第2話


(確かこのあたりのはずなのに……)


 ナディアは、騎士団の男達が話ていた『最近できた人気の酒場』を探して先程から何度も同じ道を行ったり来たりしている。道は広く、両側には煌々と灯りをつけた店が立ち並び、食べ物の良い匂いが漂ってくる。


 寄宿舎を抜け出したのはよいものの、彷徨う事三〇分。大通りから角を曲がった細い路地裏で目当ての看板をやっと見つけた。


 しかし、喜んで歩み寄るのもつかの間。


(あぁ、そう言うこと)


 なぜ同僚が自分を飲みに誘わなかったのかを理解し、小さくため息をついた。

 店の前では露出の多い服を着た女達が客引きをしていた。辺りを見渡せばこの細路地には似たような店がひしめき合っている。赤や黄色、緑といった目の毒になりそうな鮮やかすぎる看板や軒先を彩っている。


(いつもは飲みに誘ってくれる騎士仲間が、私に声をかけずにそそくさと出掛けていく理由はこれだったのね)


 せっかく見つけたのに当てが外れた。しかも、いつの間にか化粧の濃い女がナディアの腕に触れてきて、赤い唇で誘いをかけてくる。

 頬を引き攣らせながらその女の手をやんわりと振り解き、早足でもといた大通りへと戻った。


 ナディアが今いるのは、海に沿うように走る大通りのほぼ真ん中あたり。このまま大通りを南に進めば、大衆食堂に近い居酒屋が立ち並ぶ。なのでそこを目指して南下することにした。

 

 普通なら歩いて二十分程度の距離。

 しかし、不幸なことに今日は二隻の大きな船が着いたせいで、歓楽街は屈強な海の男でごった返していて大変歩きづらい。


 肩がぶつからないように気をつけながら歩いていると、壁のようにそびえ立つ男達の向こうに、チラチラと白いワンピース姿の女性が見えた。「明らかに道に迷いこんでしまって困っている」女性だ。


 この辺りはつい最近まで普通の飲み屋が並んでいた場所だ。行きつけのお店に行こうとしたら、娼館に変わっていたのかもしれない。


(大丈夫かしら。こんな場所に女性一人で)


 心配そうにその後ろ姿を見るナディアも女性一人だ。男装しているけれど、女性一人なのに変わりわない。


(さて、どうしようか)


 変な奴に絡まれる前に声をかけた方がいいかなと、紳士的に考えながら様子を見ていると、女性が一人の男とぶつかった。薄汚れた服を着た痩せた男だった。一言、二言話していると思ったら、男はいきなり女性の腕を掴み細い路地へと入っていく。


(あー、こうなる前に声をかけるべきだった。だから女性の一人歩きは危ないって!)


 眉を顰め軽く舌打ちをする。

 もう一度言おう。ナディアも一人歩き。しかも夜を満喫予定だ。


 しかし、女性としての自覚が少く、自己評価が低い。

 だからナディアは戸惑うことなく、彼女を助けるために二人の後を追い細い路地へと進んだ。


 果たして、男は女性を壁際に追いやり詰め寄っている。何か月も男達ばかりの船に閉じ込められていた餓えた狼だ。女が震える声で抵抗している。


(助けなきゃ) 


 男の手が女の身体を弄るように触れるのを確認すると、ナディアは素早く二人の間に割って入り男の手を掴み上げた。


「おい! 何だお前」

「嫌がっているだろう? 手を放せ。彼女は商売女じゃない」


 男は酒臭い息をナディアに吹きかける。赤らんだ顔は胡乱な目つきをしていた。


「煩いな!お前には関係ないだろう」


 そう言うと手を振りほどき、もう片方の手で作った拳をナディアの顔めがけて突き出した。ナディアは身を翻しそれを余裕を避ける。


「貴女はもう行った方がいい。今度何かあったら大声で叫べば店の人間が助けてくれるだろう」


 少し口角を上げながらそう言うと、女性ははっと顔を赤らめ、小さく「ありがとう」と言って走って行った。


「お前、随分なめた真似してくれるな。こっちは気が立っているんだよ! うん? よく見りゃ中々の美丈夫じゃないか。それならお前で……」

「無駄な時間は使いたくない」


 男が言い終わらないうちに、ナディアはそう言い捨てると背を向け、その場を立ち去ろうとした。


 明日からは公爵家で婚約者として暮らすことが決まっている。自由な夜は限られている。一分一秒も無駄にしたくない。ましてこんな奴に。


「おい! 待てよ」


 その言葉と同時に再び殴りかかって来た。ナディアは(やれやれ)と思いながら、振り向きざまに左足を軸として右足を振りぬいた。男の脇腹にめり込み、ぐぼっという鈍い音が聞こえた。


「これ以上は止めておけ。お前を痛めつけても意味がない」

「てめぇ、勝手なことを」


 男がもう一度殴りかかってくる。ナディアは今度は鳩尾に肘を打ち込んだ。さすがにこれは効いたようで、口から涎をたらしながら蹲った。


(さて、もういいだろう)


 軽くパンパンと手を叩く。


 その時だ。物陰から麦酒瓶を持った男が飛び出してきた。


(仲間がいたの?)


 気を抜いていたせいか反応が一瞬遅れた。ビール瓶が目の前に迫ってくる。


(まずい!!)


