11(それは、彼女以外には誰も知らない光景)

 いったん家に戻ってから、僕は指示された病院へ向かった。詳しいことはまだよくわからなかったけれど、志花は救急車で搬送されてその病院にいるのだという。

 診療や面会時間は過ぎていたので、病院のロビーはがらんとしていた。その光景はどことなく、すっかり火の消えた暖炉を思わせた。幸い、受付けにはまだ人が残っていたので、その人に志花のことについて訊いてみる。「芦本志花」の名前で尋ねると、病室を教えてくれた。僕はすぐそちらに向かう。

 エレベーターを待つのも面倒だったので、横にあった階段を使う。利用者がほとんどいないのか、非常用みたいに狭い階段だった。三階までのぼるあいだ、僕は誰ともすれ違わなかった。

 三階に着くと、案内板を確認して病室へ向かう。病棟の廊下には入院患者の姿があったりして、そこかしこに生活の気配があった。消灯時間まではまだ間があったし、誰もまだ眠るような時間じゃない。

 僕は廊下を歩いて病室の前まで行くと、そのドアをノックする。ノックの音はごく普通で、特に音楽的インスピレーションにあふれているわけじゃなかった。

 中から返事があって、僕は扉を開ける。

 病室には、志花の母親と父親の姿があった。衣枝さんはすぐさま立ちあがって、僕のほうに近づいてくる。父親は僕を一瞥して、それっきりだった。その様子は別に迷惑がったり、わざと無視しているというわけでもない。たんに障子が桟にはまらないみたいに、僕のことがうまく目に入らない、という感じだった。

 部屋の中央にあるベッドでは、志花が横になっていた。

 毒リンゴを食べたり、紡錘つむで指を刺したというのでなければ、たぶんただ眠っているだけなのだろう。見たところは呼吸器も点滴もされず、心電図モニターがつながれているだけだった。そのモニターも、弾きなれた譜面でも表示するみたいに何の異常もなさそうだった。

 衣枝さんにうながされていっしょに廊下に出た僕は、さっそく訊いてみた。

「何があったんですか?」

 僕が電話で聞いていたのは、昼すぎ頃に志花が突然倒れ、救急車で運ばれた、ということだった。そして病院でも昏睡したまま、意識は回復していない、という。

 いったん帰宅していた衣枝さんに聞かされた、それがすべてだった。もちろん、これでは何もわからない。僕にはそれほどの想像力は備わっていない。

 けれど今のところ、衣枝さんにも状況は不明のままなのだという。緊急搬送された志花は、すぐにCTや血液検査を受けたけど、そこに異常は見られなかった。とりあえず、脳卒中といった可能性は低い。バイタルは安定していて、外傷も確認できない。昏睡状態の原因は特定できていない。

 医者の説明によれば、おそらく器質的なものではなく、心因性のものではないか、ということだった。

「つまり、現状で私たちにできるのは、ただあの子が目覚めるのを待つしかない、ということなの」

 どこか遠くで、台車を運ぶ音が聞こえた。何かの金属器具が立てる、かちゃかちゃといった響きも。院内放送がかかって、医師か誰かが呼びだされていた。

 僕は何かを訊こうとして、けれどいったん口を閉ざした。まるで、見えない真空に言葉を吸い込まれてしまったみたいに。

 とにかく、志花の様子を見せてもらってかまわないか、と僕は訊いた。

「ええ、もちろんよ」

 衣枝さんは気丈な感じでにっこり微笑んだ。

 病室に戻って、僕は父親のほうに軽く頭を下げる。志花の父親はそれに気づいて、同じようにうなずいた。そしてそれでもう興味を失ってしまったみたいに、眠ったままの娘のほうに目をやる。それは深い暗闇の中で、小さな灯火を掲げるようなまなざしだった。

 僕は壊れやすい時間にでも触れるみたいに、そっと彼女のことをのぞいた。

 ベッドに横たわる志花には、特に何の表情も浮かんではいなかった。苦悶の痕跡も、安逸の気配も。彼女は眠っているというより、何かを中断しているみたいな感じだった。その唇はかすかに開かれていて、それは何かを言いだそうとしているよりは、何かを言い終わったあとのようにも見えた。

 衣枝さんたちはとりあえず志花が目覚めるまで、病院にいるということだった。もちろん、僕にできることはない。ここにいても、邪魔になるだけだった。容態が変化したら知らせるから、と衣枝さんは言った。それがいつになるかはわからないけれど。

「――あの、一つお願いしてもかまわないでしょうか?」

 立ち去る直前に、僕はそんな言葉を口にした。

 衣枝さんは父親のほうにちょっと目配せしてから、うなずく。

「何かしら?」

「彼女の、志花さんの部屋を見させてもらいたいんです」

 それが馬鹿みたいな、突飛なお願いだということはわかっていた。耳をロバに変えられた王様だって、もう少しまともなことを願っただろう。

 でも――

 僕はどうしても、そうしておきたかった。それも、今のうちに。それはもう、失われてしまうものかもしれなかった。光源がなくなってしまえば、瞳に映った光の残像が徐々に薄れていってしまうみたいに。

