第7話

 ふぉんっ


「ひゃ――!」


 どさっ……

 放り出されたのが空中だったせいで、バランスを崩して思わず尻餅をつく。降り積もったらしい雪に突っ込んだせいで、尻が冷たい。


「ふんっ……情けない女。受け身の一つも取れないの?」

「…………」


 侮りを含んだ言葉に、無言で体を起こす。

 グレイが運んでくれるときは、いつだってしっかりと抱きしめられた状態だったため、こんな乱暴な運搬には慣れていないから仕方ない。

 じっとりと雪で濡れた尻を浮かせて、ポンポンと雪を払った。こんなに寒い夜中に、いつまでも濡れたままでいては、風邪をひいてしまうだろう。


「えぇっと……ここは……?」

「白狼の『試練の穴』よ」

「し……試練……?」


 何やら仰々しい単語に、ハーティアは怪訝な顔で聞き返す。


「まだ、戒も使えない未熟な子供が、悪戯をしたりしたら落とされる穴」

「は、はぁ……」

「戒がなければ自力では上に上がることすら出来ないから、反省にもってこいの場所でしょう?」

「…………」


 言われて、無言で上を見る。

 ぽっかりと切り取られたように遠くに星空が浮かんでいるのは、ここが手を伸ばしたくらいではとても這い上がれない深い穴の底なのだと理解させるのに十分だった。


「この季節のこんな夜中、しかもグレイが来ている最中――誰も来やしないわ」

「えっと……」


 なんだかあまり良い方向に話が進んでいる気がしない。

 美しい顔を怒りに染め上げたビアンカは、キッとハーティアを睨む。


「――ひと目惚れ、だったのよ」

「………………はい??」


 唐突な話題転換に、思わずハーティアは間抜けな声を上げる。

 ぎゅぅっと今にも泣きそうな顔で、美女は震えながら訴えた。


「初めてグレイに出逢ったとき――こんなに美しい<狼>がいるんだ、ってびっくりしたの。美しくて、優しくて、強くて――それでいて、全然驕らないし、何より群れのことを一番に考えてくれていて、滅多に来ないくせに、<狼>たちのことを一人一人ちゃんと全員覚えていて」

「は……はぁ……」


 唐突に、何の告白だろうか。

 とはいえ、今の状況は、あまりハーティアにとってよろしい状況とは言えない。なるべくビアンカを刺激しないようにして、安全にここから出られる術を模索せねばならないだろう。

 そうしないと――

 ――――きっと、愛する番の不在に気づいた過保護な<狼>が、暴れまわって大変なことになる未来が、ありありと見える。


「雄が、この雌が番なんだと認識するまでにかかる逢瀬の平均は、三回程度――私は、まだ一回しか逢ったことがなかったんだもの!私だって、三回会うまでは、チャンスがあるって思ったって良いでしょう!?」

「は、はは……そ、ソウデスネ……」


 きっと、そうやってグレイの番になりたい、と胸を焦がす少女たちは、この千年、後を絶たなかったのだろう。

 まさか、既に彼には心に決めた存在がいるなど――それが、<狼>から見ればひたすらに脆弱で何の取り柄もない人間の女だなどと、一体誰が予想するだろうか。


(そもそも、グレイがちゃんと説明していればよかったんじゃ――あ、いや、だから、”試験”の審査基準に、番に対する考えに意見しない、っていうのがあるのか)


 グレイが呟いた独り言を思い出して納得する。

 きっと、女心に疎いグレイのことだ。最初はそんな項目を設けてはいなかっただろうが――おそらく、そう年数が立たないうちに、グレイの繁殖候補として送られてくる女たちの「番にしてくれ」という熱烈な要求にうんざりしたのだろう。

 だから、彼は審査基準に制限を持たせた。

 誰とも生涯番う気がないと明確にして、あくまで後世のために、優秀な種を残すためだけの行為であり、そこに恋だの愛だのを持ち込むことは許さないと理解させた。

 その試験を潜り抜けて、ただ純粋に、伝説の存在に近いグレイに教えを乞い、後世に優秀な種を残す責務を果たす一助となりたいと思う、真に優秀な雌だけが送られてくる――というのが、本来の試験の在り方だったのだろう。

