黒猫が死んだ。

岡 辰郎

1・決意

 新堂梨沙子は単身者向けワンルームアパートに入って、静かにドアを閉めた。玄関口で安堵のため息をもらし、グレーの布製リュックを肩から下ろす。 

 猫のキャリーバッグだった。

 玄関で待っていた長谷川柚が、呆れたようにつぶやく。

「命の危険があるっていうのに、猫まで連れてきたの? 気づかれないようにって、念を押したのに……」

 梨沙子は真剣だ。

「だって、コロちゃんはたった1人の家族だもの」

 そして蓋のジッパーを開けて、黒猫を抱きしめる。靴も脱がずに上がり框に座り込んだ。

 猫がコロコロと喉を鳴らす。

 柚は、迷惑そうに梨沙子の背中を見下ろしている。

 黒猫の目が、梨沙子の肩越しに柚と合う。痩せた猫の大きく広がった瞳は、まるで柚の心の底までを見通しているかのように思えた。

 柚は、猫が嫌いだった。どんな猫からも好かれた経験も持っていない。

 不気味そうにささやく。

「このアパート、ペット禁止なのよ……。夜中だし、壁も薄いし」

 不安だったのだ。

 あれこれ悩み、迷い、ようやく決断した〝脱出〟だ。大きな決断だった。

 しかも教団を裏切る選択など、人生初だ。

 梨沙子のために――という想いがあればこそ、踏み越えられた一線だ。

 2人とも、打ち合わせ通りにハイキングに出かけるような服装をしていた。チェックのシャツに、コットンパンツ。そして足元はスニーカーの、いわゆる〝山ガール〟だ。

 行動しやすいようにという配慮だが、万一捕まった場合の言い訳にもできる。

 だが発見されれば、言い訳の機会など与えられないだろう。相応の覚悟はあった。相手はそれほど強力で、凶暴な〝組織〟なのだ。

 なのに梨沙子からは緊張感が感じられない。

 安普請のアパートは、プライバシーが希薄だ。猫の鳴き声が聞こえようなものなら、いつ隣人が怒鳴り込んできてもおかしくない。

 今そんな事態に陥れば、逃避行は始まる前に破綻する。

 梨沙子は気にしていないようだ。

「どうせすぐに逃げるんでしょう?」

 廊下の奥には、大きなドラムバッグに荷物を詰め込んであった。2人分の着替えも用意してある。

「それはそうだけど」そして、気づく。「たった1人って……教祖や時生さんはもう家族じゃないと?」

 梨沙子の返事には、わずかな間があった。

「だって、怖いの……。家族だって思えるなら、逃げたいなんて言わない」

「そりゃ、そうか……。わたしだって、どうやったら死ねるか思い詰めたぐらいだものね……」

 2人は新興宗教法人――秘眼神(ひめがみ)教団の信徒だった。共にシングルの母親が熱心な信者で、物心がつく前から教団に取り込まれた幼馴染だ。四半世紀を教団と共に暮らし、そして共に逃亡を決意した。

 計画は数ヶ月前から密かに積み上げている。

「でも、自殺なんか思い止まってくれてよかった。あたし1人で逃げるなんて、絶対ムリだもの」

 そして柚も、梨沙子と背中合わせに座った。

 体の芯に温もりが染み込んでいく。

「それはわたしも同じ……。リサに助けてって頼まれなかったら、きっと1人で死んでた……。自殺は教義に反するから、どうやったら死ねるかなって、ずっと悩んでいたんだから……」

「どうしても自殺はムリだったの?」

「何度か本気で試したけど……教団以外の世界に馴染めないし、体が教義に逆らえない……。洗脳って、怖いよね」

「あたしも、ずいぶん迷ったし……」

「教団がインチキだっていう証拠がいっぱいあるのにね……。頭では分かっていても、潜在意識がブレーキをかけちゃうみたい……」

「それ、分かる……」

「教団にいいように操られて死んでいったお母さんを見ていたのにね……。自殺が最大の罪だなんて、人道的な教えだと思ってきたけど……信徒に死なれたら寄付が集まらなくなるからに決まってる。そんカラクリ、分かってるんだけど……」

「今は寄付しなくても責められないけどね」

「でも、お母さんの時代はひどかったそうよ」

「それでも信徒をやめられないなんてね……」

「だから、洗脳。こんなに穏やかになったのは教祖様が変わってだいぶ経ってからだって、いつも言ってた」

「あたしたちが生まれる前のことだもんね」

「それなのに、わたしの頭からはお母さんの教えが抜けない……。生きているのがこんなに辛いのに……」

「でもあたしは、ユズが生きていてくれて嬉しい」

「教団に逆らうんだから、すぐ殺されちゃうかも……なんだけど?」

「それはこれからのこと。でも、今は生きてる。やっと、生きてるって実感できた」

「わたしは殺されたら、むしろ嬉しいけど……リサは本当にいいの?」

「時生さんとの生活はまるで牢獄。頭もいいし勘も鋭いから、心の中まで丸裸にされているみたい。反抗したくても、行動に移す前に止められてしまう。教祖様の監視も厳しくて息苦しい。子作りばかり要求されて、不妊治療も強制的。痛みは我慢できるけど、白い目で見られるのは屈辱的で……」

 柚はあえて言った。

「でもそれって、ありがちなことじゃない? 教団は跡継ぎ確保に必死みたいだし」

 梨沙子の気持ちを逆撫でするような言葉を選んだのは、本心を確認したかったからだ。これまで密かに脱出計画を練ってきたが、感情を深く掘り下げる会話は避けてきたのだ。

 家族や教団の関係者に〝異変〟を勘付かれないようにという配慮からだった。

 だが、脱出を決行する直前なら、もはや用心する意味はない。むしろ、互いの決意の硬さを確かめ合っている方が安心できる。

 梨沙子は怒らなかった。

「ドラマでよくある嫁いびり……みたいなものだって思い込もうともしてきた」

「違ったの?」

 梨沙子も、柚の意図を感じ取ったようだった。淡々と語り始めた。

「大違い……。あたし、普段から比嘉が連れてきたボディーガードに監視されてた。あの人たちは物腰は穏やかだけど、目つきが普通じゃない。暴力に馴染んでる兵隊なのよ。比嘉は教祖の夫だから、あたしにとっては義父なんだけど……とてもお父さんなんて呼ぶ気になれない。どんな仕事をしてるかも分からなかったし。教団に来ることはほとんどないけど、来た時は教祖さえビクビクしてる」