 志花の部屋には、彼女の書いてきたものがあるはずだった。ある意味では、彼女のすべてが。そこは志花にとって、この世界と等しい場所だった。

 僕の申し出に、衣枝さんは困惑したような表情を浮かべた。それは、そうだろう。どう考えても非常識だし、滅茶苦茶だし、まともじゃない。時宜を心得たものでもないし、礼節に適ってもいない。それは、ただの僕の――わがままだった。

 衣枝さんは父親のほうに目をやった。どう断わるべきか、迷っているみたいに見えた。志花の父親はどういう感情も表に出さずに、衣枝さんと、僕と、志花にそれぞれ視線を移した。

 それから、水をそっと両手ですくうみたいな、ひどく穏やかな声で言った。

「かまわんよ、そうしてもらって」

 そして、続ける。

「今はあそこが、この子に一番近い場所なのかもしれんな……」

 僕は深々と頭を下げて、病室をあとにした。


 ――当然だけど、志花の家に明かりはなく、真っ暗だった。

 玄関先の電灯だけが点けられているけど、ほかの場所に光はない。そこには、百年も前からそうだったような空虚さがあった。人が作ったものは、人がいなくなればあっというまにその意味を失ってしまう。

 僕は、本来は僕のものではない静寂をできるだけ乱さないように、そっと玄関の扉を開けた。

 家の中は、外で感じたのよりずっと多くの空虚さで満たされていた。水と油が自然と分離するみたいに、それは底から浮かびあがってきて、世界の表面を覆っていた。じっとしていると、濃度の高い塩酸に体を浸すかのように、手足の先から徐々に暗闇の中へ溶けていった。

 僕は廊下に上がって、二階へ向かう。

 明かりは点けず、携帯のライトで足元を照らした。やや急になった階段を、慎重にのぼっていく。

 二階にあがって、まっすぐな廊下の一番奥にあるのが、志花の部屋だった。本を借りにきたこともあるので、勝手は大体わかっている。明かりはやはり、点けなかった。僕の存在を、できるだけその場に影響させたくなかった。

 廊下のつきあたりまで来て、ドアの前に立つ。その向こうが、彼女の部屋だった。彼女がいつも、小説……みたいなものを書いていた場所。たぶんこの世界で唯一、彼女が自分を守れる場所――

 僕はドアを開けて、中に入った。

 部屋の中は、前に見たときとほとんど変わっていなかった。小さな書斎といっていいくらいの広さで、布団を敷くスペース以外はすべて机と本棚で占められていた。本棚はもちろん、入居者でいっぱいのアパートみたいに端まで本が詰まっている。本棚に入りきらない本は、タンスに入れて別の部屋に保管されていた。

 机は二つ並べてあって、一つが九十度向きを変えてくっつけられている。いろいろと物を置くのに、そのほうが便利だからだ。単純に、大きな机が手に入らなかったから、という理由もあった。横になった机のほうは、まだ読んでいない本や、今年に読んだ本、鉛筆削りや文房具、広辞苑といったものが置かれている。

 そしてもう一つのほうが、志花がいつもものを書くときに使っている机だった。

 彼女は旧式にというか、古風にというか、紙のノートに鉛筆で書く、という習慣を持っていた。だから机の上には何冊かのノートと、メモ用紙のようなものが散らばっている。あまりこまめには掃除をしなかったらしく、そのあいだに糸くずみたいな消しゴムの滓がたまっていた。半分程度の長さになった鉛筆と、親指の先くらいにちびた消しゴムも転がっている。

「…………」

 僕は何の変哲もないオフィスチェアに座って、机のほうに向かってみた。

 たぶんそれは、志花がいつも目にしてきた光景だった。

 世界中の何よりも、馴じみのある光景。船乗りが夜の海を眺めるみたいに、砂漠の隊商が夜の空を眺めるみたいに、世界で一番見慣れた光景。そしてそれは、彼女以外には誰も知らない光景。

 彼女はどれだけの時間を、どれだけの夜を、そこで過ごしてきたのだろう? 時には眠れないまま、夜明けを迎えるまで。時には一行も文章を書けないまま、ひどい苛立ちを抱えて。時には無我夢中になって、言葉を綴りながら。

 彼女はそこで、どれだけの想いを抱えていたのだろう――

 どれだけの言葉を、形にしてきたのだろう――

 世界のどこにもつながらないような、その場所で――

 ――誰に伝えるわけでも、誰に伝わるわけでもなく。

 僕は机の上に手をのばして、卓上ライトのスイッチを入れてみた。

 部屋の暗闇をほんのわずかに押しのけて、蛍光灯の光が机の上を照らす。僕は携帯のライトを消して、あらためて机の前に向かった。何故だかその光景は、僕には少しだけ見覚えのあるものに思えた。長いあいだ、写真か何かで眺めていたみたいに。