 そう思ったと同時に男が膝から崩れ落ちた。後ろから茶色い髪と伸びた髭でほとんど顔が分からない男が姿を現した。


「大丈夫か?」

「……あぁ、ありがとう」

「そんな細い体で無茶するなぁ」


 呆れ顔で男が呟いた。


「助かった。もう一人いるとは思わなかったから」

「間に合って良かった。それよりあんたこの辺りに詳しいか? ちょっと迷ってしまったみたいで。普通に飯と酒を飲みたいだけなんだけれど」

「……それならいい店を知っている。礼もしたいし案内するよ」

「おっ、それは助かる」


 男はそう言って、潮でパサついた茶色い髪の隙間から覗く青い目を細めた。手入れされていない口髭と、長く伸びた前髪で顔の半分以上はよく見えないけれど、ニカっと笑った口から見えた歯は白い。服装も、いかにも船の男といった麻のシャツに綿のパンツだけれど小綺麗な恰好をしていた。


(こんな風に自由に夜出歩いて、喧嘩して、会ったばかりの人とお酒を呑むなんてことはこれから先絶対にできない)


 だとしたら、偶然降ってわいたこの予想外の展開を今夜はとことん楽しもうと思った。


 妹に婚約者をとられ、代わりに悪魔と評判の男を押し付けられたのだ。これぐらいは十分許されるはずだ。





 数十分後、二人はやっと人込みを通り抜け、程よく混み合う店に入るとカウンター席に座り麦酒を頼んだ。


 今夜のテーマを「羽目を外すこと」としたナディアにとって、見知らぬ男と飲むのはテーマに相応しい行動だった。男と思われているのも都合がいい。


「俺はジルだ。あんた、名前は?」


 頼んだ麦酒を一口飲んだあと男は聞いてきた。ナディアはちょっと考えたあと


「そうだな、とりあえずバードンと呼んでくれ」


 と答える。明らかに偽名と分かる言い方に、ジルはやれやれと言った風に肩をすくめた。ちなみにバードンとは、昔読んだ冒険小説の主人公の名前だ。


 ジルは遠方からきた船乗りで、暫くこの港町に住むという。


「どんな国にいたんだ?」

「大きな国だ。全員黒い目に黒い髪。俺の髪や目を珍しがっていた」


 ジルの会話は面白かった。どうやらその国の要人に気に入られ、何度か一緒に船旅をしたらしい。


「いい奴なんだけどな」

「けど、なんなんだ?」


 含みのある言い方に、ナディアは先を促す。


「女に目がない」

「あー。貴人あるあるか」


 よく聞く話だ。


「隣にいるのに口説かないのは失礼だからと、見境なく声をかける」


 そこで男はナディアの顔を除きこんだ。


「あんた、綺麗な顔してるな」

「綺麗?」


 まるで初めて聞く単語のように、ナディアは首を傾げる。


「切れ長の瞳にすっとした鼻筋、薄い唇。バードン、お前化粧したら傾国の美人になるぞ」

「ぶっっ」


 ナディアは思わず酒を吹き出しそうになる。


(何、その評価? こんなきつい目に色気のない唇してるのに)


 ナディアは美の基準を一つしか知らない。愛らしい丸くぱっちりした瞳に、色香漂うぷるんとした唇。そう、プリシラのような女性がこの国では美人だ。


「何言ってるんだ!? 正気か?」

「ああ、本気だ。その涼し気な目元に朱を入れて、唇にも色を足す。それだけで白い肌が際立ち絶世の美人の出来上がりだ」


 ナディアは目を瞬かせた。そんな風に言われたのは初めてだった。愛想のない顔、可愛げのない顔と言われて育ってきた。


「うん、間違いなく俺の好みになるな」

「……悪いがその趣味はないぞ」

「安心しろ、俺もだ」


 屈託なく笑うその顔にナディアの頬も緩まった。そして頬が僅かに朱に染まる。ジルはその様子を見て、目を丸くして二度瞬いた。


 ナディアは赤く染まった頬を誤魔化すかのように呑むスピードをあげた。


 もともと今夜は飲もうと決めていた。決して弱くはないが、すでにナディア以上に強いジルにつられ、かなりの量を飲んでいた。


 次第に、頬はうっすら色づき、目は潤んでくる。指先についたソースを、濡れた半開きの唇から出た舌が舐めとる様子にジルは思わず目を奪われた。そして、男相手に何考えてるんだ。と慌てて頭を振った。


「……うん、どうした?」


 ナディアはその様子に小首を傾げて問いかける。


「いや、なんでもない。それよりそろそろ出るか?」

「好きにしろ。俺はまだ飲む」


 ジルはため息をつくと、諦めたように頬杖をついた。


「今夜出会ったのも何かの縁だ。こうなったらとことん付き合ってやる。愚痴があるなら聞いてやるよ」


 ジルはそういうと、自分の為に少し強い酒を、ナディアには水を頼んだ。


「おい、どうして俺は水なんだ」

「愚痴は聞いてやるから少し酔いを醒ませ」

「いやだ」


 ナディアはジルの前に置かれた強い酒を手に取り一気に飲み干した。


「ぷはぁー」

「おいおい。大丈夫か?」

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