 だからグレイは、繁殖行為だけをしていればいいのに、わざわざ候補者に教えを施し、ひと冬という短くはない時間を共に過ごしてから帰還させるのだ。

 そこに、恋愛感情を持ち込まずに、真摯に白狼の未来を想い努力を重ねる雌に敬意を表して。


(だからきっと――この人は、イレギュラーなんだろうな……)


 グレイが「苦言を呈さねば」と言っていたのも納得だ。

 おそらく、ビアンカのように、あわよくばグレイの番になりたい――と思っている雌は、この群れに沢山いただろう。

 だが、その誰もが、毎年試験を受けては無慈悲に落とされていく。

 そして、無心に努力を重ね、真の意味で白狼の未来を考える者だけが選ばれていくのを見て、自分の利己的な考えを改めたり、恥を知ったりするのだろう。

 そうして、次の年に心を入れ替えて再度チャレンジするのか、そこまでの覚悟と努力は出来ぬ、と諦めて現実的な群れの男と番になる道を選ぶかは、それぞれなのだろうが。


(もしかして……ビアンカさん、身体が成長していないのを理由に何度も落とされた、って言ってたけれど――)


 本当は、ビアンカの隠し切れない「番になりたい」という欲求が審査官に見透かされていたからではないのだろうか。

 それでも毎年毎年諦めずに挑戦してくるビアンカが、少し殊勝な態度を取ったとすれば、「ついに心を改めたのか」と審査が甘くなってしまったのかもしれない。

 グレイが言った通り、彼女が能力的に優秀なことは間違いがないのだろうから。


 ひゅぉ――


「!」


 目の前の女から、再び戒の発動音がして、どこかに飛ばされるのかと身構えるが、ふぉんっ……と掻き消えたのは、目の前の女だけだった。


「え――?」

「本当は、貴女を殺すことなんて造作もないし、グレイの”番”の座を得るためならそれをするのが一番手っ取り早いのはわかっているけれど――私は慈悲深いから、見逃してあげる」


 声は、はるか頭上から降ってきた。

 一拍遅れて上を向くと、キラッと月明りに何かが反射する。


「っ!?」


 重力に従って近づいてくるそれを見て、何かが上から落とされたのだと気づき、慌てて狭い穴の中で避けると、サクッ……と小さな音を立ててそれが雪の中に突き刺さる。


「た……短剣……?」


(命は取らないとか言っておきながら、もしも脳天に直撃でもしてたら、完全に死んじゃうやつじゃない……いや、まぁ、私は死なないらしいけど……)


 抜き身の短剣が地面に突き立っているのを見ながら、呆れて半眼になる。

 どうにもこのビアンカという女、見た目以上に幼い所があるらしい。本当に厳しい試験を潜り抜けた優秀な個体なのだろうか。


「言ったでしょう。ここは、『試練の穴』。戒が使えない子供が反省を促される場所。戒がないと命が危ない猛獣はいないけれど――うっかり奥の横穴に入れば、見るもおぞましいフォルムの猛毒の虫や蛇はたくさんいるから、気を付けてね?」

「は――?」


 クスクス、と笑うビアンカに、あっけに取られてきょろきょろと当たりを見渡す。

 闇夜に慣れた視力は、ぼんやりと奥へと続く横穴を見つけていた。


「横穴……これ、のことですか……?」

「そうよ。獣型になれる子供なら、勇気を出して全速力で駆け抜ければ、猛毒の虫や蛇に襲われるよりも早く駆け抜けることができる。臆病な子供なら、この穴の底で泣き叫んで許しを請う。どちらにしても、反省を促すにはもってこいの場所」

「はぁ……なるほど」

「貴女は、戒も使えないし、獣型にもなれないんでしょう?ならば、助けが来るまでここでみっともなく泣き叫んでいればいいわ。もしも横穴から虫が這い出て来た時のために、情けでその刃物だけは使わせてあげる。脆弱な人間らしく、孤独に震えて、偶然誰かが発見してくれるのを待てばいい。せいぜい、助けが来るまで幼子のように反省しなさいな。ふふふっ――それまでに、吹雪が来て凍死しないといいわね?あぁ、勿論、世界に絶望したら、手元のそれで首を掻っ切ってしまっても楽になれるのよ?」

