第一話 無気力な公主

 「退きなさい、汚らわしい!」

 

 早朝の清々しい空気と、底なし沼のような、息の詰まる空気が混ざるそこは、焌燕しゅんえんの皇帝の花園。すなわち、後宮。

 

 日が昇ってから一刻ほどという時間帯ゆえ、辺りはしんと静まり返っていた。

 

 その沈黙を破るかのように、耳をつんざくような叫びが比較的小さい屋敷にこだまする。

 後宮における、正二品と呼ばれる妃嬪ひひんたちの住まう区画の一角に建てられた小さな宮には、生気のない瞳をした少女と、整った顔立ちではあるが、ひどく瘦せこけ、おどろおどろしい雰囲気を纏う女。そして、彼女を必死になって止めようとする、一人の侍女が居た。

 

 さながら、鬼女のような見目で、怒りの感情のみを、少女と同じ翠の瞳に映す女は、その手に握りしめた扇を、少女へと向ける。

 

 白粉おしろいが塗りたくられた、病的なほどに白い肌をした女が、艶を失った赤い髪を振り乱し、力任せに少女へと扇を振り下ろそうとした――刹那。

 

 ガキッ。

 

 少女の周りに見えない壁が張られたかのように、その扇は跳ね返された。

 ポキリ、と音を立てて、扇の骨が折れる。

 

 女は、憎々しげに少女を睨んだ後、カツカツという足音とともに少女の視界から消えた。

 

 少女は、その女――少女の母の後ろ姿を見送ることなく、焦点の定まらない瞳で、ぼうっとくうを見上げていた。

 

 そんな少女に、彼女の母を止めようとしていた、白藤色の侍女服姿の女性――少女の乳母は、黙って近づく。

 少女のすぐそばまで近づくと、唇を震わせて、少女の名を呼ぶ。

 

 「娘娘……玲藍れいらん、様」

 「なに?」

 

 銀の鈴を転がしたかのような、凛とした声が、間髪入れずに返答を紡ぐ。

 ただし、そこに感情というものを、一切乗せることなく。

 

 乳母は、そのことに涙ぐみそうになることをグッとこらえ、もう一度口を開いた。

 

 「お怪我は、ございませんか?」

 「だいじょうぶ」

 

 乳母は、ほうっと安堵の息を吐くと同時に、少しばかり顔を曇らせる。

 玲藍を守った、先ほどの不可解な現象。

 それは少なからず、乳母を不安にさせていた。

 しかし、それが玲藍を傷つけるようなたぐいのものではないため、乳母も祓おうとすることはなかった……祓おうにも祓えないという現実を、除いたとしても。

 

 このような現象が起こり始めたのは、もう四年も前のことだ。

 そう、あれは玲藍がよわい十二だったとき。

 

 乳母は当時を思い出し、ぶるりと身体を震わせる。

 あの日玲藍は、龍が住むと伝えられる池に、近づいたのだ。

 

 玲藍は放っておけば水の中へと入ってしまいかねない状態だったが、間一髪のところで乳母が駆け付けた。

 そして二人は屋敷へ戻って、そんな出来事は忘れてしまう筈だった。

 だが、その日以来、玲藍の母が娘を折檻しようとすれば、今のように透明の結界のようなものが玲藍の周りに張られ、彼女に傷一つ付くことはなくなった。

 

 これまで、玲藍の母である、皇帝の寵妃は、顔を合わせれば娘を傷つけようとしていた。

 玲藍の出産によって体型が変わり、それ以降皇帝の寵を失った彼女にとって、玲藍は憎むべき対象だったのだ。

 

 だから乳母は、このままでも良いのかもしれないと思っている。

 もとは玲藍の母の侍女をしていた彼女は、そう思うことにして、静かに嘆息たんそくした。

 

 ――それにきっと、玲藍が受けた不思議な加護について上に進言したとて、現状が変わることはないのだ。

 

 実家という後ろ盾がひどく弱い皇帝の子。ましてや、強い後ろ盾や、皇帝の寵を得る母親を持つような異母兄弟、姉妹がいるような女児。

 それは、母親をはじめとした多くの妃嬪から蔑まれ、虐げられたとしても誰も気にも止めない程度には、弱い存在なのだから。

 

 また、父親である皇帝が、彼女に対して一切興味を抱いていないこともあって、今や、玲藍という公主ひめはいないという認識が暗黙の了解となっている。

 

 だが、そんな現実を差し引いたとしても、玲藍は乳母にとって、大切な娘で、主人だった。

 そんな思いを込めて、乳母は少女の頭を撫でる。

 

 少女は、そんな乳母のことを空虚な瞳に映して、ただそこに佇んでいた。

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