「見た目は優しい紳士だけどね……」

「見かけだけよ。幹部はみんな、比嘉を怖がっている。あたしも比嘉が一番怖い。貿易会社の社長だって言ってるけど、暴力団上がりだってことはみんな噂してる。取り巻きを見たら、まともな会社じゃないことはすぐわかるし。人殺しだってなんとも思っていないのは確実」

「だよね……」

「とにかく、あんな生活はもうたくさん。自由に息ができないなら、死んでるのと同じ。3年間は耐えたけど、もう限界……」

「教祖様も一人息子を溺愛してるもんね……」

「そう……あの方が愛しているのは時生さんだけ。だから、あたしの話なんて聞いてくれないって分かり切ってる。あたしは孫を産むための、使い捨ての奴隷だから……」

 柚は、そこまで卑下する言葉を予期していなかった。

「奴隷は言い過ぎだと思うけどな……。次期教祖の妻なんだし、教団ではみんなから大事にされてる。誰も奴隷だなんて思っていないよ?」

 梨沙子の声がさらに沈む。

「だけど、実際に奴隷だったのよ……」

 柚が気づく。

「何かひどいことされてたの⁉ DVとか⁉」

「そうじゃないけど……あたし、産まれた時から教祖の掌で踊らされてたの」

 柚は、すぐにはその意味が飲み込めなかった。だが、梨沙子が重要な過去を打ち明けようとしていることを直感した。

「生まれた時からって……?」

「あたし、赤ん坊の時に新堂の養子になっていたの。だから、父親もいなかったのかも……」

 出生の秘密に関わるほど深刻な話題を明かされたことに、驚く。

「ウソ……」

 一度も耳にしたことがない話だ。

「ビックリした? 教団がずっと秘密にしてきたことだからね。奴隷ってさ……自分が奴隷だってことに気づけないもんなんだって、分かっちゃった……」

「でもそれって……間違いないの……?」

「うん……」

 柚は、子供の時から友人だった梨沙子にそれほど深い影を察したことはなかった。むしろ引っ込み思案の自分にはない、快活さを羨ましく思った記憶しかない。

「どうして今になって、そんな大事なことを話してくれるの?」

「だって、これからあたしたちは運命共同体――ってやつでしょう? 命がけの逃亡を始めるんだから、もう秘密は残しておきたくない。大事なことほど、隠してちゃダメだなって……」

 ためらいがちな話し方に、苦渋を重ねた末の決断が現れていた。

「それは嬉しいけど……だけど、なんでそんな秘密が分かったの?」

「実は、時生さんとの結婚が決まる前から知っていたんだ。母さんから直接打ち明けられたの……。教祖様が将来の嫁にするからって、どこからか赤ちゃんを連れてきたんだって……」

「でも、妊娠していたのは本当なんでしょう?」

「ちょうどその時、お母さんは流産したばかりだったの……。教団の熱心な信者だったし……代わりに育てて欲しいって頼まれて、逆らえなかったって……」

「それって、養子でしょう? それまで戸籍とか見たことはなかったの?」

「大学進学の時に戸籍は取ったけど、全然気づかなかった。そりゃそうだよね、文書偽造だけど、書類上は本当の親子なんだもの。養子っていうか、赤ん坊の入れ替えっていうか……死んだ子の身代わりだったんだ。新堂が自分の家だって、ずっと疑いもしなかった……」

「文書偽造って……犯罪よね⁉」

「犯罪だから、みんな隠していたんだ」

 柚が考え込む。

「でも、なんでそこまでしたの? 普通に養子にすれば済むのに。それに、赤ん坊の時からお嫁さんに決めるなんて非常識……」

「変だよね。でも、教祖様が決めたことだから。未来の孫を孕む女が産まれた――っていう予知があったらしいの。それが、あたし……。生まれた瞬間から教祖に未来を決められていた、奴隷のあたし……」

 柚は、梨沙子の淡々とした口調にさらに驚かされた。

 言葉を継ぐのに、かなりの間があった。

「それって……いつ分かったの……?」

「結婚するしばらく前……母さんが死ぬ、1ヶ月ぐらい前かな……」

「結婚って……3年以上も前から⁉ そんなに長い間……ずっと1人で、抱えていたの……?」

「こんなこと、話せる相手はいないもの。ユズは親友だから聞いて欲しかったたけど、話せば重荷になっちゃうし。知ってることが態度に出たら、教団から睨まれたりするかな――って……」

「わたしのことを考えて黙ってたの?」

「そしたらユズが、死にたいとか言い出すし……」

「ごめんね。わたし、耐えられなくなっちゃって……」

「いいんだ。ユズが気持ちを打ち明けてくれたおかげで、踏ん切りがつけられたんだから。本当はあたしだって死にたかったんだけど、先に言われちゃったから……言えなくなっちゃった。一緒に死のうって誘ってもユズは自殺ができないし、あたしにはユズを殺すなんてことはできないし……」

 柚には意外な梨沙子の懊悩だった。

「そんな……リサまで死にたがってただなんて……」

「死んでしまえば、きっと楽になるんだと思う。でも、悔しい。本当に悔しい。教団に逆らえば、たぶんもっと苦しくなる。比嘉たちも怖い。だけど、もしも……ほんの少しの可能性でも、逃げだせるならって……。ユズと一緒に、幸せになれたらな、って……」

