第26話
氷岬からのSOS。俺は内心焦りながら汐見に謝った。
「悪い汐見、急用ができた。この埋め合わせは必ずするから」
「え、急にどうしたの」
「悪い。説明はちゃんとするから」
俺は血相を変えてカフェを飛び出す。いったい何があったのか。
大慌てで家に帰った俺は氷岬の姿を探す。レインから電話をかけてきたということは家にいるはずだ。
リビングにはいない。2階にもいない。いったいどこにいる。
「残すはここだけか」
探していないところは風呂場を残すのみとなった。一応確認しておくか。風呂場のドアを開ける。
「…………」
赤面した氷岬が一糸まとわぬ姿で風呂場の奥で立っていた。片腕で胸元を隠し、タオルで股間を隠している。俺は慌てて顔を逸らす。
「なんで風呂に入ってるんだ」
「掃除をしていたら失敗してしまって。汚れたからシャワーを浴びようと」
「それでなんで俺を呼び出した」
「そこにゴキブリが出たのよ。私、虫が苦手で。動けなくなってしまって。刺激するのも無理だからシャワーも浴びれなくなってしまったの」
氷岬の指差す先を見ると、確かに入口付近、つまり俺の立つすぐ横にゴキブリがいた。
「とにかくこれで体を隠してくれ」
俺は極力見ないように注意を払いながら氷岬にバスタオルを投げる。氷岬はバスタオルで体を包むとふっと一息吐く。
「ゴキブリぐらいで大袈裟だな。俺と汐見の仲は邪魔しないって言ってたのに。おかげですっぽかして帰ってくる羽目になったじゃないか」
「ごめんなさい。でも動けなくなってしまったのだからしかたないじゃない。このままじゃ風邪を引いてしまうわ」
確かに素っ裸で俺が帰るまで何時間も待っているのも地獄か。
俺はリビングに戻るとティッシュの箱を掴むと風呂場に戻る。壁に張り付いたゴキブリをティッシュの箱で叩くと、床に落ちた。ティッシュでゴキブリの死骸を摘まむと、ゴミ箱に捨てる。あっさりとゴキブリ退治は完了した。
「これでいいのか」
「うん、その死骸が落ちたところはシャワーで流すわ」
そう言って氷岬はシャワーを流す。氷岬は本当に怖かったのか、鳥肌が立っていた。
「とにかくさっさとシャワー浴びて出ろよ」
「うん、ありがとう」
俺は風呂場から立ち去ると、リビングでくつろぐ。せっかくの汐見とのデートが台無しだ。汐見、怒ってるだろうな。ほっぽって帰っちゃったんだからな。怒って当然だ。
「どうして氷岬を優先しちまったんだろ」
俺はため息を吐きながら、レインで汐見に謝罪のメッセージを送る。すぐに既読は付き、次回埋め合わせすることで話はまとまった。
また俺とデートしてくれる汐見って優しいな。
「来てくれてありがとう。それと、本当にごめんなさい」
シャワーを終えた氷岬が俺に頭を下げてくる。反省しているのか、少し声に覇気がない。
「ていうかお前、俺の部屋とか掃除したときにゴキブリぐらい出ただろ。そのときはどうしたんだ」
「スルーしたわ。刺激さえ与えなければ、襲ってはこないもの」
「ゴキブリはそもそも襲ってはこんだろ」
「飛んでくるじゃない」
氷岬はトラウマでもあるのか、肩を抱くとがくぶると震えた。
「それにお風呂場で遭遇するのとはわけが違うわ。こちらは一糸まとわぬ姿。気持ち悪さが段違いね」
そういうものだろうか。俺は別にゴキブリに対する苦手意識がないからわからない。むしろ長年共存してきた存在として認識している。
「汐見さん、怒ってないかしら」
「汐見には今度埋め合わせするから気にすんな」
氷岬がテーブルを挟んで俺と向かい合う。
「……本当はね。少し心細くなったの」
氷岬が突然告解を始める。
「最近は拓海くんがいつも一緒にいてくれたから寂しくなかった。だけど今日はこの家に誰もいない。静かな家って怖いのね。なんだか心細くなって掃除を始めたわ。君を呼び出したのは心細くもあったから。私の弱さね。本当にごめんなさい」
氷岬は両親に捨てられた。彼女の周りには寄り添ってくれる人は誰もいない。だから彼女は俺を求める。気付いてしまった。別に氷岬は俺を好きなんじゃない。俺に拒絶されて、家を追い出されるのが怖いのだ。
気付いてしまうと少しショックだな。悪い気はしなかったから。氷岬に迫られるのも、俺は迷惑だと言いながら、悪い気はしていなかったさ。ああ、認めるよ。
正直俺は氷岬のことが気になっているし、汐見とのデートをすっぽかすぐらいには気にかけてるんだ。だから、氷岬の真実を知った今、少し動揺している。
氷岬にとって俺はただの寄生先でしかない。
それでも俺は氷岬を救ってやりたい。拾ったからには責任を持つ。当たり前のことだ。
「……心配するな。俺はどこにもいかないし、お前をこの家から追い出したりもしない。家族の代わりをしろというならそれもする。だから、そんなに不安がる必要はない」
俺は氷岬の目を見据えながら、そう言う。
「本当に、いい人に拾われたわ。幸せ者ね、私は」
氷岬はそう言って微笑んだ。
「さーて、汐見とのデートはすっぽかしちまったし、俺は部屋に戻って勉強するよ」
「本当にごめんなさいね、今日は」
「まあ、いいけど」
そう言うと俺は2階に上がる。自室にこもった俺はベッドで大の字になると考える。
今日汐見とデートしてわかった。俺が汐見に対して抱いている感情はちゃんと本物だ。好きだって想いが溢れてきたから。だけど、俺は氷岬を優先しちまった。それはなぜだ。
氷岬に対しても似たような感情があるのは確かだ。もしかして俺、両方の女の子を好きになっちまったのか。どっちのほうが好きだとか優劣をつけるとしたら、現状は汐見に軍配が上がるとは思うが。だが、この先それが逆転するとも限らない。
俺の気持ちは、揺れている。俺の意志ってこんなにも脆かったんだな。
汐見と付き合えたら何も問題はない。両想いならハッピーエンドだ。だが、もし振られたら。俺は氷岬の優しさに甘えてしまうかもしれない。
だからといって氷岬の誘惑に乗って、結婚すればいいという話でもない。氷岬の本当の気持ちは別に俺に向いていない。それがわかっている。そんな状態で付き合っても、それは恋人同士とは何かが違う。依存関係というやつだ。
「だったらどうするのか」
俺は今自分の気持ちがわからずに揺れている。だが、今日デートして汐見への気持ちは本物だということがわかった。だったら、汐見に告白するのが答えなんじゃないだろうか。
そろそろヘタレるのも終わりにしないとな。色んな言い訳をして、告白を先送りにするのはもうやめだ。今日、俺は氷岬の電話がなかったら言えていただろうから。
「次のデートで俺は汐見に告白する」
俺は拳を強く握った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます