8・破綻

 そのコインロッカーは、JR八王子駅の南口と北口を結ぶ通路にあった。帰宅時間をとうに過ぎたコインロッカーの周辺は、人通りの波が引いている。

 会社帰りに一杯呑んだサラリーマンで溢れるのは、数時間後だ。

 しかし彼らの目からも、コインロッカーの一角は目立つ。監視カメラの数も多い。事件が起きれば撮影データは証拠として保全されるから、注目を浴びる行動は絶対に取れない。

 柚が隠した鍵がこのロッカーのものであることは、比嘉の部下が10分もたたないうちに調べ出した。柚の行動範囲はそれほど狭かったのだ。

 それから、1時間が過ぎている。

 周辺の調査に時間を要したのだ。

 駅の連絡通路の通行量、監視カメラの位置とデータの保管場所、そして管理責任者を割り出して、万一トラブルが発生した際は録画データを処分する必要があったからだ。

 データの回収は必須だが、焦って失態を重ねるわけにはいかない。

 柚はすでに、充分に比嘉たちを振り回してきた。自殺願望に囚われていながら、頑迷に抵抗する意思も示している。隠し場所にどんな罠を準備しているかも不明なのだ。

 ましてそこは、衆人環視の真っ只中だ。最悪の場合、地元警察の幹部に圧力をかけてでも足取りを消さなければならない。狙いを隠したまま組織を動員するためには、慎重な根回しが不可欠だった。

 教団は、そのための人脈づくりを着々と重ねてきた。

 長年、寄付金の多くが組織防衛の基盤づくりの投資されている。すでに警察や警備幹部の一部も、教団の暗部が暴かれれば無事ではいられない立場に取り込んでいた。

 ロッカーを開くのは、少人数の方が目立たない。柚と比嘉、そして堤の3人だけが現場に向かうプランが立てられた。

 比嘉トレーディングのボディーガードたちには、駅周辺に散らばって周囲を監視する役目が与えられた。彼らはロッカーの中身が何かは知らされていない。ただ、比嘉の真剣さやこれまでの経緯から、組織の存続を脅かす爆弾であることは察しているようだった。

 しかし下準備を整えて現場に向かう直前に、時生が命じた。

「梨沙子、お前も一緒に行くように。スマホで、僕に映像を送ってくれ。不測の事態が起きた時は、憑依でなんとかする」

 堤が応える。

「わたしがやりましょう」

「いや、君はアクシデントに備えるべきだ。両手を開けて自由に行動できないとまずい」

 人数が増えるほど不自然な状況にはなるが、比嘉も納得した。

 安全策が多いことに越したことはないのだ。


       ※


 20分後には、彼らはロッカーの前に立っていた。幸い、他の利用者は見当たらない。

 比嘉は柚に命じた。

「開けろ」

 柚は鍵を握りしめたまま動こうとしない。

 と、さりげなくスマホのカメラを向けていた梨沙子が前に出る。

「あたしが開ける。なんか変な仕掛けをされてたらまずいから」そしてニヤリと笑う。「あたしが傷つくようなことは、させられないよね。ユズって、甘ちゃんだから」

 比嘉がうなずくと、梨沙子は柚の手から鍵を奪った。

 柚は無言で梨沙子をにらんだが、抵抗はしなかった。

 梨沙子がロッカーを開ける。

 中には大きめの赤いセカンドバッグが入っていただけだった。

 梨沙子がバッグを取り出してジッパーを開き、比嘉に中身を見せる。

「USBと写真のプリント。間違いない」

 比嘉がバッグを受け取ろうとした瞬間、ぐったりとうつむいていた柚が動いた。

 いきなり手を伸ばして梨沙子に突進する。

「返して!」

 梨沙子がバッグを抱え込む。

 と、柚が体当たりして梨沙子が突き飛ばされた。ロッカーに激突して、扉に頭をぶつける鈍い音がする。

 そのまま倒れ込んだ。

 数人の通行人が物音に気づいて、注意を向ける。

 あってはならない〝万一の場合〟だ。

 比嘉は一瞬、ためらったかに見えた。だがすぐに行動に移る。

 通行人の視線を浴びた瞬間に隠密行動を諦めたのだ。

 もはや強硬手段に訴えるしかない。それは、人目を気にする必要がなくなったことを意味する。

 比嘉は小さく舌打ちして、柚の腕を掴んだ。思い切り引っ張って、堤に向かって押し出す。

「こいつを抑えておけ」

 そして床に倒れた梨沙子からバッグを奪った。ジッパーが開いたままだったバッグから、写真が何枚か飛び出している。

 梨沙子は、気を失っていたようだった。

 比嘉は気にも止めずに、屈んで写真を集めた。そして背後の堤に小声で命じる。

「小娘の始末は手下に任せろ。お前は監視画像を消してこい」

 通行人たちは危険を感じたのか、近寄ろうとはしない。

 ある者は足早に去り、ある者はスマホを向けている。110番に通報している者もいるようだ。

 比嘉が中腰で振り返り、通行人に言った。

「なんでもないですよ。ちょっと気分を悪くして倒れただけですから……。カメラ、撮らないでね!」

 言葉付きは穏やかだった。笑顔さえ浮かべている。

 若い男がスマホを下げる。しかし、その表情には恐怖が張り付いていた。

 修羅場を生き抜いてきた比嘉の威圧感は、隠しようがないのだ。

 と、比嘉は何かの気配に気づいて、中腰のまま振り返る。

 傍に堤が棒立ちになっていた。全く動いていない。なぜか、意識を失っているかのように無表情だ。

 比嘉が繰り返す。

「ぼんやりするな! 早く画像を消せ!」

 それでも堤は動こうとしない。じっと比嘉を見下ろしている。

 そしてどこから取り出したのか、手に折り畳みナイフを握っていた。逆手で握った拳から、10センチほどの刃が突き出していた。

 傍に、柚が立っている。堤のナイフを見て、両手で口を覆っていた。

 比嘉が小声で叫ぶ。

「バカ、こんな場所でやるな!」

 比嘉は、柚を殺そうとしていると考えたようだった。

 通行人の前で、しかも監視カメラが記録している場所で手を下していいわけはない。

 堤がナイフを振り上げる。

 だがナイフが叩き込まれたのは、比嘉の背中だった。

 堤は無表情のまま、ナイフを深く差し込んでいく。

 比嘉が膝をつき、堤の手を振り払った。ゆっくり立ち上がる。

 ナイフは刺さったままだ。

 予想もしていない事態で、痛みを感じていないように見える。

「なんだ……?」

 背中に手を回そうとする。

 2人を呆然と見つめていた柚が、つぶやく。

「堤さん……そのデータをくれたのは、あなただったのね……」

 堤の目に光が戻る。だが、柚の言葉は届いていないようだ。

 ぼんやりと比嘉を見つめ、つぶやいた。

「比嘉……お前……ここで死ねよ」

 比嘉が、堤の殺意を確信する。

 その目に憎しみが爆発した。

「なんだと⁉」そして、情報漏洩の根源が堤だったことを理解した。「貴様が裏切り者だったのか⁉ データを売ったのか⁉ 誰に売った⁉」

 比嘉は瞬時に理性を失った。

 実業家の仮面が砕け、暴力的な地金がむき出しになる。

 身を捩りながら右手で背中のナイフを掴んで、引き抜く。

 堤はそれを見ながらも、立ち尽くしたままだった。

