第4話

「準備は出来たか?ティア」

「うん。……でも、本当に、こんなに厚着する必要ある……?」


 もこもこと少し動きにくい、自分の持ち物の中で最も暖かい外套を着込んで、ハーティアはグレイを見上げる。首元まで毛皮でしっかりと覆われ、頭には帽子を、手には手袋を着用し、完全防備の姿だ。


「ここよりさらに北に位置する場所だ。まして、今は冬。とても寒い。風邪をひいては敵わぬからな」


 きゅ、とグレイはハーティアが着込んだ外套の襟もとをさらにしっかりと合わせるようにしながら、過保護の極みのような発言をする。


 ビアンカの予期せぬ来訪から数日後――

 グレイはこちらの仕事に都合をつけ、宣言した通り、白狼の群れに直接赴き、ハーティアについて説明することにした。

 きちんと群れの皆に紹介するのが筋だろう、とハーティアも伴い、訪れるらしい。


(……マシロさんが聞いたら、絶対ついて行きたいって言うだろうな……)


 噂によると、白狼は美形が多いらしい。グレイはもちろんのこと、先日見たビアンカの造形もまた、確かに息をのむほど美しかった。

 ”整った顔の造形フェチ”を自称するマシロからすれば、その群れに行けるとなれば垂涎ものだろう。

 勿論、様々な事情で、敢えて行き来を制限しているのだから、マシロを連れて行くことは出来ないが、せめてこの目に焼き付けて、たくさんの土産話を持って帰ろうと心に誓う。


「そう言えば、私って――風邪、ひくのかな……?」

「む?……ふむ。まぁ、引くだろう。我らは確かに規格外の長寿と治癒の力を持っているが、内発的な不調には強くない。毒物――腐った肉などが顕著なものだが――を体内に入れたりしたときがわかりやすいな。死に至ることはないだろうが、苦しみはする」

「そうなんだ」


 手袋で覆われた手を見下ろし、ぎゅっぎゅっと握りながら、実感の沸かない呟きを漏らす。

 何となく、自分の身体に起きた異変については話に聞いて概要を理解しているものの、正直なところ、まだあまり実感がないというのが現状だ。


「まぁ、寒すぎて風邪の菌すら殆ど活動が出来ないような地域だから、大丈夫だとは思うが――念には念を入れた方が良い。お前が苦しむ姿など、私は決して見たくない」

「相変わらず、過保護なんだから……」


 ぎゅっと更に帽子をしっかりと被せて耳まで覆おうとするグレイに、呆れながら呟く。

 きっと、ハーティアがなかなか自分の身体に起きた変化について実感出来ないのは、真綿で包むようにしてこの世の全ての害悪から少女を守ろうとする過保護なこの男のせいだろう。


「では、準備は良いか?」

「うん」


 頷くと、すっとグレイはハーティアの腰に腕を回して抱きしめる。手を触れさえすれば十分事足りるはずなのに、グレイはいつも、ハーティアを伴って転移するときは必ず、こうしてしっかりと抱きしめてくれるのだ。


 ゴキンッ

 ふぉんっ……


 耳慣れた合図とともに、目の前の景色があっという間に塗り替わる。


「わぁ――!」


 ひゅぉおおおお……と耳元で風がうねりを上げる。風に飛ばされぬように帽子をしっかりと手で押さえながら、ハーティアは感嘆の声を漏らした。

 目の前に広がるのは、見渡す限り一面の銀世界。

 ハーティアが棲んでいた<月飼い>の集落でも、雪が積もることはあったが、ここまで綺麗で広大な銀世界を見ることは非常に稀だ。


「すごい、綺麗――!」

「寒くはないか?」

「さすがに、ちょっと寒いけど――でも、大丈夫!」


 鼻の頭を赤くしながら、腕の中で興奮した様子のハーティアに、グレイは愛しそうに瞳を緩める。

 グレイにとって、ここは故郷と呼ぶほどの親しみはないが、それでも、同胞が住まう大切な場所であることは変わりがない。

 その場所を、愛しい番が気に入ってくれたことは、彼にとっても喜ばしいことだった。


「さて……群れのど真ん中に転移をすれば容易いのだが、それだと周囲を驚かせてしまいそうだからな。風はあるが、吹雪ではない。視界も良好だから、問題はないだろう。……少し歩くぞ」

「うん」


 問題ない、と言いながらも、ぎゅっとはぐれぬように手を握って歩き出すグレイに頷いて、ハーティアは物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回す。


「ここ、随分と広いけど――夏だと、草原とかなの?」

「そうだな。子供たちの遊び場になっていることも多い。奥に見える林が、食糧を調達するための主な狩り場だ。群れの入り口は、林を入ってすぐくらいのところにある」

「へぇ……」


 ザク、ザク、と積もった雪を踏みしめながら、危なげなく歩くハーティアに、グレイはふっと笑みをこぼす。

 さすが、山の中で大人に交じって狩りをして駆け回っていた少女だ。雪の中の歩き方も心得たものらしい。

 キラキラと目を輝かせて、まだ見ぬ白狼の群れへと想いを馳せていた少女は、ふと、気になっていたことを尋ねた。


「そういえば――グレイは、いつも、指を鳴らすだけで戒を発動するよね?」

「む?……あぁ、そうだな」

「あれって――実は、凄いことなの?」


 ハーティアが見たことがある白狼の戒は、グレイとシュサだけだった。

 グレイは指を鳴らすだけで戒を発動し、シュサは視線を飛ばすだけで発動する。


「族長の皆も、一瞬で発動してたから、てっきり戒ってそう言うものなんだと思ってたんだけど――ビアンカさんを見て、気になって」

「あぁ……ふむ。よく見ているな。良い着眼点だ」 


 幼子を指導する年長者の口ぶりでそう言って、グレイは解説する。


「察しの通り、族長たちが一瞬で戒を発動するのは、奴らが戒の扱いに秀でているためだ。戒を発動するには、集中力と体力が必要になる。それを、一瞬でやってのけるのは、並大抵の練度ではない。だからこそ、族長という立場に収まっている」