「――――……」


 なんだろう。

 ――清々しいまでに、小悪党の発言だ。


「はぁ……」

「なっ……何よ!!!」


 怯えて命乞いをするどころか、思いっきりげんなりしたため息を吐いたハーティアに、ビアンカは叫ぶ。

 ここまで来たら、もう、ビアンカにどれだけ気を遣おうと、彼女がハーティアを無事に外に出してくれるとは思えない。それならば、もはや過剰に顔色を伺う必要はないだろう。

 地面に突き立っている抜き身の短剣の柄を握り、一息で引き抜く。


「ビアンカさん。貴女がどれだけグレイに惚れているか、番になりたかったか――そのために血の滲むような努力をして、繁殖候補として認められたのか。とりあえず、理解だけはしました」

「ふっ……ふんっ!わ、わかればいいのよ」

「ですが――残念ですけど。……グレイについては、諦めてもらうしか、ありません」

「なっ――!?」


 手元で短剣の握り具合を確かめながら、ハーティアは淡々と言葉を続ける。


「私は、確かに貴女から見れば、戒も使えないし、獣型にもなれないし、人生経験もない小娘なんでしょう。貴女たちのように、鼻も耳も利かないですし。グレイに相応しくないと言われれば、まぁ、そうなのかもしれません」

「そ、そうよ!だから――」

「だけど、グレイは私を選んだ」


 ぴしゃり、と反論を遮り、言い切る。

 ビアンカが、息をのんで黙る気配がした。


「確かに、私を殺せば、番の座は空きます。制度的には、その状態でグレイが再び誰かの首を噛めば、新しい番が誕生するのでしょう。だけど――仮に私を殺したって、グレイは絶対に貴女を番にすることはない。……いいえ。きっと、生涯、誰かを第二の番にすることなどないでしょう」


 もはや、この世にハーティアの血をわずかでも継いでいる存在は、どこにも存在しない。

 ハーティアが今、自分の子供を残すことなく命を落としてしまえば、グレイにとって、彼が唯一無二の”番”と決めた存在が、再び現れることは、永遠にないのだ。


(その絶望に苦しみ、慟哭するグレイのことを、考えたことも――想像したことすら、無いんでしょうね。この人は)


 ビアンカはいつだって、輝かしい伝説の<狼>の長であるグレイしか見ていない。

 <狼>の行く末を本気で憂いて、心を砕き、我が子同然の同胞の死を見送っては哀しそうな瞳をして、それでも種族のためにと孤独を周囲に悟らせぬように生きてきた、グレイの悲しみも、孤独も、真の強さも、何一つ見ていないのだ。

 一度手に入れたら、狂愛と揶揄されるほどの重たい愛を所構わず注ぐほどに、どうしようもないほどハーティアの魂を持つ人間に惚れていたくせに――千年、何度彼女が生まれ変わろうと己を律して一度だって交流を持たず、その魂の幸せを願い、ただ遠くからこっそりとほんの少しの特別扱いをするだけで見守るにとどめていた男なのだ。


「貴女は、訳知り顔でグレイのことを語りますが――その実、グレイのことを、何一つ知らない。本当のグレイのことを、本当に、何にも。……だから、残念ながら、グレイと番になることは諦めてください。貴女もまた、グレイの番に相応しい存在とは思えないので」

「なっ――ん、ですって――!?」


 怒りに満ちた声が降ってくるが、ハーティアは言葉を訂正するつもりはなかった。


「お前っ――本当に、殺すわよ!!?」

「……やめておいた方がいいと思いますよ。私、そうそう簡単に死なないみたいですし――何より、私を殺したりしたら、グレイが黙っていない。怒りに我を忘れたグレイに、一族郎党惨殺されるご覚悟があるなら、どうぞご自由に」


 その恐怖の片鱗は、以前彼女がハーティアに危害を加えようとしたときに見ていたはずだ。

 思い出したのか、ビアンカがひゅっと息をのんだ気配が伝わる。


「ことの重大さに気が付いたなら、元の場所に戻してもらえますか?騒ぎになる前に帰らないと――」

「っ……うるさい!うるさいうるさいうるさい!!!」


 ビアンカのヒステリックな叫びがこだまする。


「私はっ――私は絶対に、お前みたいな存在モノ認めないから!!!」


 ふぉんっ……


「――へ?……え、ちょ、ビアンカさん!?」


 清々しいまでの捨て台詞を吐いた後に、聞きなれた音が響いて不安になり、頭上に向かって叫ぶが、返事はいつまで経っても返ってこない。

 どうやら、ハーティアを置き去りにしたまま、どこかに転移してしまったらしかった。


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