 柚の返事が来るまで、さらに時間がかかる。

「わたしにも生きろ……って?」

「本当なら、そう言いたい。あたしと一緒に、おばあちゃんになって欲しい。ユズにそんな気がないのは知ってる。あたしのためだけに力を貸してくれてることも知ってる」

「だったら、どうして……」

「だって、今まで教団に逆らったことはなかったでしょう? 2人で逃げて、もし逃げ切れたら、教団を捨てたことになる。その時のユズは、きっと今のユズとは違う。違うユズなら、生きていけるかもしれない」

「でも……わたしが怖いのは、教団よりも外の世界。よけい怖い……」

「だから、2人で生きるの」

「それって、幸せなのかな……」

「あたしが、幸せにしてみせるから」

 柚は少し考え込んでから、話を変えた。

「だけど教祖様の予知って、そんなに確実なの?」

「教祖様は、夢で色々な予知を見る。重大で確実な予知ほど、はっきり見えるって言ってた。教団に欠かせない子供が産まれること、そしてあたしが時生さんの子を産む女だ――ってことは宿命なんだって」

「でも、戸籍を偽るって……。なんであなたのお母さんは従ったの……? ずっと隠し通してたわけでしょう?」

「あたしが未来の教祖の母親になると信じて、むしろ喜んだそうよ。法律とか、あんまり知識もないし考えない人だったしね。流産した直後だったし、その辛さを忘れるためにも必要だったんでしょうね……。死産だったんだから、神様にすがりたくなる気持ちも分かる。滅多に会える機会もない教祖様からの頼みなら、断れるはずもない。だから全部教祖に任せて、秘密を守ってきたんだって」

「それにしても……」

「母さん……とことん教団のいいなりだったから……。教祖様の言葉なら、何一つ疑うことはなかった……」

「それにしたって、産院で産んだんでしょう? 死産だって分かってたはずなのに、文書偽造だなんて……」

「産科があった病院も教団のお得意みたいなとこだし、だからこっそり赤ちゃんを入れ替えられたんだと思う……。それに、教団からの生活支援があったから、シングルマザーでも暮らしは楽になったし……」

「でも、その赤ちゃん……リサは、どこから来たの?」

 梨沙子は目を伏せた。

「分からない……。誰が産んだのか、買ってきたのか、奪ってきたのか……」

「奪ってきた⁉ あ、そうか……だから養子にはできなかったのね……」

「あたしがどこから来たのか、母さんも知らないって言ってた。怖くて、教祖に聞くこともできなかったって」

「そんな……ひどい……」

「ひどいよね。でも、それがあたしなんだ。どこの誰かも分からない、あたし……。産まれた時から、誰かも分からない……」

 柚はしばらく返事ができなかった。そして気づいた。

「でも……それ、教祖様たちは知っているの?」

「それ、って……何を?」

「リサが生まれの秘密を聞かされてる、ってこと」

「知ってる。お母さんは思い詰めた表情で、こっそりあたしに話してくれた……後になって、やっぱり教祖様には黙っておけなかったって……。だから絶対、比嘉も知ってる。母さんが死んだのは、結婚で別居した1ヶ月後。心臓発作だって言われたけど、なんか変だった……。その日まで全然健康だったのに、いきなり発作だなんて……」

「どういうこと?」

「あたしが秘密を聞かされた途端に死ぬなんて奇妙でしょう? あれからもう3年だけど……ずっとモヤモヤしてる。比嘉に何かされたんじゃないか、って……」

 柚が息を呑む。

「まさか……」

「もちろん、ただの勘ぐり。証拠なんて1つもない」

「でも、疑ってるの?」

「時生さんと一緒に暮らしてはいるけど、教祖様や時生さんの能力を全部知ってるわけじゃないから。予知や憑依だけじゃなくて、もっと別の力も隠しているかもしれない……」

 ユズが驚きの声をあげる。

「憑依って……あの噂、本当なの⁉」

「時生さんの超能力……本当よ」

 教祖の予知能力は、教団内では至極当然のこととして語られている。そもそもそれが、教団を発展させた力の源泉だ。

 その実子である時生の能力は明らかにされていなかったが、力が受け継がれていても不自然ではない。

 それが憑依能力ではないかと、一部で囁かれていたのだ。

 だが、他人に乗り移れる憑依の力が実在するなら、時生の父親――比嘉剛が見逃すはずがない。刃物や銃器以上に決定的な武器になる可能性を秘めている。

「ウソ……」

「口止めされてたけど、ユズにはもう隠す必要ないしね……。あたし、目の前で何度も見せられているんだ」

「本当に他人を操れるの⁉」

「できる。ただ、自由自在にはいかないみたい。どんな限界があるかは聞かされていないし。信徒さんたちには秘密にしているけど、隠していても噂は立つものよね……」

「教団はそんな力を使って権力者に取り入ってきたわけ……? 比嘉がそれを使っているの? そうか……だから、あんなに寄付金が集まるんだ……」

「使い方によっては完全犯罪も実現できるんだから、ホントに怖い。でも、憑依できる時間とか相手との相性の制限はあるみたいだし、気軽には使わないようにしているらしい。それに超能力を使わなくたって、お義父さんの周りには人殺しができる人たちが群れているみたいだし……」

