第12話 知ってしまった信忠の裏切り
織田水軍が、木津川河口の戦いに敗れたとの一報が届いた。
信忠の安否が気になる松姫は、眠れない夜を過ごしていた。
「なんの報せも入らぬ。だれかが意地悪をしているのではないか」
「時期に入りますよ。そうじたばたされなくても」
自室の居間を小走りで歩く松姫の後を、さくらは追いかけながらそう言った。
「じたばたなどしておらぬ。ただただ心配なのだ」
奥座敷との間の襖を開けた松姫は、拍子抜けしたように立ち止まった。
「兄上」
「久しぶりだな松」
武田勝頼は、松姫ではなく襖が開け放たれた庭の方を見つめてそう言った。
「何に向かって話し掛けているのですか。庭の松か、妹の松か、判断に戸惑います。ところで如何されたのですか?」
「妹に会いに来てはならぬのか?」
「何の前触れもないのですから驚きますよ」
松姫は言いながら勝頼を上座に促し、自分はその前に座った。
「お茶のご用意を」
部屋を出るさくらを、勝頼は眺める様に見ていた。
「あれは、さくらか?」
襖を閉める直前のさくらは、頭を下げた格好で何も答えず襖を閉めた。
「随分と女らしくなったな。そろそろ嫁に行く年頃か。さくらには約束をした相手でもいるのか?でなければ、儂が良い家を紹介するぞ」
「さくらには決まった相手も、好きな男もおりませぬ。まあ」
松姫は俯き、頬にかかった髪をゆっくり撫で上げた。
「まあ?」
「良いお相手を探して下さることに意義はござりませぬが」
「奥歯に物が詰まった様な言い草だな。まあ良い。ところでお前はどうなのだ松姫」
「やはり」
と言って松姫はプイッと顔を反らせた。
「そういう話だと思っておりましたわ」
「さくらと同じようにお前も年頃だ。そろそろ考え方を改めないと、遂に貰い手がなくなるぞ」
「兄上」
松姫が厳しい表情をした時、襖が開き、さくらが茶を運んできた。
「きょうは冷えるな」
「真冬ですもの」
さくらの後からふたりの侍女が入って来た。ひとりは火鉢を持ち、ひとりは灰ならしの道具を持っていた。
「さくらは幼い頃から良く気が利く」
肌寒かったのか、両腕を交互にさすっていた勝頼は目を細めた。すると、廊下の奥から慌ただしい足音が近づいて来る。
「それでは足りませぬ」
小手が入って来た。小柄な身体に、腕の中いっぱいになるほどの大きな火鉢を抱えているが、炭は入っていない。後からついてきた侍女が焼けた炭の入った道具を持って来た。その様子を見た勝頼は、何かを払うように手を振った。
「なんだなんだ小手、騒がしい。火鉢ならたったいまさくらが用意してくれたというのに」
「お屋形様のことはわたくしにお任せ下されと申したではないか」
大きな火鉢を勝頼の横に置いた小手は、床に両手を揃えて勝頼と松姫に向かい、頭をぺこりと下げた。
「この10年、お屋形様のお世話はこの小手が一任されているのです。他の者は構わないで頂きたい。だいたいお屋形様は寒がりなのです。そのよーなちっちゃな火鉢では、何の役にも立たぬわ」
「長居をする訳ではないのだ。このくらいの火鉢が十分だと思うがな。それに儂はそれほど寒がりではない」
「いいえ」
目を吊り上げてさくらを叱責していた小手が急に声を和らげた。
「お屋形様は寒がりで、風邪もひきやすいと、亡くなられたお屋形様の御母上の諏訪御寮人様が仰せでございました。わたくしに、くれぐれも勝頼殿を頼むとも」
「もう、良い良い。その話は聞き飽きた。昔話ばかりしているから嫁に行き遅れたのだ。のう小手」
外見が父親似の勝頼は、やさぐれた雰囲気を含めた男前であった。その勝頼が顔を近づけたので、小手は真赤になってうつむいた。小手は勝頼より10ほど年上だが、昔から密かな思いを勝頼に寄せていた。それゆえ、結婚もせずに勝頼の傍で働いているのだ。
「兄上、言葉がすぎますよ」
「そうか、すまぬ」
「いえ…わたくしはこれで」
威勢の良かった小手はすっかり縮こまって、さくらの持って来た火鉢を抱え、座敷を出て行った。
「さくら、其方はここに」
勝頼に呼び止められ、さくらは敷居を跨ぐ足を後方に返し、勝頼に向いて膝をついた。
「先ほど松と話しておったのだが、其方、縁談をする気はないか」
「わっわたくしがですか」
さくらは自分の顔を人差し指でさした。
「実は松には隠していたが、もう相手も決まっておる。それもさくらだけではなく、松の相手もじゃ」
「聞いてませぬ」
松姫は畳敷きの床を平手打ちした。
「だからいま話しておる」
松姫は首を横にふりながら、勝頼を睨んでいた。
「話は戻るが、松に聞いたところ、さくらには決まった相手がいないとのこと」
「ええ、はい」
「正しいか?」
「はい」
さくらは一瞬、目を上げたが、勝頼を見ると、すぐにうつむいた。
「妹は織田の亡霊に執着せずに、新たなしあわせを求めるべきなのだ。かと言ってなかなか、松は幼い頃から頑固なところがある。一度決めたことはとことん貫く。そういう性分ゆえ、織田との縁談を諦めきれずにいるのだ。しかし、もしふたり合わせて同時期に嫁ぐことになれば、松も気が楽と思うのだ。そもそもお前たちは幼き頃から一緒に育ち、常に同じ景色を見てきた。どうだ、ふたりともこの縁談話を受けてはくれぬか」
「おかしなことを」
「何がおかしい」
「兄上、わたくしは織田信忠の妻でございます。人妻に縁談とは、兄上はどうかされた」
「どうかしているのはお前だ松。平時ならば其方が織田の嫡男と疑似恋愛をしようが構わぬが、いま恋愛にうつつを抜かしておる時ではない」
「それは兄上が織田との戦で負けたからですの」
「姫様」
「良い、良い」
勝頼は冷静だった。そして腕組みをし、天井を向いて瞳を閉じた。
「たしかに儂は妹の其方に政略結婚を進めたいと思うておる」
「やはり」
「しかしそれは武田の存続のため。其方も武家の妻女ならば、理解できるはず」
「しかし兄上」
「わかっておる。だがな松」
勝頼は目を開け、松姫を見た。
「当の信忠は、妻を娶ったのだぞ」
「え?」
耳を疑った。世の中の音が、全て消えてしまった様な、ぼんやりとした感覚になった。体中の血が騒ぎ、血流さえも感じる。松姫はそれから暫くの間、口を聞くことが出来なくなった。
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