 机の上には、三冊のノートがあった。一つには、思いついたアイデアやらストーリーについての書きつけがあった。一つには、短い文章や箴言めいたものが書き込まれていた。

 そしてもう一つが、彼女が小説を――を書いていたノートだった。

 僕はそのノートの、最近書かれたものを読んでみた。僕が読むのは、いつもパソコンを使って清書して、プリントアウトされたものだった。だから、彼女の生のノートを見るのははじめてだったし、書いたもののすべてを読んでいるわけでもなかった。実のところ、彼女の作品の大部分は散逸した古代の書籍みたいに、ノートの中で埋もれたままだった。彼女は自作の発表に熱心じゃなかったし、あまり興味も持っていなかった。それにそうしたところで、執筆意欲が刺激されるという性格でもなかったのだ。

 手書きで書かれたノートには、癖のある文字が並んでいたけれど、不思議と読むのに苦労はしなかった。そこには迷いや、葛藤や、答えの出ない逡巡の跡があった。ためらいや、苛立ちや、諦めといった感情の跡も。

 そして何より――そこには大切なものをそっと、両手にのせて移し変えているようなところがあった。

 僕は丁寧に、一文字一文字をゆっくりと読んでいった。小さな心臓の音に、耳を澄ますみたいに。部屋の暖房はつけられていなかったのでかなりの寒さではあったけど、ほとんど気にはならなかった。遠くから聞こえる車の音や、時計の秒針が立てるかすかな音も。

 そして――

 どれくらい、時間がたったのだろう。僕はノートを、そっと閉じた。

 ――物語は、途中で終わっていた。

 それは完成させられることなく、ある文章で途切れていた。その先がどうなるかは、わからない。制作用のメモか、設計図か、プロットくらいはあるかもしれなかったけど、それでどうなるというものでもなかった。そしてこれから先、その物語の続きは永遠に存在しないのかもしれなかった。

 僕は背もたれに体を預け、意味もなく天井を見上げた。

 そこには、手で触れられるくらいの深い穴があった。どんな光を投げかけても、その穴の底まで照らすことはできないし、どんな長いロープを用意しても、下まで降りていくことはできない。穴は冷たく、無機質で、何の呼びかけにも応じなかった。

 そしてある意味では、それが彼女の見続けてきたものだった。

 彼女はここで、どれだけの時間を費やしてきたのだろう。どれだけのあいだ、その穴を眺め続けていたのだろう。

 僕にはそれを、想像することしかできなかった。

 それからふと気づいて、僕は卓上ライトの明かりを消した。

 暗闇に目が慣れると、それはすぐにわかった。机のすぐ前にある窓から、月の光が射しこんでいる。三十八万キロも彼方から届いたとは思えないその光は、ひどく優しげに机の上を照らしていた。

 もしかしたら彼女はその手を、そんな月明かりを使って温めようとしていたのかもしれない。誰にも気づかれない、誰にも見つけられることのない、その場所で。

 いつまでも、いつまでも――


 志花の家をあとにした僕は、見知らぬ道を車で走っていた。

 正確な時間はわからなかったけど、深夜だけあってほかに走っている車はほとんど見かけない。夜は遮るものもなく、どこまでも広がっていた。

 自分でも何をしているのか、僕にはよくわからなかった。どこにも行く場所なんてなかったし、行けるところもなかった。それでも、気がつくと車は速度超過して、カーブで車体が横に振れた。僕はただ、ここにいたくないだけだった。

 一体どこまで、どれくらい走ったのかはわからない。もしかしたら、地球を一周くらいはしたのかもしれなかった。それでも、月までは届かなかった。月はあまりに遠すぎた。そこには水も空気もなければ、重力だって地球の六分の一以下だった。光の速さでさえ、往復するのに二秒以上かかってしまう。誰かが一人で目指すには、そこは遠すぎる場所だった。

 機械的に車を走らせながら、けれど僕は不意に車を停めた。

 そこは何もない、山あいのただの道路だった。ゆるい傾斜地にそって灌木が生え、下り坂のずっと向こうに、工場らしい光の群れがうずくまっていた。海の向こう側にあるらしいその光は、まるでその場所で夜の生産が行われているみたいに、休むことなく稼動し続けていた。

 それから、どれくらいの時間がたっただろう。

 気がつくと、空はゆっくりと白みはじめていた。雲の形が急にはっきりして、紫色の光がそれを照らす。光は画家が絵の具を用意する時間も与えずに、決して目ではとらえられないスピードで変化していった。雲は大切な約束でもあるのか、驚くほどの速さで空の向こうに去っていった。そのあいだにも光は刻々と姿を変え、一体何度目になるのかわからない誕生を迎えている。耳を澄ませば、どこからか音楽が聞こえてきそうだった。

 夜が明けるのを見るのは、久しぶりだった。確かにそれを見たことがあるのに、一体前に見たのがいつだったか思いだせないほどに。

 けれど――

 考えてみれば、それは毎日起こっていることなのだった。

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