがあった。ヨシュは空欄にサインを記入した。シェリルの名前はない。つまり、シェリルにも、そしてエルにも秘さなければならない。その方がいい、とヨシュは心の中で呟く。

 これで今日の目的は達した。椅子から立ち上がり、ドアへ向かおうとすると、ビレンキン博士が呼び止める。 

「ところで、シェリルにはまだエルの疾患の、本当の原因について話していないんですか?」

 ヨシュは微笑する。

「一生隠すつもりです。」

「いつか知るかもしれませんよ。」

「ええ、それでも隠し続けます。」

 じゃあ、と歩き出そうとして再びヨシュは立ち止まる。

「ああ、そういえば、ビレンキン博士は上海コンベンションセンターにいらしてたんですか、」いつも通りの、のんびりとした口調で他意など含ませずに尋ねる。

「いいえ、映像ヴイジヨンで参加しました。なぜですか、」

 ビレンキン博士は訝しげな表情を見せた。ヨシュは微笑を浮かべ、「いえ、ビレンキン博士に似た人を会場で見かけたのですが、そうですか、じゃあ人違いですね。」と独り言のように喋り、会話を切り上げる。

「では、エルをよろしくお願いします。」

「ええ、お任せください。お気をつけて。」

 ヨシュが退室し、オフィスのドアが閉まる。


 フライングカーに乗り込んだものの、起動させず、ヨシュは重く痺れた頭をシートにもたれかけ、ぼんやりフロントガラスの向こうに見える青々とした芝と木立を眺めていた。

 左手首に嵌めた<Kooperコーパー>の信号灯が点滅している。指を動かすと、血糖値が低下しているからブドウ糖サプリを摂取するようにと合成音声が頭に響く。ヨシュはシートのポケットからサプリを取り出して数粒口に放り込み、飲み下した。

 大きくため息を吐いた。即効性のサプリのおかげで頭がスッキリしてくる。ヨシュはシートに座り直し、「スタート」と口にする。フライングカーのコントロールシステムが起動し、最新型電気エンジンがシュルシュルと静かな駆動音を立てる。

 自動操縦ボタンを押そうと左手を伸ばしたが、ボタンの脇のディスプレイに表示された画像が目に入り、手が止まる。

 生後一ヶ月ほどのエルの写真だ。シェリルの腕の中で天使のように愛らしい笑顔を浮かべているが、よく見ると、右足の膝が外側へ突き出し、赤ん坊にしては細い腕が力なく垂れている。この頃すでにエルの体には変調が現れていた。

 ヨシュは喉の奥が締め付けられたように引き攣り、後頭部が熱くなるのを感じた。

 目と鼻の辺りもじわりと熱を帯び、涙が溢れた。喉の奥から、掠れた嗚咽が漏れる。額を手で抑え、体を震わせながら声を殺して涙を流した。もうとっくにこの絶望感も苦しみも味わい尽くしたはずなのに。涙など流し尽くしたはずなのに。悲鳴のような掠れ声を喉から搾り出しながら、全身で泣き崩れる。ベッドに寝たきりで、生命維持装置がなければ呼吸すらできないエルが哀れで、その苦しみを思うと恐怖に身が縮み上がる。そんな思いをさせている罪悪感が巨大な槍となって全身を貫く。ヨシュは毎晩寝る前に窓辺に跪き、一心に神に祈りを捧げた。エルを健康にしてほしいと。罰せられるべきは自分であり、息子には何も罪はないからと。しかし、いつもそこに返事を寄越すものは誰もおらず、ただ絶望を囁く静けさがあるだけだった。自分が息子を救わなければ。エルが助かるためなら、地獄へ落ちることも厭わない。

 エルの病が判明し、治療法はなく、三年も生きられないだろうと医師から告げられた時、ヨシュは心を決めた。エルを生かす方法を探そうとした矢先に、偶然にも<MAJAマヤ>の創設者リドルゴ・アッサンブラと出会い、ニールセン博士の研究を知らされた。彼らはヨシュに協力を求め、ヨシュはそれに応じた。その結果、数多くの命が犠牲になることを知りながら、ヨシュは資産家たちを呼び、信用させ、計画の渦中に投じた。

 ヨシュは苦しそうに何度も深呼吸をして、首を振り、嘆くのをやめた。顔をハンカチで拭った。咳払いをして、コントロールシステムに再度指示を出す。

 周囲はすっかり暗くなっていた。後方に遠ざかる<MAJAマヤ>の研究所は、宵闇の中に巨大な黒影を広げる。前方には夕陽の残照が街を照らしている。広く清潔な道路が、ネオンライトを煌かせる都市部へ続いている。フライングカーはその二十メートルほど上を飛行する。

 冥色の空に三日月が浮かんでいる。

 ヨシュは両手を合わせて握り、目を閉じた。

 自分が犯してきた罪について、これから犯す罪についての赦しを乞い、息子に救いがもたらされるよう、ただ一心に神に祈る。

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