 梨沙子は明らかに、母親が殺されたかもしれないと疑っている。教団の関係者には、確かにその実力が備わっている。

 柚は言葉を返すことができなかった。

 梨沙子は、かすかに背中を震わせていた。

 無理をしている。

 必死に涙を堪えている。

 3年間も激しい葛藤に苛まれた末に、ようやく逃亡を決意したのだ。だとすれば、簡単に揺らぐような覚悟ではないはずだ。

 背中合わせで顔は見えないが、梨沙子の苦渋が胸に突き刺さる。

 間違いなく、逆らえば殺される恐れがあることも受け入れている。

 たしかに、最初に逃げたいと漏らしたのは、柚だ。

 息苦しさに耐えられずに何かにすがりつきたくて、思わず漏らしたつぶやきだった。そんな話ができる相手は、幼馴染みの梨沙子の他にはいなかった。

 しかし梨沙子は敏感に反応した。

 過敏、と言ってもいいほどに。

 そして即座に、一緒に逃げようと言った。むしろ、救われたというような表情を見せたことが意外だった。

 その理由は、ここにあったのだ。梨沙子もまた、柚以上の重荷を抱えながら耐えていたのだ。

 柚は体の向きを変え、背後から梨沙子を抱きしめた。腕に猫の毛が触れたが、もはや不快だとは感じない。

 猫も梨沙子も、じっと柚に体を委ねている。

「つらいね……」

「うん……。逃げることしかできないなんてね……」

 柚の目に、涙がにじむ。

 とはいえ、柚の悩みも軽くはない。

 柚の母親は病弱で、古くからの教団の信者だった。のめり込んだきっかけは、夫のDVからの救いを求めて教団に逃げ込んだことだった。結局は教団が持つ単身者施設にかくまわれ、そこで柚を出産した。

 夫は弁護士を立てて離婚を拒否してきたが、しばらく小康状態が続いた。

 教団はその頃、大変革の真っ只中にあった。数年をかけて密かに進行していた代替わりが厳かな儀式と共に完成し、現在の教祖が信徒の前に立つようになった。

 その途端に状況が好転した。

 夫が急死して母親は解放されたのだ。

 母親は、教祖が夫を呪って自殺に追い込んだと信じて疑わなかった。そしてより深く教団に心酔していった。

 教団職員となった母の信仰に幼い柚が取り込まれていったのも、避けがたいことだった。

 教団は、将来の中心的信徒を育てるために数人の子供を集中的に教育していたのだ。その中には年齢が近い梨沙子もいたので、柚は閉鎖的な生活に疑問を抱いたことはなかった。

 幼児期の柚にとって教団は、世界の全てだった。

 だが、小学校に通うようになって状況が変わった。同い年の子供たちが住む世界が別物だということを思い知らされたのだ。

 テレビもゲームもアイドルも、柚にはほとんど理解不能だった。1つ年下の梨沙子とは学年も違うので、単身で魔物が徘徊する無人島に投げ出されたようなものだった。

〝常識〟に支配された世間が柚に牙を剥いた。

 溶け込めなかった。

 それでも柚を支えたのは、妹のような梨沙子だった。柚と同じ母子家庭だっただけに、結びつきは実の姉妹以上に強く感じられたのだ。

 柚は梨沙子とともに中学校に進めるものと信じていたが、その期待は裏切られた。

 梨沙子は長期療養が必要な病を患い、自宅学習を余儀なくされたというのだ。

 昨日まで一緒に遊んでいた柚にとっては、受け入れ難い状況だった。柚はたった1人で世界の荒波と直面することになった。

 よりどころを失った柚は、次第に内に籠るようになっていった。梨沙子とは学校で行われる学力テストの際にわずかに会話ができたが、時生の妻になるべく教団の英才教育を受けさせられているのだと涙ぐんだ。

 その後、教団はさらに梨沙子を柚から遠ざけていった。

 同時に母親の病状が悪化していき、高校に進学すると同時に死んだ。生活の面倒は教団の単身者が見ることになったが、柚の孤独は一層深まった。

 そして成長するに従い、教団への疑問がゆっくりと、しかし確実に膨らんでいった。

 短大進学後は教団から距離を取りたくて、アルバイトをしながら一人暮らしをはじめた。そして、心の奥底までは変えられない現実を思い知らされた。

 柚の心は自分ではコントロールできないほど、奥深くまで教団に侵食されていたのだ。

 どんなに自由になろうともがいても、心は教義から離れられない。

 サークルにも入ったし、合コンやカラオケにも加わった。だが、ふとした行動や反応に知人たちが怪訝な表情を示す。常に変わり者扱いされる〝不思議ちゃん〟でしかなく、気持ちを緩められたことはない。

 楽しそうに振る舞う演技は上達したが、逆に緊張で心は縮こまっていた。大学卒業後の銀行勤めでも、事情は変わらなかった。居心地の悪さが当たり前になり、変わりたい自分と変われない自分の狭間で心が軋んでいた。

 交際を迫られたことも何度かあったが、素直に応じることはできなかった。

 自分が何者か分からずに、軋みは悲鳴に変わった。

 そして悲鳴はいつの間にか〝死への渇望〟となって、無意識の領域に沈殿していった。

 逃げ込む場所は、やはり教団しかなかった。

 教団は柚の帰還を歓迎し、事務仕事も与えられた。仕事量は多くはなかったし、規律もかつてより緩くなっていた。何より梨沙子と再会し、時折の交際も許されるようになった。

 漫然と生きてくだけなら、むしろ恵まれた環境に変わっていた。

 教団の不自然さに目をつむってさえいられれば……。

 若干の不正を無視してさえいられれば……。

 教団の経理に不審な点はなかった。

 信徒の寄付は奨励されたが、決して強制ではない。

 なのに小ぶりだが自前のビルを所有し、宿泊施設も整えられる潤沢な資金があった。数億円単位の寄付金が、頻繁に振り込まれてくる。その多くは教祖の予言によって事業を安定させられた実業家からの浄財だと説明されていた。