 攻撃も、逃げもしない。動こうとしない。

 そして比嘉は、堤の襟元を掴んだ。ナイフを握った手を、喉元に突き上げる。その目は、狂気を漂わせていた。

「この、恩知らずが!」

 それでも堤は棒立ちになったままだ。抵抗すらしない。

 全く無表情だった。

 堤の超然とした態度が、比嘉の怒りを加速させる。

 ナイフをグリグリと回しながら、さらに奥に突き刺していく。

 堤の口から、血の泡とうめき声がもれる。だが、何を言っているのか聞き取れない。

 比嘉の目に冷静さが戻った。

 だが行動は、変わらない。解き放たれた狂気は、止めようがないようだった。

 いったんナイフを引き抜き、今度は堤の左目に突き刺した。いったん手を離し、ナイフの尻を掌で押し込んでいく。

 先端は、確実に脳に突き刺さっているはずだった。

 比嘉の意識からは、他人の視線も監視カメラも消え去っていたようだった。

 比嘉が手を離すと、堤はぐったりと膝を折って前のめりに崩れた。

 比嘉は血まみれの堤を見下ろして、かすかに笑った。

「なんだ、このボケ……目をかけてやったのに……誰に買われやがったんだ……」

 柚がようやく悲鳴を上げた。

「誰か! 警察を!」

 呆然と見守っていた通行人たちが一斉に動き出した。

 ある者は逃げ去り、ある者はスマホに叫び、ある者は駅員を呼びに走る。

 外の道路から、ボディガードたちが飛び込んでくる。見張りが物音を聞きつけたようだ。

「社長!」

 1人が、床に転がって痙攣する堤を抱き起こそうとする。

「堤さん! どうしたんすか⁉」

 堤が何か言おうとすると、首を押さえた両手の間から鮮血がにじんだ。眼球はナイフに貫かれたままだ。

 もはや死は逃れられない。

 比嘉が冷静に命じる。

「逃げるぞ」

 手下たちが戸惑う。

「逃げるって……⁉」

「高跳びだ」さらに床を指さして指示する。「そこらに散らばってる物を残らず回収しておけ。証拠は一切残すな」

 自分は梨沙子が落としたスマホを拾って、小走りに出口に向かう。

 手下の1人、運転手だった男が慌てて後を追う。

 比嘉はスマホに声を殺して命じていた。

「時生! 俺は高跳びする。脱出の準備しておけ!」

 比嘉はもはや映像記録を消せるとは考えていなかった。

 まだ野次馬は多くはないが、もはや目撃者も消せない。ロッカー前が警察に封鎖されるのに10分もかからないだろう。死体の処分が望めない以上、監視カメラの映像に手を加えることなど無意味だ。

 可能な対処法はただ1つ。

 混乱に紛れて姿を消すことだけだ。

 その手配は日常的に整えている。

 行き先はバンコク。世界の混沌が折り重なって蠢く魔都だ。そこに辿り着けさえすれば、身を隠す方法は無数にある。

 金で協力するマフィアの幹部も、片手では数え切れない。

 警察の手配に先んじて通常の国際便に乗ることはできないだろう。地方空港からプライベートジェットで日本を脱出するしかない。何人か、ジェット機保有者の弱みも握っている。世界的な経済人たちだ。

 比嘉が窮地に陥ることは、彼らの危機も意味する。協力を拒否することはできない。教団からパスポートさえ持って出れば、あとはどうにでもなる。

 脱出計画を実行すれば、日本国内の権益のほとんどを放棄することになる。教団や比嘉トレーディングに隠された裏データのほとんどは、消去するしかない。殺人現場のポラロイド写真の原本も、当然廃棄することになる。

 手足をもがれるようなものだ。

 それでも、おそらく教団は生き残れる。

 そのために比嘉トレーディングは教団との直接的な関係を持たずにきたのだ。柚が隠していたデータ類さえ回収すれば、命まで失うことはない。

 時生が次期教祖を――真の能力者を生み出しさえすれば、10数年後には教団の復活が望める。

 その時は遠いバンコクから、新たな顧客たちを操ればいい。そして、彼らの資産を吸い上げ続ければいいのだ。

 それがじっくり練って準備されていた脱出計画の全貌だった。

 手下たちが床に散らばった写真やUSBスティックを回収して比嘉の後を追っていく。

 後に残されたのは、意識を取り戻した梨沙子と柚、そして血を流し続ける堤だった。

 まだ、かすかに息はあるようだ。

 梨沙子が堤に駆け寄る。

「どうしたの⁉ 大丈夫⁉」

 体を揺すった途端に喉に添えた手が外れ、どっと血溜まりが広がる。ナイフが刺さった顔面が上を向く。

 すでに言葉は出せない。意識もないようだった。

 梨沙子は血まみれの背広を開いて傷口を確認しようとした。

 背後に警備員たちの叫びが響く。

「どうしたんですか⁉ ……なんだ、これは⁉ 警察を呼べ!」

 梨沙子が開いた背広の内ポケットから、何かが血溜まりの上に落ちる。

 それは、小さなUSBスティックだった。

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