第15話 さくらの本音

自室に戻った松姫は、信忠からの全ての文を読み終えた。一通読んでは大切に畳んで膝の横に置き、時に目を閉じて大きく息を吸い込んだり、涙を拭いたりしながら半時にも及んだ。

信忠の文面にはやさしさと愛情が含まれていた。すずを側室として迎えたこと、松姫は変わらず正室であることなど丁寧に説明されている。

嬉しかった。しかし文に綴られた様々な言葉は、実は自分にではなく、さくらに宛てたものだと気づくのに時間はかからなかった。

「愚かなことをした」

若気の至りとも言うべきか、さくらを自分だと信忠に偽ったことを後悔した。

「あーっ自業自得だわ」

そう言いながらも、文を読み終えた松姫の頬は赤く染まり、目はきらめきを取り戻していた。恋をしているのだと、深く実感した。この先、信忠に逢うことも叶わず、挙句の果てには、織田方に殺されるかも知れない。もう信忠のことを現実とは思わず、夢の中の人として、これからも偽りの愛を続けて行こうと思った。それが信忠への贖罪でもある。

「さくら」

近くにいるだろうさくらの名を叫んだ。

「はい」

閉じられた障子の向こうからさくらが返事をした。

「ここへ」

そろそろと障子を開けたさくらは下を向いている。

「大丈夫よさくら。長い間、心配させてごめんね」

その言葉を聞いたさくらの表情はみるみる明るくなった。

「信忠様はなんと?そのご様子ですと、嬉しいことが書かれていたのですね」

「嬉しいこと。そうね、とても愛情にあふれた文でしたわ。これで心が晴れた。もう心配無用」

「良かった」

手をたたいて喜ぶさくらに、松姫は真剣な眼差しを向けた。

「えっ?」

とさくらは驚く。

「さくら、ここからは貴方自身のことを聞きたい」

「わっわたくしのこと?」

自分の胸に手を当てるさくらに、松姫は深くうなずいた。

小手が放った言葉が気になっていた。さくらが兄、勝頼の部屋にひとりで出掛けたというのは本当の事だろうか。勿論、勝頼には妻子があり、加えて側室もいた。色を好むのは武家の男の嗜みなのはわかっていたが、さくらをその身分に置くのは戸惑いを覚える。更に、さくらには意中の男がいると長い間、信じて疑わなかった。それが勝頼だったのか?いや、そんな筈はない。松姫の知る限り、さくらと勝頼の接点は、そうない筈だ。

「単刀直入に聞くわね。兄上とはどういう関係なの?」

松姫がそう聞くと、さくらの顔が一瞬で変わった。あまりの変貌に、松姫が動揺する位だった。

「どういう関係といわれましても」

明らかに言葉が硬い。

「ああ、小手殿が仰せになった、あれですね」

「そうよ、あれ。小手に聞いても良かったが、きっと小手は感情的になり、事実よりも、想像を含めた説明をすると思ったから、さくら本人に直接聞きたかったの」

さくらは松姫から視線を外した。

「あの夜、お屋形様に呼ばれ、お部屋に伺いましたが、お話をしただけで」

「兄上の部屋で、そんな夜中にふたりきりで話さなければならない内容だったの。勘違いしないで、責めている訳ではないのよ」

「さあ、どうでしょう。わかりませぬ」

斜を向いたまま、さくらは首を振った。

「わからないとは、どういうこと?」

「さあ」

さくらは小首を傾げ、顔を撫でた。こういう態度を見たのははじめてだ。松姫は戸惑いを隠すのに必死だった。

「お屋形様に直接、お聞きになればよろしいのに」

一拍おいて、さくらは松姫に強い視線を向けた。

「変に干渉して嫌われるのが怖くて、兄上様には聞けないのでしょうけど」

耳を疑う言葉だった。松姫は目を伏せた。

「お互い大人ですのよ姫様」

「であるな…すまぬ、さくら」

「いいえ、わたくしこそ偉そうなことを申しまして」

早々と部屋を出ようとするさくらに、松姫は手を伸ばし、声を掛けた。

「さくら」

背中を向けたさくらは横顔だけ松姫に向け、先に話し出した。

「姫様、もう終わりにしましょう」

「えっ?」

「おままごとも、わたくしとの仲良しごっこも」

おままごと、松姫は返す言葉を見つけられないでいた。

「肖像画の事も、なんともばかばかしくて、わたくし心から嫌でしたわ」

「す、すまぬ」

さくらは顔の前で手をふった。

「わたくしは良いのです。幼き頃から姫様の侍女なのですから、命令は聞きますよ、なんでも」

「命令など…」

「あれが命令でなくてなんなのでしょうか」

天井を向いたさくらは首をかいた。この様な不躾な態度を取るさくらを目の当たりにして、松姫は、いま目の前で起きている現実の対処ができない。

「しかし偽の肖像画を送られた信忠様はどうでしょう。偽の肖像画に恋をし続け、ご自身が側室を迎えた後も、偽物の許嫁に丁寧に文を送り続けた。姫様は信忠様を裏切っているのです。側室を迎えたからと腹を立てるのはお門違いかと、そう思うのです」

「…腹を立てるなんて」

これがさくらの本音

突然の激しい打撃に耐えるのがやっとであった。さくらは動揺する松姫をせせら笑うかのように、息を吐きだした。

「では、用事が済まれたのでしたら、わたくしはこれで」

そう言って、さくらは出て行った。

「さくら……」

さくらから明らかな敵意を感じた。松姫は心臓の辺りを片手で押さえた。鼓動が乱れ、口で息を吸っては吐き出した。これまでさくらを自分の味方とばかり思っていた。他の侍女とは私的な付き合いはなく、形式的な会話しかしたことがなかったが、さくらとは違った。腹違いの兄弟よりも親しく、共に人生を歩んできた同志の様な存在であった。幼い頃に母親が他界し、愛情を注いで育ててくれた乳母も病死した。大好きな乳母だったが、その乳母にも家庭があり、お子も数人いると聞いている。松姫はそういう事情を、幼い頃から感じ取り、乳母に対してもどこか遠慮がちに接して来た。広い寝室で、母が恋しく、泣きながら寝ることも多かった時、突然、自分の前に表れたのがさくらだった。さくらには身内がない。松姫には信玄という父親がいたが、時々顔を見る程度で、抱きしめられた記憶もない。さくらの境遇を知った松姫は、自分の置かれている状況と重ね合わせ、さくらに親近感を感じたのである。さくらを紹介された時、一瞬でさくらを好きになったのを覚えている。用意された真新しい小袖を纏い、湯上りのさっぱりとした表情で現れ、小さな手を床につけ、丁寧にお辞儀をしているさくらの身体は怯えで震えていた。すぐに事情を把握した松姫は、さくらの手を取り、城内を案内して回ったのだ。さくらは見る物にいちいち驚いていた。気が付かなかったが、松姫はその時、さくらに優越感を感じていたのかも知れない。それは出自の面での優越感である。

「なんて恥ずかしい」

見抜かれていた。さくらの美貌を羨む反面、自分は姫という立場からさくらを見下し、まるで意思を持たない人形の様に、さくらを扱ってきたのではないか。もし勝頼とさくらが男女の関係になったのなら、さくらはもう侍女ではなく、松姫と肩を並べる存在なのだと、さくらが意識しても仕方がない。

「とんだ茶番ね」

自身を叱責し、松姫は充分、狼狽えた。嗚咽を含んだ涙が溢れ、止まらない。この悲しみを共有してくれる友はいないのだ。とてつもない孤独という穴の中に、松姫は閉じ込められた。

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