狭山江美里

第20話 狭山江美里

 寝室の畳に敷いたしわくちゃ布団の万年床。その上には、白桃チューハイの空き缶が絶妙なバランスを保って直立している。

 安請け合いしなければよかった。尻に敷いたタオルケットの上で、小一時間、僕は同じ事を考え続けている。明日も朝からバイトがあるのに、このままでは睡眠不足になってしまう。寝不足だと、また仕事でやらかして姉さんに揶揄される。

 座り続けてしんどくなった。トイレに行きたくなって立ち上がる。足が痺れているのにも気づかず、座禅を組んだ足を直そうとして不意をつかれ、思わず顔から敷布団の上に激突した。


 明らかに中古の自転車とゆあへの電話では釣り合いが取れなさすぎた。

 八時半にバイトを終えて家に帰ってから、ゆあになんて切り出し方で電話をかけようか悩み、もうすぐ十時になる。疲れた脳が甘味を求めている。痺れた足を何とか持ち直し、財布だけ持って近くのコンビニに行った。缶チューハイを三本買って、帰り道で一本開けてちびちび飲みながら帰った。肌寒かったので、白パーカーのフードを深くかぶる。もう十月になる。僕がバイトを始めてから一年と二ヶ月が過ぎた。


 家に戻ってまた数分悩んだ。チューハイを一本飲みきったところで、少しだけ頭が回り始める。アルコールが頭に入って理性の枷が外れたからだろうか。仕事の辛さで走馬灯を見た僕は、今日の出来事を思い返していた。

「実は、旦那の転勤で、地元の富山を離れる事になりました。なので、今月いっぱいでこの店を辞める事になりました。今まで、仲良くしてくれてありがとう」

 なるほど。……なんで? いや、理屈はわかるけれども心が追いついていない。

 この歳になって、無条件に自分を理解してくれる人というのは、大変得難いものだ。茫漠な太平洋で漂流する男が、数ヶ月の航海でたった一度見つけた漁船を見逃してしまったときのように。だからこそ、この損失はあまりにも大きい。

 紅緒さんが辞めるという現実を反芻しだした僕は、やっとその事を理解して、涙が出てきた。


 よし、決めた。これを話題にしよう。

 ようやく、電話をかける覚悟を決め、僕はスマホを手に取った。

「……もしもし?」

 四コール半鳴ったところで、ゆあと繋がった。電話越しに、彼女の声が聞こえる。

「ゆあ、少し、相談に乗って欲しいんだけど」

「修二さん? ちょっとどうしたの?」

 僕は、ゆあに紅緒さんが辞めることを愚痴った。最初は何事かと驚いていたゆあも、次第に僕に同情して優しい言葉をかけてくれるようになった。

「うんうん、やっぱ紅緒さんがいなくなるの寂しいよね。ていうか、修二さん、酔ってる?」

 話の内容だけを切り取ると、一方的に愚痴をぶつける僕は子どもで、ゆあがお母さんだった。後から考えると、女子高生に大の大人が甘えるのは明らかに危ないのでは? と、自己嫌悪に陥ったが、アルコールが入って感情がとめどなく溢れてくる今は、そんな事を気にする余裕もなかった。

 電話の向こうのゆあは、思っていたより元気だった。紅緒さんがいなくなるという現実から逃避している僕の愚痴を、うんうんと適当にあしらっている。


 今思うと、ゆあに電話をかける理由なんてなんでも良かった。要は、彼女が元気かどうか確認すればいいだけだったのだから。

 しかし、大の大人が職場の人妻がいなくなることに傷心し、それを女子高生に包み隠さずぶつけるという、どう切り取っても頭がおかしいとしか思えない愚行を犯していても、ゆあは僕の話を我慢強く聞いてくれた。

 長話も適当な理由をつけて切ってくれればよかったのに、彼女はそうしなかった。僕の痴態を耳にしながら話を切りあげないところを見ると、どうやら彼女も誰かと話したかったのかもしれないと思った。お互い飢えていたのだ。痛みを共有できる人間を。大好きな人を喪失してしまった者同士。


「もしもし?」

 僕の話の最中で、ゆあは押し黙った。一瞬、不快にさせることを言ったかなと思ったが、しばらくして、電話の向こうから声が聞こえた。

「あのさ、修二さんが知ってる範囲で教えて欲しいんだけどさ。哲さんってさ……」

 僕があえて避けていた話題を、ゆあは口にした。

「辞めるの?」

「辞めないよ」

 ゆあの疑問に、僕は、そうはっきりと断定できた。

「大丈夫、哲は絶対に辞めない、辞めるもんか。あいつがみんなに何も言わずに勝手に辞める事なんて酷いことするはずないだろ。……え、ゆあ、怒ってる?」

 電話の向こうからゆあのすすり泣く声が聞こえる。

「だって黙っていなくなっちゃうんだもん! もう一週間も来ていないんだよ? それに、ゆあに連絡一つも寄越さないし」

 

