第4話

 ベッドから転げ落ちそうになるのを何とか堪えたネリネは、裏返りそうな声をなんとか抑えて返した。


「すみません、あまり食欲がないので、今日はちょっと……」

「……」


 ドアの向こうの悪魔はどんな顔をしているのだろう。しばらくして聞こえてきたのは穏やかな声だった。


「そうか。何か欲しい物があったら遠慮せずに言うんだよ」


 少しだけ寂しそうな声音に良心がチクリと痛む。だがすぐにハッとして自分に喝を入れた。あんなもの演技に決まっている、そもそも悪魔が作った食事など恐ろしくて口にできるものか。

 気配が去っていったのを見計らい、今後の生活を考える。


(明日から料理はわたしが作る。洗濯も触らせたくないから自分でやる。あの悪魔は掃除が苦手と言っていた?)


 その仕事量を思ったネリネは重たいため息をついた。これではシスターとして来たのか、メイドとして来たのか分からない。


 その晩は一睡もするまいと頑張っていたのだが、旅の疲れもあってか、結局日付が変わる頃には意識を手放してしまった。

 夢は見なかった。見たとしても到底愉快な物では無かっただろう。


 ***


 翌朝、日の出前にガバリと起きたネリネはいつの間にか眠ってしまった事に絶望した。だが、心身共に異常が無いことを確認するとホッと安堵の息をつく。きっと魔除けアイテムが効いたのだろう。教皇からじきじきに賜ったものだ、効かないわけがない。


 過ぎたことを悔やんでも仕方ないと、気持ちを切り替えてテキパキと行動する。シスターの仕事は山のようにある。まずは掃除、手始めに教会全体の汚れ具合をザっとチェックし、区画を七つに分けることにした。一日ずつ綺麗にしていけば一週間で無理なく一回りできるはずだ。

 次に、急病人用の備品とリネン類のチェック。この国では医者のいない地方は教会が病院も兼ねており、ケガや病気の者が出たらここで面倒を見る事になっている。故にシスターや神父は最低限の応急処置の知識が必要とされる。聖女候補であったネリネとてそれは例外ではなく、エーベルヴァイン家にて一通りの学を修めていた。

 常備している薬の中で、いくつかダメになっている物があったので、後で本部に手紙を書くことを頭のメモに書きとめておく。

 その頃になるとだいぶ日も昇ってきたので、教会の仕事は切り上げて街へと繰り出す事にした。朝食の買い出しと、これから必要になるであろう当面の雑貨を購入するためだ。人見知りなどと言っている余裕はない。


 ――だからさ、アレは絶対に聖女候補だった人だよ!

 ところが、商店通りに差し掛かった時、曲がり角から聞こえて来た単語にネリネは足を止めた。何もやましいことは無いのだが、出ていくのが躊躇われて建物の影に身を潜める。そうっと顔を出して様子を窺うと、昨日、面識を済ませたパン屋のおかみが村の女たちに興奮した様子で力説しているところだった。


「教会に新しく来たシスター! アタシゃ一度ミュゼルで見たことがあるんだよ。あんな灰色の髪、見間違えようがないね」

「じゃああのウワサは本当なんかね、ライバルのジル様を影で虐めてたってのは」

「だってそうでもなきゃ、こんな田舎村なんかに来るはずないよ。きっと左遷されてきたんだよ、左遷!」


 ドクン、ドクンと鼓動が嫌な動きを始める。

 表向き、コルネリアは自分の力不足を理由に聖女を辞退したことになっている。ところが、娯楽の少ないホーセン村ではそこにずいぶんと尾ひれがついてしまっているようだ。パン屋のおかみは口から泡を飛ばしながら続ける。