 多少は外の世界を知っている柚は、疑問を抱かないわけにはいかなかった。

 話がうますぎる――。

 だが疑問が膨らむにつれ、教団の幹部からの監視も厳しくなったように思えて圧迫感が増した。たとえ不正があったとしても、告発しようなどと考えたことはないのに、だ。

 柚の居場所は教団の他にはなかったからだ。

 だが、幹部にそれを納得させることは容易ではない。

 冷たい視線に敵意を感じることもしばしばだった。気のせいだと自分に言い聞かせてみても、一度抱いた恐れは消えなかった。

 そして、パニック障害を頻発した。

 教団に逃げ込む以前に逆戻りだった。呼吸困難に陥って医務室で看病されながらも、柚は何人もの監視役の視線を意識しないわけにはいかなかった。

 敵意を感じないのは、梨沙子だけだった。

 そんな時に梨沙子は、柚が漏らした〝死にたい……〟というつぶやきに深くうなずいたのだった。

 そして、決定的な転機がやってきた。

 ある日、柚の机の中に見知らぬ封筒が入れられていた。

 1年以上前のことだ。

 靴箱の中の手紙なら、笑って開けられたかもしれない。しかし事務的な茶封筒は、不自然そのものだった。

 宛名すら記されていない。

 柚はこっそり自室に持って帰り、中身を確認した。

 教団の不正を告発するデータが入ったUSBスティックだった。しかも、殺人の現場にしか思えない写真データが何枚も納められていた。ピントが合わないポラロイド写真をスキャンしたらしいものがほとんどだ。

 その禍々しさは圧倒的だった。

 その他にも教団の顧客リストや、裏帳簿らしいもののコピーが添えられていた。そして教団の裏の沿革――いや、真の沿革までが添えてあった。

 誰が送りつけてきたのか分からなかった。なんの目的があるのかも分からない。

 ただ全てが、柚が漠然と抱いていた疑念を裏付けていた。

 この教団はおかしい――。

 そう確信してからは、調べずにはいられなかった。深入りしてはならないと考えれば考えるほど、やめられなくなっていた。

 教団を知ることは、自分自身を知ることに他ならなかったのだ。

 教祖の夫であり時生の父親の比嘉剛は、小さな貿易会社を経営している。海外への中古車や部品輸出を主軸業務にしている『比嘉トレーディング』だ。折り返しのコンテナでは木材や農産品などが送られてくる。

 帳簿を管理する立場にあった柚は、比嘉トレーディングが教団と緩い関わりを持っていることは承知していた。

 ただし、資金の移動を含めて深い繋がりはなかった。教団の行事に時たま従業員が手伝いに入り、わずかばかりの謝礼が支払われる程度のことだ。

 教団内で比嘉の姿を見かけることもほとんどない。

 柚は逆に、教団と比嘉トレーディングが疎遠なことに疑問を抱いた事があった。

 夫婦が携わっている事業ならば、緊密な協力関係がある方が自然だと思えた。何より、教団に時たま振り込まれる億単位の寄付金の出どころが不可解だった。寄付元の人物が教団に現れたという記憶もない。

 もしかして、その寄付金は比嘉トレーディングから回されてくる不正な資金ではないか――という疑いは抑えきれなかった。

 だがそれを、他の信者に確かめるわけにはいかない。

 婚姻によって教祖の一族となった梨沙子には、なおさら聞けない。

 謎の文書は、その疑問に全て答えていたのだ。

 噂は真実だった。

 比嘉剛は一見穏やかな実業家にしか見えない。だが実際は反社会組織の幹部出身で、いわゆるヤクザの若頭だったというのだ。その比嘉が結婚当時は場末の占い師だった教祖の能力に目をつけ、衰退途上の新興宗教教団を買収した。

 2代目女教祖に祭り上げられた天暁茜(てんぎょうあかね)――本名、比嘉政子は本物の霊能師で、柚もそれを疑ってはいない。

 他者の生年月日や写真だけで性格や弱みを言い当てたり、近い未来を予測する能力を若い頃から持っていたという。恣意的に操作できる力ではないようだが、天啓のように訪れる予知は外れることが稀らしい。たまたま予知した経済変動を聞きつけた実業家が株で大金を得て、その噂が実業界に広まった。

 そして、いわゆる経済ヤクザだった比嘉までも引き寄せたのだ。

 梨沙子の話の端々にも、教祖から聞かされたという当時の事情が垣間見えた。

 結婚当時の教祖は、比嘉が真っ当な実業家だと信じて疑わなかったらしい。後悔が始まったのは、教祖に祭り上げられてからだ。

 教祖の能力は、自身の未来さえ見通せない程度のものだった。だが比嘉は、妻の不安定な予知能力を宗教という衣を纏わせることで事業に変えた。

 有名大学出身のインテリだった比嘉は、世界各地の宗教理念を入念に調べて独自の体系を確立した。そして教祖のガード役として裏方に徹し、潰れかけの新興宗教法人――秘眼神教団を再興したのだ。

 いかがわしい教団を引き継いだ目的は、節税に尽きる。だから教団は存在するだけで役目を果たし、布教もしないし、信者も少ない。

 柚の母親は旧体制の教団から入信していた100名程度の信者の1人だった。教祖の教えは大きく変化していったが、手厚い福利厚生を与える2代目教祖――天暁様から離れる信者はほとんどいなかった。

 むしろ多くが教祖に心酔し、絶対服従を決意する口の堅い信者に変わっていった。一般にその名を知られることもない目立たない教団だったが、信者はクチコミで少しずつ増えつつあった。

 占い師としての天暁茜には、古くから数人の著名人が顧客についていた。比嘉は彼らに有利な予言を選んで提供し、その地位を押し上げていった。結果、ごく少数の権力者の間で絶対的な信頼を得て、顧客は紹介によってじわじわと増えていった。

 そして教祖の予言は、いつの間にか敵対勢力の追い落としや大手企業のM&A案件には欠かせない切り札になっていた。

 絶対確実な予言者として、破格の信頼を確立したのだ。

 特に政界や経済界に顧客が多く、億単位の成功報酬はその結果なのだ。対価は教団への寄付の形で支払われる。支払うのは名ばかりの信者で、その多くは顧客の部下や遠縁の者だった。