 僕たちの間に、沈黙が横たわる。

「なあ、ゆあ、ご飯行かん?」

 話題に困って、話を逸らすために一言挟んだが、少し言い出すタイミングが悪かったかもしれない。

「また今度ね」

 案の定、ゆあにやんわりと断られた。

「それより哲さん、いつ帰ってくるの?」

「分からない。でも、哲の病気って、前々から大将が知ってる病気なんやろ? だったら必ず帰ってくるよ」

 僕は、ゆあに哲の病気について説明した。哲のヘルペスは単純疱疹で、身体に水ぶくれができる病気だ。哲の症状は重い部類でしんどいけれど、命の別状はないのだと説明したら、納得してくれた。

「ゆあ、僕の言葉、信じてくれる?」

「うん」

「頑張ろう、一緒に」

 ありがとう、信じてくれて。僕は、彼女に感謝した。


 結局は、人を信じられるかどうかなんだろうな。ゆあは、僕の言葉を信じてくれたけど、僕は心のどこかで哲のことを疑っているのかもしれない。今の僕はちょっとだけ、人を信じるのが怖くなっている。それは、スマホを持たない手の手遊びに現れる。不安だ。それでも、こういうとき僕は難しい方を選ぶようにしている。自分の意思で選ぶのはどうしたって怖い。それならば自分ルールに選んでもらえばいい。なんて弱いんだ自分。そう思いながら、拳で、自分のこめかみを小突く。

 とりあえず、良かった。

「まあ、何かあったら連絡してきてよ。哲の代わりにはなれんけど、愚痴ならいくらでも聞くから。これでも前職でお客様のクレーム対応はバッチリ経験済みだから、聴くのは自信あるんだ」

 もうすでに十二時を回っている。あれから、二時間近く話し込んでしまった。僕の言葉に安心してくれたのか、ゆあが頷いた気配がした。

「分かった。またね」

 電話を切るとき、ゆあの声は話し始めたときよりも少しだけ軽くなっているように思えた。これで、大将に「ゆあは大丈夫そうでした」と報告できる。


 ……ブブッ。ブブッ……。


 僕が電話を切った瞬間、スマホがバイブレートする。画面を見ると、知らない電話番号だった。こんな時間に誰だよと思った。思い当たるのは年金免除申請の催促か、国民健康保険の保険料納付か、税金の納付だが、だとしたらこの時間にかけてくるのは非常識すぎた。

 僕は少しだけ憂鬱な気持ちになりながら、電話を取った。


修子しゅうこ! 元気? 今何してる?」

 電話の向こうから聞こえたのは、聞き覚えのある女性の声だった。

 僕のことを、というか、男にはをつけ、女にはをつける独特な呼び方をするやつは僕の世界に一人しかいない。

 それは、僕の生涯ただ一人の元カノだった。今、一番会いたくないけれど、一番会いたい女性ひと

「今、東京のITベンチャーに勤めてるんだって? めっちゃキラキラしてんね。ちょっと用があって東京に行くんだけど、今週末、どこかで会えない?」

 狭山江美里さやまえみりは今、札幌の大学病院で研修医をしているはずだ。そして、僕は彼女に裏切られた後、弘前大学でつながった数名以外、一切の連絡を遮断して東京で就職した。僕は、卒業以来、彼女と連絡を取っていなかった。

 そんな彼女が僕の連絡先をどこで知ったのかわからなかった。しかし、彼女の中の現職がアップデートされてないところから察するに、おそらく、僕のFacebookを見たのだろう。最後の更新は前職を辞める三ヶ月前にリモート飲み会の写真をあげて以降止まっているから、その付近に交流のあった人に僕の連絡先を聞いたのかもしれない。

 だから江美里は、僕が今、東京の会社を辞めて富山にいることは知らない。今、その事を口にすれば、確実に話がややこしくなる。とりあえず話を合わせて、現況は黙っておくのが得策だと思った。


 僕は、財布の中身を見た。確か、退職金とバイト代を合わせて貯金は二十万円弱。そこから毎月一万五千円ずつ奨学金諸々引かれることを考えると、東京までの往復二万五千円を用意するのは結構キツイ。しかし、大学以降、全く連絡もなかった彼女が今更僕に話したいことがなんなのか気になったし、僕自身、彼女に話したいことは山ほどあった。

「その話、今電話でするのは駄目?」

「うーん、やっぱり会って話したいかな。いや、会って話さなきゃ駄目だと思うんだよね」

 僕は、スマホを片手に考えた。三十秒ほど考えたところで、このまま無言で相手を待たせてしまうのも悪いと思い、もう一度、江美里に声をかけた。

「ちょっとスケジュール確認するから待ってて。明日……今日中には返事できると思う」

 僕はそれだけ言って、電話を切った。江美里は、以前と変わらない調子で分かったとだけ応えた。

 僕は、スマホを布団の上に投げ捨て、頭を抱えた。


 ……どうしよう。

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