第36話
ナディアはゆらゆらと上下に感じる揺れに目を覚まし、辺りを見回した。窓はひとつ。部屋の隅に麦酒の空瓶やら缶詰が無動作に積み重ねられている。反対側には箒や大きなゴミ箱。頬にあたる床は埃っぽくてざらついている。
(物置き場のようね)
まだ重く痛む頭を持ち上げる。潮の香りが強く、ふわりと浮くように揺れる床から、どうやら船の中にいるようだと思った。
手は前で縛られているけれど、足は自由だ。腹筋を使い軽々と身体を起こすと、さて逃げるべきか、暫く様子をみるべきかと考えている。
すると、扉がいきなり開けられた。鈍い光とやや冷たい空気が部屋に入ってくる。
「起きたのですね。夕食までもう少し時間があります」
ニコリと微笑む自分と同じ紫色の瞳を、ナディアは初めて思い切り睨みつけた。プリシラの胸元にはダイヤモンドのネックレスが輝いている。
その後から副司教のロドリックが姿を現した。
「お久しぶりです。ナディア様」
「やっぱり、教会が絡んでいたのね」
「あなた達が大人しくしていれば、ここまでのことは考えませんでした。お父様もあなたには実に失望されておりましたよ。長年私達とお父様で作り上げた金脈を、頼まれてもいないのに調べ上げ暴くとは、まったく余計なことをしてくれたものです」
(私には失望した……。不正を働いていた男にそんなこと言われてもね)
ナディアの中で、父親に対する情がプツリと切れた。いつか認めて貰いたい、心の隅にあったそんな思いは跡形もなく消え失せていた。
そのあと浮かんだのは、青と黄色の瞳を優しく細めるイーサンの笑顔だった。少しだけ、鼻の奥がツンとしたけれど今は感傷に浸る時ではないと頭を切り替えて、目の前の二人を見据えた。
▲▽▲▽▲▽▲▽
イーサンは港から離れた岸壁の上を歩いている。
ルシアナの海岸線は半円状の湾となっている。南には灯台、中央の比較的曲線がなだらかな部分には港と市場がある。そして今イーサンがいる北側は切り立った岩場で普段は誰も寄り付かない。
海はいきなり深くなっているから、船を寄せることはできるけれど、気を抜くと岩にぶつかり穴が開くので、ここに船がつけられることはまずない。その岸壁に黒い船が強引に横付けされている。
イーサンは歩きにくい岩場をもろともせず、大きな歩幅で進みながら、風に靡く前髪を後ろに撫で付けた。
「なるほど、これが幽霊船の正体か」
青と黄色の目を鋭く細めながら呟く。
教会の一室からナディアは姿を消した。残されていたのは紙一枚。そこには、指定された場所に一人で来るようにと書かれていた。
崖の下にある幽霊船は、ナディアと酒場で呑んだ時に聞いた船だ。商館の印も、国の紋章もない正体不明の船だけれど、その持ち主はラビッツの働きで既に分かっている。
岸壁の淵まで辿り着くと二人の男がいた。
「剣を預かります」
一人がイーサンに手を差し出す。イーサンは剣を渡し軽く手を上げた。もう一人の男がイーサンの身体を触り、他に武器を持っていないか確認をする。
「男に触られるのは趣味じゃないんでね、早くしてくれ」
「他に武器はないようですね。では、船に案内します」
「ナディアは無事なんだろうな」
イーサンのオッドアイが男達を睨む、一人は半歩退いたが、もう一人は蔑むような目線を投げかけた。
「悪魔は滅びるべきだ」
胸の前に十字架がきらりと光った。なるほど、こいつは信心深いやつか、もしくは聖職者だとあたりをつける。
イーサンは男達に挟まれるようにして、岸壁から船へと渡された梯子を使い、船のデッキに降り立った。ガタリと大きな揺れがすると同時に碇があげられる音がして、船はゆっくりと沖へと進み始める。
「ナディアはどこにいる?」
再度、声を荒げると船の真ん中にある船室の扉が開き、純白のウエディングドレスを身に纏ったナディアがでてきた。手は前で荒縄で一つに結ばれているけれど、服に乱れはない。顔や腕など見える範囲にあざや傷がないのを確認するとイーサンはひとまずほっとした。
そして、ナディアの後から出てきたプリシラと副司教のロドリックを鋭い眼光で睨みつけた。
「イーサン様、申し訳ありません。私の不注意のせいです」
「気にするな。それから、ウエディングドレスがとても似合っていて美しい。司教もいることだし、今すぐ誓いをたて妻にしたいものだ」
イーサンがふわりと目を細めながらナディアを見る。
(眼帯をはずすと、おべっかがスムーズに出るんですね)
ナディアは喉元まで出かかった言葉を飲み込むと、デッキを見回した。
「イーサン様、私は貴方の妻になる前に真実を知りたいです。ロドリック司教、一人登場人物が足りません。彼もこの船に乗っているはずです」
「あぁ、それに関しては俺も同意見だ。……どうせその辺りにいるんだろう!? いい加減姿を見せたらどうなんだ!!」
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