 今では200名を超える信者を抱える秘眼神教団は、偽装には最適だったのだ。

 反面、報酬を渋る相手には、敵対勢力に弱点の情報を与えてとことん破壊するという荒技も使う。有力者たちは危険だとは思いつつも、大きな利益に目が眩んで天暁茜の予言が手放せなくなっていく。

 報酬さえ支払えば安全だし、絶対に裏切られることもない。教団は権力者同士が互いに牽制しあって、誰も手も出せない〝安全地帯〟と化していった。

 だが柚が手にした文書には、占いの結果で何人もの人々が死に追いやられていったことが記されていた。

 比嘉は実業家としての地位を揺るがないものにしているが、その影で〝社員〟を使って裏稼業を担当していたのだ。教祖の予言を現実化するために、地上げや脅迫などの裏工作のみならず、殺人にまで手を染めているという。

 邪魔な人物を自殺に追い込むことはもとより、実際に手を下したことも少なくないと記述されていた。

 それを裏付けるように添えられていたのが、殺人現場で撮られたというポラロイド写真のスキャンデータだ。10枚以上におよぶ写真は、比嘉が指示の実行を確認する手段だという。かつてはメールに画像を添付していたが、証拠の残留や流出を恐れてあえてポラロイドに変えたという。

 手を下した〝社員〟と共に写っていた被害者の多くは、頭から血を流し首の骨を異様に捻じ曲げられていた。真偽は定かではない。教団を陥れるための捏造画像である可能性も大きい。

 それでもフェイクとは思えない、真に迫る写真ばかりだった。

 教団は予言を売るだけではなく、顧客に都合の良い予言を捏造し、さらに暴力組織を動員して実現していたという。その対価が、時折振り込まれる多額の寄付金だったのだ。

 その情報を警察に持ち込めば、教団も比嘉トレーディングも潰されるだろう。逆に、顧客として地位を高めた権力者たちが、巻き添えを恐れて隠蔽に奔走するかもしれない。

 どちらにしても、柚の人生は破壊される。

 憎みながらも柚が依存してきた教団が、幻に過ぎなかったのだ。

 それは、柚自身が幻だったことを意味する。

 生きる意欲が完全に奪い去られた。

 いったい誰がこんな文書を持ち込んだのか――。

 なぜ自分のところに――。

 柚の疑問はそれでも膨らんでいった。そして1つの答えが出た。

 梨沙子の仕業に違いない――。

 これほど教団の深部に近づける者は、多くはない。教団に悪意を抱く者の欺瞞工作だとしても、内部事情に詳しくなければ作りようがない怪文書だ。

 教団や比嘉トレーディングの幹部なら、可能かもしれない。だが彼らに、下っ端の事務員でしかない柚に文書を渡す理由はない。

 柚と接点を持っているのは、梨沙子だけなのだ。

 梨沙子以外にはあり得ない――。

 なぜそんなことをするのか……理由は分からない。直接尋ねる勇気もない。

 万一予測が外れていたら、教団内部に巻き起こす動揺は計り知れないからだ。

 だから柚は、死にたいという本心を繰り返し吐露することしかできなかった。

 その度に、梨沙子からも逃亡を望んでいると聞かされた。

 全て繋がった。

 梨沙子は柚に逃亡を決断させるために、教団の真実を知らせたのだ。

 そう確信した柚は、あえて望まれた決断を下した。自分は死んでも構わないが、梨沙子のためになら協力は惜しまない。

 命を捨てても逃亡を助けよう――と。

 梨沙子はデータを引き出しに入れたことを認めたが、今後は絶対に触れないようにしようと釘を刺した。

 教団の中では、誰が聞き耳を立てているか分からない。教祖や時生が未知の能力を隠しているかもしれない。可能なら、頭に思い浮かべることさえ避けた方がいい。

 それが2人の同意事項だった。

 そして雑談や身の上話を装いながら、小さなレンガを積み重ねるように時間をかけて逃亡計画を練り上げていった。結局計画が固まるまでに数ヶ月を要した。

 とはいえ、監視を警戒しながらでは細部まで煮詰めることは難しい。大枠は整ったものの、実際は出たとこ勝負だ。

 早い話、見切り発車でしかない。

 それでも、幼馴染としての絆は揺らがなかった。なのに梨沙子は、今日初めて出生の秘密を語った。絶え間ない不安に晒されていた真の理由を打ち明けたのだった。

 簡単に話せる内容ではない。

 教団から逃げ出そうという決意を分かち合う仲間に対しての、いわば誠意だったのかもしれない。

 梨沙子の意思は硬い。

 梨沙子は意に反して教団にとって最重要人物に祭り上げられた。熱心な信者の娘として、教祖が異能ありと認めて嫁に指定した。そして女教祖の息子の配偶者として、生活をともにすることを強いられた。

