第5話・嵯牙 黎紫という男
朝の光の中に。
そこだけ底なしの闇穴が浮かんでいるような───黒い、黒い……真っ黒な髪。
妹の玲亜は真っ直ぐに伸びている赤茶色の髪なのに比べて、黎紫のそれはゆるり、ふわりとうねりのある、少し長めで柔らかそうな髪質で、額や耳や着物の襟に髪はふんわりと流れていた。
そして、玲亜とよく似た目元。けれどその色は一見、髪色と同じに黒いのだが、見つめると時折、瞳の中に小さな緋色が妖しく光り、チラチラと浮かんでは消える……。
なんて不思議な眼をしているんだろう。
今まであまり、こんなに間近で黎紫を見つめたことなどなかったせいか、ひよりは緊張で身体が固まっていた。
彼の威圧感もさることながら、武仙らしさのある雄々しい風貌だけでなく、その面立ちには華のある艶やかさと妖しさが存在し、見る者を惹きつける。
嵯牙 黎紫はそんな青年だった。
……のだが。
今は着物に帯も締めず、はだけた胸元などがやけに目立ち、ひよりにはとても直視できない格好の黎紫が目の前にいた。
ひよりは目のやり場に困って俯き、手にした帯を黎紫に差し出した。
「こ、これ! 帯ですッ」
ひよりが差し出した帯を、黎紫はスルスルと引き抜きながら腰へ巻いた。
「あ、失敗した」
不意に黎紫が呟いた。
「は?」
顔を上げたひよりに、黎紫は口を尖らせて言った。
「帯だよ。那峰に締めてもらえばよかった。よし! 明日からそうしよう。頼むね」
見る者を魅了するかのような、屈託のない微笑なのに。
ひよりはなぜか無意識に後退っていた。
「どうした? 那峰」
「いえ、あの隊長。どうして私が隊長の目覚まし係なんですか? 蘭瑛さんが隊長からのご指名だからと」
「そりゃ、男より女の子に起こしてもらった方がいいからに決まってるでしょ。ランの奴はああ見えてわりと几帳面でうるさいんだよね。諒は無愛想だし、莉玖は可愛いけど、男には萌えなくて。───うん。やっぱり、男に世話焼かれるより女の子にお世話される方が、俺は好きだし」
お世話……って。
「私は単なる賄いですが」
「うん。でももう決めたし。頼むね、那……えっと、ひよりちゃんだっけ? ……にしても」
ふわぁ~。と、
黎紫はまた大あくび。
「寝みぃ。かったりぃ。やっぱ起きてなきゃダメかな。
こう言って黎紫は部屋の隅に置かれた革張りの長椅子に腰を下ろし、そのままだらしなく寝そべる。
「隊長~。そんな格好してたらまた寝ちゃうじゃないですか。もー、ダメですよ!起きてください」
寝転がるなッ!
ひよりは心の中で叫びながらも、仕方なく黎紫の衣服を拾い上げた。
黎紫が眠り込まないか、時折チラチラと視線を向けながら。
寝起きの眼差しはぼんやりしているが、蘭瑛曰く「ときとしてその瞳は、居合わせた者を竦ませるほどの威圧感を帯びるときがある」───のだと聞いたことがあった。
ちょっと信じられないけど。
ひよりがここで日々を過ごすようになって感じた黎紫の印象は、面倒くさがり屋でぐうたらさん。
朝に弱く、昼間も大抵はゴロゴロしていて寝るの大好き!という武仙なのだ。
───やれやれ。
散らかっていた衣服をたたみ部屋の隅に据え、ひよりは黎紫に向いた。
わっ。寝てる!?
黎紫は目を閉じていた。
「あの、隊長」
ひよりは近寄って黎紫を覗き込んだ。
わぁ。なんて長い睫毛。羨ましい。
面立ちの造形美に見惚れた瞬間、黎紫がパチリと目をあけた。
「片付け終わった?」
「ぉぅわ っ、はっ、いっ!おわりましたッ」
ひよりがしどろもどろで答えると、黎紫はマジマジとひよりを眺めて言った。
「いつも三角巾してるから判らなかったけど、髪わりと長いんだね。それから今朝はダルマちゃんにも太リスにも見えない。こっち来た頃は寒かったから、ずっと着膨れてたけど。着膨れてなくても、ひよりちゃんは仔リスみたいで可愛いなぁ」
妖艶に笑う黎紫の顔を直視できないうえに、頬は熱くなるわ鼓動は早くなるわで、ひよりはどうしていいのか分からなくなる。
でもかろうじて分かるのは。
この人なんか危険!
この人なんか苦手!という意識だ。
そんな、赤くなったり青くなったりしながら目を合わせようとしないひよりを愉しむように眺めながら、黎紫は言った。
「なぁ、ひよりちゃん。明日からあんな無理して大声出して起こさなくてもいいから。俺の枕元で普通に朝ですよ、って言ってくれたらいいんだからさ」
「でも隊長、そんなんでしっかり起きられるんですか?」
「うん。大丈夫」
「はぁ……。わかりました」
起きてくれるなら。
……でも本当に?
わかりました。などとついうっかり言ってしまってから、ひよりは少し後悔したのだが。
もう遅い。
ニコニコと自分を見つめる黎紫に、ひよりは困惑しながら言った。
「そろそろ顔を洗って居間に行ってください。瀬戸さん達も朝稽古から帰ってくる頃ですし。隊長は今日、午前中から班隊会議ありますよ。ピシッと起きてくださいね」
「ああ……俺それ出ない。パス。そーゆーの面倒くさいし。いつも蘭の奴に出てもらってるからいい」
「そんなのダメです!」
「え、だめ?」
「当たり前ですよ。隊長なのにすぐそんなこと言って。もっと隊長らしくしてください」
黎紫はつかの間呆け、それからふはっと苦しそうに笑いだした。
「それ命令? ひよりちゃんが俺に命令すんの? 賄い部員が隊長に命令できると思ってんのかな、仔リスちゃんは」
身体を起こした黎紫がひよりの腕を掴んだ。
「俺は好きで隊長やってるわけじゃないんでね。いつ辞めてもクビになってもいいと思ってんの」
痛むくらいの力を腕に感じてひよりは焦った。
お、怒ってる⁉
私、隊長を怒らせた⁉
「あ……のっ、すみません! 命令なんかじゃ……」
「なぁんてね。それお願い?」
「は……?」
「隊長らしく行動してほしいっての、ひよりちゃんからのお願い?」
黎紫はひよりの両腕を掴んだまま身を寄せてきた。
そして、ひよりの耳元に唇を寄せて呟いた。
「ひよりちゃんのお願いなら、聞いてあげてもいいけど」
心臓が驚いたように跳ね、ザワザワとした感覚がひよりの身体を這い上がった。
「ごっ、ごめんなさい! 隊長ッ。ぁあ、あのっ、気を悪くさせたのならすみませんっ! 私みたいな者が差し出がましい事を言ってっ。そ、そんなにっ、怒らないでくださいっ」
───うぅ。どうしよう。
「怒ってないし。そんなに謝らなくてもいいんだけど?……もしかして怖かった? えっ、震えてるの⁉─── ああ、ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだよ」
黎紫の手がゆっくりとひよりの頬に伸びようとしたときだった。
「兄さま!」
ばったーん‼
物凄い勢いで戸が開けられ、眉を吊り上げた形相で玲亜が部屋に入ってきた。
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