「きっと呪い殺したに違いないよ! 昨日、目が合ったんだけどさ、じぃっとそこに突っ立ってるだけでニコリともしないんだよ。アタシゃゾーッとしちまったね」

「いやだねぇ薄気味悪い。クラウスさんをたぶらかすんじゃないだろうか」

「アタシらがしっかり見張っておかないと!」


 覚悟はしていたが、想像以上に平穏への道のりは遠いようだ。痛む胸を押さえたネリネは、そっとその場を後にする。まだ店の準備も整っていないようだし午後に出直そう。きっと売りはしてくれるはずだ。しかしその腹の底では……。


(わたしがもっと明るかったら、あんな事言われずに済んだのだろうか)


 落ち込みながら教会への道をたどる。キィと門戸を押し開けると昨日と同じく薔薇の茂みの前に悪魔が居た。気配を感じた彼はこちらに振り返る。


「おはようネリネ、昨日はよく眠れたかな?」

「……おはようございます」


 ニコリともしないで返すが、クラウスは特に機嫌を害した様子もなく薔薇の剪定作業に戻った。鼻歌なんて歌いながら楽しそうにする彼に、先ほどまでの落ち込みも手伝ってムッとしてしまう。自分が朝から掃除や点検に走り回っていたのに呑気なものだ。


「花はいいよ、荒んだ心を慰めてくれる」

「はぁ」


 確かにこの教会には花が多い。だが花を愛でる悪魔とは何事だろう。この世で最も結びつかない組み合わせではないだろうか。

 パチンと言う音で我に返る。薔薇のつぼみをクルクルと回してトゲを落とした悪魔はこう続けた。


「癒しが、今の君に一番必要な物じゃないかな」

「……」


 誰が傷心だと言うのか。違う、わたしは傷ついてなどいない。全ては自分の至らなさが招いた結果なのだ。

 少なくとも悪魔こいつにだけは弱気なところを見せてなるものかと睨み付けていると、クラウスはこちらにやってきた。そしてネリネが抱えていた荷物の上に薔薇のつぼみをポンと置く。見た目を裏切らず、緩みかけた花弁からは甘い香りが漏れ出ていた。思わずのけぞる姿勢になるネリネを見て、悪魔は小さく笑う。


「まだ信用できないって顔だ。でもね、私は本当に君と仲良くしたいと思っているんだよ」


 何を言おうか迷っているうちに、彼は鼻歌交じりに行ってしまう。残されたネリネは少しだけ眉間にシワを寄せた。確かに甘い香りはささくれ立っていた心に沁みるようではあったが……うさん臭い事この上ない。この薔薇も何かの呪術では? たとえば、誘惑の罠とか。


(ヘンな悪魔……)


 しかし、ほころび掛けた花を無碍に捨てるのも忍びなく、散々迷った後、つまみ上げた手をできるだけ遠ざけるようにして持ち運ぶことにした。花に罪はない。確か食堂に埃をかぶっている花瓶が転がっていたはずだ。


 ***


 それから半月ほどが経ち、警戒しながらもシスターとしての生活基盤は順調に整っていった。村人からは相変わらずよそよそしい態度を取られたが、事情を知らない子供たちの中には懐き始めてくれる子も出てきたし(今日なになにがあったと一方的に話をする聞き役になるぐらいだったが)愛想のないシスターになら何を話しても漏れないだろうと、彼女がいる時間帯を狙って懺悔室の利用が少し増えた。……複雑である。


「主はいつでも私たちのことを見守っていて下さいます。善い事も、悪い事も、全てを見ておられるのです」


 そして悪魔のクラウス。この半月で観察していて分かったのは、彼が神父として非常に優秀だと言うことだった。こうやって週に一度行なっている説法は実に堂々としているし、悪魔だと知らなければ、落ち着いていて包容力のある男性に見えなくもない。かもしれない。

 村人たちの悩みを聞いては助言をするなど、この村の精神的な拠り所になっているようだ。自分から会話を振れないネリネに対しても、事細かに様子を尋ねてくれる。


「どうだい? だいぶここの生活にも慣れて来たみたいだね」

「おかげさまで」

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