 それは梨沙子の出産時から決められていた縁組だったのだ。

 それなのに、梨沙子本人は異能など意識したことがないという。自分にどんな能力があるのか、あるいは何もないのかも分からないまま、将来を決められてしまったのだ。

 母親の喜びようが尋常ではないために、結婚を受け入れるほかなかったのだとうつむくのが常だった。

 そして梨沙子は教祖の息子、比嘉時生の子を孕むことを要求された。

 何に替えても孫を誕生させろ――というのが至上命令だった。

 何ひとつ、梨沙子自身が望んだことではない。

 だから、逃げ出すしかったのだ。

 教団の手が届かない、どこか遠くへ――。

 できるかどうかは分からない。それでも2人は、もはや教団のやり方には耐えられなかった。このままではいられなかったのだ。

 柚は立ち上がって、言った。

「コロちゃん、戻して。すぐ出発しないと」

 梨沙子はうなずいて、黒猫をキャリーに戻す。

「ごめん。ここにきただけで、解放されたような気がして」

 柚はうなずいた。

「やっと監視から逃げられたんだから、仕方ないよね。……でも、むしろ危なくなったと考えた方がいい」

「どうして?」

「これからが本番。お金はなんとか用意したけど、早く姿を隠さないと逃げたところで連れ戻されちゃう」

 梨沙子が重苦しいため息をもらす。

「だよね……。尾行には気をつけたけど……」

「それでも、教祖様の予知で見つけられちゃうかもしれないんでしょう?」

 梨沙子の表情に不安がにじむ。

「本当に逃げ出せると思う?」

「なんでリサが弱気になるの? 優柔不断も怖がりも、わたしの方だと思ってた」

「なんでかな……急に怖くなってきた……」

 柚はあえて強い口調で言った。

「できるだけの準備はした。教団の犯罪の証拠も隠した。万一わたしたちに危険があれば、それを公開する手配もしてある」

 梨沙子が意外そうにつぶやく。

「やっぱりそこまでしてくれてたんだ! もしかしたらって、ずっと感じてたんだ!」

「あまり詳しく話すチャンスがなかったからね。盗聴とか、誰が聞いてるかも分からないから、こっそり進めてた。でも、リサは絶対に無事に逃してあげたい。そのためなら、できることは全部する。あなたはわたしの〝妹〟なんだから」

 梨沙子の緊張が和らぐ。 

「嬉しい……。でも、どうやって……?」

「今まで隠してたけど、協力してくれる人たちがいる」

 梨沙子の表情が驚きに包まれる。

「え⁉ 誰⁉ あたしが知ってる人⁉ どこにいるの⁉」

「リサは知らない方がいい。知らなければ、教祖たちにどんな能力があったとしても暴けないから。あたしたちの切り札なんだから」

 梨沙子は穏やかに言った。

「ユズにも、そんな知り合いがいたんだ……」

「わたしだってネットを使うことはあるから。意外な知り合いがいるかも、だよ」

「あ、ごめんね。失礼なこと言ったみたい。でも、あたしの他にも友達がいるって分かって、すごく嬉しい」

「不思議ちゃんだって、それなりに生きているものなのよ……」

「だけど、それ……時生さんたちに知られたりしないかな……」

「大事な友達だから、比嘉には近づけさせない。ネットの仕組みもいろいろ調べて追跡されないように頑張ってる。……って言っても、わたしみたいな素人じゃどこまでできてるか分からないけれど……。相手は超能力持ってるんだしね……」

「だけど、そこまで考えてくれてたんだね。ホント、嬉しい」

「今まで黙ってってごめんね」

「なんか、すごい心配かけちゃったみたいだね……」

「大丈夫。やるからには、やり遂げたいから」

「でも、迷惑かからない……? バレたら、その人、大変なことになるかも……」

「それは気にしないで。わたしの責任で始めたことだから。何が起きても、わたし1人で背負っていく覚悟だから」

 自身ありげに言ってはいたが、薄氷を踏む危険を感じていることが隠し切れていなかった。

 もしも教団がデータを流出させそうだと判断したなら、柚の逃亡を絶対に許さない。多くの権力者の社会的生命が関わっているのだから。

 しかも教団は、暴力に長けた組織を動かせる。最悪、柚は証拠隠滅ために殺される。教団の将来を支える梨沙子が同行していたところで、危険は変わらない。

 むしろ、梨沙子の目の前で柚を処分すれば、永遠に抵抗を封じられると考えるかもしれない。

 それでも、逃げたいという気持ちは変わらなかった。

 柚は死を願う一方で、もしかしたら自分を変えられるかもしれないというわずかな希望も抱いていた。針の先ほどの希望であっても、捨てずに生き続けようと頭では考えていたのだ。

 頭では……。

 それは、梨沙子の決断があってこその希望だ。

 だからこそ、梨沙子に本当の危険を告げる訳にはいかなかったのだ。

 教団はおそらく、柚が教団の犯罪の証拠を握っていることを嗅ぎ付けている。常に監視されているような視線を感じるのは、気のせいではないと信じている。

 証拠を漏らしたのが梨沙子だということも調べ出しているかもしれない。

 今まで何もされなかったのは、教団の支配下にあったからだろう。だが逃亡を図れば、教団への危険度は一気に増す。証拠の回収を含めて、逃亡は阻止されるだろう。

 暴力を使うこともためらわない。

 梨沙子が同行していなければ、教団は即座に柚を排除するに違いない。梨沙子は運命共同体であると同時に、ある種の人質のようなものなのだ。

 教祖たちの能力も、恐れなければならない。

 政財界の深部に浸透できるほどの情報収集力に対抗するには、〝敵〟の能力を正確に知る必要がある。教団内部で語られていることが能力の全てだという保証はない。教祖の子である時生にどんな能力が受け継がれているかも明らかにされていない。