「へぇ……じゃあ、シュサさんも?」

「そうだな。本来の属性ではない戒であれを叶えられるのは、練度だけではなく、体力の問題も大きいとは思うが」

「た、体力……?」


 言われている意味が分からず聞き返すと、グレイは一つ頷いて、簡単な戒についての講義をする。


「戒を扱うには、体力がいる。大掛かりで強力な戒を放てば、疲労で昏倒することもある」

「そ、そうなの……?」

「修練を積んで、練度を高めれば、少ない体力で威力のある戒を放てるようになるのだが――それでも、代償無しで放つことは出来ない」

「な、なるほど」

「それぞれ、戒には特徴がある。白狼の戒は、ただでさえ、世界に及ぼす範囲が大きい。普通の転移にしても、物資を丸ごと動かすのだ。他の<狼>たちが使う戒よりも体力を使うせいで、技の威力を適切に調整するには相当な集中力と練度が必要になる。長や、代理統治者に選ばれるレベルの練度であれば、それでも即座に発動できねばならんだろうが――ビアンカのあれは、そもそも体力の少ない雌ということを加味しても、あの年齢にしては十分優れた発動速度だろう」


 確かに、ビアンカが戒を発動しようとしたとき、ひゅぅ――という風が啼くような音が響いて、一拍遅れて発動していた。

 雌の中で最も優秀だという栄誉に等しい候補者の資格を得ている彼女だ。きっとそれは幼い頃から血の滲むような努力を重ねた結果なのだろう。

 だが、本来の属性は番から貰った黒狼の戒の筈のシュサが、優秀なビアンカよりも――族長クラスでなければ到達出来ないと言われるレベルまで――扱いに長けているのは、どうしてなのか。

 ハーティアのもの言いたげな視線を受けて、優しくわかりやすい表現でグレイは講義を続けた。


「そもそも、始祖から特別に力を貰った私たちが睡眠も食事も必要としないのは、体力が果てしないせいだと思っている」

「へ!!?」

「どれだけ消費しようとも尽きぬ体力のせいで、腹も減らぬし、休息を必要としない。……だから、どれほど大掛かりな戒を連発しようと、私もシュサも、平然とした顔をしていられる」


 ぱちぱち、とハーティアは驚きに瞬きを送る。

 寒い北風を気にした様子もなく、グレイも雪の上を危なげなく足を進めながら続けた。

 

「シュサは、他の<狼>たちと違って、修練する期間が千年近くもあった。さらに、若い頃から『狼狩り』の戦場に身を置いていた。今の平和な世の中で極めるよりも、必然性も異なれば覚悟も実戦経験の量も全く異なる。勿論、優秀だった<朝>に何かしらの教示を受けただろうし、本人の元々のセンスもあるだろうが――こと体力消費が大きく圧倒的に扱い辛い白狼の戒の扱いを、事も無げに操って見せるのは、無尽蔵の体力が背景にあるだろうな」

「じゃ、じゃあ、私が戒を使おうと思ったら――」

「勿論、有事の際に困らぬよう、私がしっかり、即時に発動できるようになるまで手取り足取り教える前提ではあるが――少なくとも、一般の白狼のように、残りの体力を気にして調整のために集中力をすり減らす時間は必要ないだろうな」


 講義は終わりと言うように、ぽん、とハーティアの頭に手を置いて、よしよしと撫でる。

 

「肉食を主とする我ら<狼>は、冬の間は飢えが出ぬよう、より注意深く暮らさねばならない。繁殖期もあるせいで、気が立つ個体も多くなり、トラブルも起きやすい。仕事が立て込むだろうから、お前に戒を教えられるのは春になってからだろうが――なるべく早く、始められるように努力しよう。それまでは、どんなことがあっても私が必ずお前を守ると約束する。お前はただ、安心して私の傍にいればいい」

「う……うん……」


 安心して傍にいると、もれなく身体を求められるため、出来る限り早く一人の時間を確立したいところなのだが。


(……あれ?もしかして、グレイがなのって、その無尽蔵の体力があるせい……?)


 恐ろしい考えが脳裏に浮かんでしまい、プルプルと頭を振って追い出す。

 違う違う。きっとあれは今が繁殖期だからだ。この冬が終われば終わる悪夢なのだ。だから、もう少しだけ耐えれば希望が見えるのだ。

 必死に自分で自分に言い聞かせていると、ぐっとグレイが手を引いて、顔を上げさせる。


「ほら、ティア。見えて来たぞ」

「わ――本当だ……!」


 グレイが指さす先には、白狼が棲む美しい街並みが広がっていた。

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