第12話 優性遺伝

 時は少し遡り──。


「倉橋先輩! ほら、あそこにいるのが妹のそらです!」


「……どうして俺が後輩の、しかもその妹の撮影に駆り出されなきゃいけないんだよ。おいこら」


 六月。そろそろ夏が来ることを知らせるように、セミの元気に鳴く声が私の耳をつんざく。倉橋先輩の声もセミの声にかき消されて、聞きたくないところだけよく聞こえない。仕方ない、セミも生きるために必死なのだから。


「それにしても……」


 一週間前とは暑さも全く違う。普段はあまり弱音を吐かない倉橋先輩も「あちぃ、やだぁ」と、暑そうに自前の扇子で扇いでいる。

 季節の変わり目には体を壊しやすいので、そらのお弁当には胃の働きを調える料理をふんだんに盛り込んでおいて正解だったようだ。

 私たちは家から電車で一時間程度離れたところにある、市が保有する体育館に受付を済ませて入った。この体育館は一般的な学校の体育館とは比べものにならない程広く、試合の宣誓直前だというのに席にはまだ余裕があるように見える程だった。けれど、観客席の熱気はそれとはまた別だ。予選を勝ち抜いた各高校の猛者もさだけが集まった本選だけあって、応援する側もされる側も、雰囲気の凄みがひしひしと伝わってくる。

 ここに来た理由はもちろん、そらの応援のためだ。倉橋先輩を呼んだのはそらの試合を撮影するためで、あとで家に帰ったらそらと一緒に仲良く見る約束をしている。当日はカメラマンを呼んでいる話をしたとき、そらの「それ彼氏?」の一言は要らなかったが、頼ってくれてお姉ちゃんは嬉しい。


「それにしても、カメラすごいですね。こんなの部室にありましたっけ」


 観客席の最前列に設置した三脚の上部には、見たことがないような黒い一眼レフが装着されていた。倉橋先輩は自慢げにカメラに手を置く。


「こんな高級なの部費で落とせるわけねえだろ。俺のだよ、俺の。一眼にして画素数は驚異の六千百万画素、レンズは二百ミリの遠距離用、ノイズキャンセラーもオプション装備している。どうだ、すごいだろ!」


「なるほど。よくわからないことがよくわかりました!」


 詳しいスペックはともかく、カメラの仕様が良いならそらも喜んでくれるはずだ。倉橋先輩にはあとでジュースの一本くらい奢っておいておこう。

 場内を見下ろすと既に試合の宣誓が行われており、昨年の優勝校が優勝旗とトロフィーを返還しているところだった。わざわざ返還しなくたって、そのまま作り直してあげればいいのにと思う。

 そらの高校は私から向かって右端に並んでいた。そらがまだ高校一年生の頃、同じように試合の観客席から見たことがあるけれど、男子の面子は思いの外たくましくなっていて、女子もそれに負けず劣らず顔が大人になってきていた。


「そら……頑張れ」


 二年越しに見るそらの真剣な表情は険しいものだった。この大会がそらにとって最後の大会になるかもしれない。勝てばまだ続く大会があるそうで、本人的には引退試合ではないらしい。「引退試合って言っちゃったら、それが現実になっちゃいそうだから」と。

 宣誓式が終わり、二十分後には会場を六つに区切り、六試合が同時に行われることが発表された。そらの高校は第三グループ、私たちがカメラを構えている位置から奇跡的に一番近い。肉眼でもはっきり試合の様子が見れそうだ。


「先輩、私ちょっと試合始まる前に妹のところに行ってきますね」


「おう、励ましてこい」


 倉橋先輩はカメラから顔を離すと、親指を立てて笑顔をこちらに向ける。私は一瞬立ち止まって、こくりと頷き、観客席から場内へと続く階段へと移動した。

 階段を下りると、青い床と白い壁が延々と続く、ただっぴろい広い廊下が広がっていた。あまりの広さに歩き出す前から迷いそうになるが、偶然にもそらが目の前の女子トイレから出てくるところを見つけることができた。そらも私に気付いたようで小走りで駆け寄ってくる。


「どうしたのお姉ちゃん?」


「私はそらに頑張ってねって……」


 言いにきたの、と言い終わる前に、微かだがそらに違和感を感じた。試合の直前で緊張しているから、とかではない。ほんの一瞬だが、左眼が右眼より少し遅れて動いた気がしたのだ。 


「ねえ、ちょっとお姉ちゃんに聞きたいことがあるんだけど、いい?」


「な、なに、どうしたの」





「なんだかね、視界が一瞬なんだけど、ずれて見えるの。気のせいなのかな」

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