 本当に憑依ができることすら、初めて知らされた。

 常に教祖の圧力に晒されていた梨沙子なら、彼らに関する知識が豊富なはずだ。身を守るための情報源になってくれるはずだ。

 対抗策も見出せるかもしれない。

 梨沙子を利用しているという負い目は感じる。だが結果として、梨沙子を自由へと導く可能性が拡大するはずなのだ。

 理屈はどうあれ、今はただ教団の支配地域から離れたかった。

 縮こまった心を緩めたかった。

 その先は、2人で考えればいい。柚が密かに進めてきた準備に梨沙子の知識が加われば、きっと打開策が見つかる。

 宝くじを当てて店を開く――という程度の小さすぎる希望でしかないが、賭ける価値はある。

 柚もそれほど追い込まれていた。

 柚は立ち上がって、ドラムバッグを取った。

「とにかく出発しましょう」

 梨沙子も腰を上げ、黒猫をリュックに戻す。

「どこへ?」

「走り出してから決める」

「行き当たりばったり……?」

「細かい計画を立てて行動すると、教祖様に見抜かれるかもしれない。先回りされたら連れ戻されるよ」

 梨沙子は不意に、楽しげに笑った。

「なんか、映画みたいだね」

「駆け落ち?」

「あれ? あたしがパートナーでいいの?」

「それがいい」

「どっちが旦那さん?」

「リサ」

「きっと、楽しいわよ」

「もう楽しくなってる」

 心にもない言葉だ。

 それでも、梨沙子には不安を抱いてほしくない。梨沙子が弱気になれば、その時点で脱出は難しくなる。

 自分の心を奮い立たせるためにも、明るい言葉が欲しかった。

「うん、楽しい。こんなの、初めてかも」だが梨沙子は、真剣に付け加える。「ホントにいいのね? この先は、地獄かも」

 柚も真剣にうなずく。

「それ……たぶん、昨日までわたしがいた所。わたしは死人も同然だった。でも、今は生きてる。最悪からの出発なんだから、後悔する理由がない。もし殺されるなら、それってわたしにはラッキーなことだし」

 2人はなるべく音を立てないように外に出た。


       ※


 比嘉時生がスマホに言った。

「梨沙子たちが行動を起こしました」

 教団の建物にしつらえた自室だった。照明は、暗い。

 スマホがつながった先は、比嘉剛だ。

『で、何か分かったのか?』

「長谷川柚に未知の協力者がいることが確認されました」

 比嘉のため息が聞こえた。

『やはりか……』

「柚は、協力者にも〝証拠〟を預けたと言っています」

『確実なのか?』

「柚自身が梨沙子に話しました。自発的な行動でしたから、嘘ではないでしょう」

『そうか……おまえの考えすぎではなかったな。これまでの手間は無駄にならなかったようだ』

「梨沙子や柚のことは、父さんより理解していますから」

『協力者が誰かは分かったのか?』

「そこまでは……。ですが、ネット上の知り合いのようです。梨沙子は、僕や母さんの能力を警戒しています。脱出計画も陰で進めるほど慎重でした。なので柚も、これまで協力者を明かさずにきたと言っていました」

『小娘なりに、頭を使っているということか……』

「ですが、まだ監視には気づいていません」

『これまではそれでよかった。だが行動を起こしたなら、これからは気づかせたほうが圧力になるだろう』

「死ぬ覚悟もできているようですが?」

『そう強がる輩を追い込んだことは何度もある。折れなかった人間はいない。じわじわと締め上げれば、人は案外脆いものだ。今度のことは、おまえにもいい勉強になりそうだな』

「ですが、もしも白状しなかったら……?」

『ネットがらみの繋がりなら、すぐに専門家を呼ぶする。2人が発ち次第、部屋を徹底的に調べさせよう。何らかの痕跡があれば、協力者を炙り出せるだろう』

「柚は痕跡は消したと言っていましたが」

『素人が隠そうとしても、隠し切れまい。優秀なハッカーだからな』

「了解しました。指示された通り、最初の手を打つように命じました。まもなく反応が見られると思います」

『案外、そこであっさり諦めるかもしれない。だが、ハッカーは手配する。白状したとしても、確認は必要だからな』

「もしも梨沙子を見失ったときは、バックアップもお願いします」

『そっちは手配済みだ。だが、堤は抜け目のない男だ。追跡に失敗することはないだろう』

「僕もそう思っていますが……」

『それは我々の仕事だ。任せておけ。いったん電話を切るぞ』

「了解しました」

 通話が切れる。

 時生はスマホを机に置き、椅子の背もたれに体重を付けてため息をもらした。

 対面するソファーに座った教祖が、落胆したようにつぶやく。

「本当に逃げ出したのね……」

 2人とも、ブルートゥースイヤホンを片耳にはめていた。梨沙子たちの会話は、はっきりと聞こえている。

 時生は冷静だ。むしろ、楽しんでいるようにさえ見えた。

「計画していたことは知っていたでしょう?」

「でも、本当に実行するとはね……。裏切られた気分」

「裏切りなら、逃亡を決めた時に決まったことです」

「それはそうだけど……」

 時生の口調が、息子のそれに変わる。

「母さん、やはりこの先どうなるか予知できませんか?」

 教祖は、時生が自分の能力を頼るとは思っていなかった。母親の顔が姿を覗かせる。

「不安なの? 父さんが怖い?」

 しかし時生の言葉に、弱々しさはない。

「自信がないわけではありません。無駄を省きたいだけです。ただ、柚が何をしでかすか掴み切れていないのは事実ですから……。協力者がいると考えるべきだとは言いましたが、確証はありませんでしたし」

「でも、こうして役に立った。お父さんもあなたを見直したんじゃない?」

「当てずっぽうですよ。憑依ができたって、相手の頭の中が見られるわけじゃないんですから」

「それは私も同じ。全てが見えるわけじゃない。予知は、いつ、どんなものが来るか分からない。見たいものが見られるわけでもないんだから」

「超能力とかいったって、不便なものですよね……」

「マンガのように都合良くははいかないものよ。それでも使い用はあるって気づいた父さんは、さすが。でも、それもそのうち杞憂になる。あなたが梨沙子に子供を産ませさえすれば」

 時生が身を乗り出して教祖を見つめる。

「その子は本当に自由自在に未来を見通せるようになるんでしょうか?」

「あなたがそうなるって感じたから、時生という名前を選んだんだけどね……。能力の種類までは見抜けなかった。私の余地能力はその程度。けれど、見たからにはいつかは必ず実現する。それも何代も先のことじゃない。あなたの子供以外には考えられない」

「断言はできるんですね。やっぱり母さんの能力は、特別だ」

「あなたも、お父さんを満足させてるわよ」

 時生は微笑んで机に向かい、用意してあったタブレットをスタンドに置いた。

 画面には薄暗い駐車場に置かれている軽自動車が映し出され、揺らいでいる。手持ちのスマホで撮っている画像のようだ。

「本当にご満足いただけるかどうか、これから分かりますよ。たぶん、すぐに」

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