第5話

「じゃ、行ってくるな」

父も母も出勤してしまって淋しくなったリビングで、ゴロンと寝転んでいる柴犬のサクラにそう言って家を出た。

「お待たせ~」

元気な声で登場してきたのは、もちろん葵だ。寝起きのあのテンションからは想像できない笑顔に、つい驚いてしまう。

「早く行くぞ」

「うん!」

久しぶりの葵との登校。最後にしたのは中一の時だっただろうか。確か、同級生にからかわれたのをきっかけに葵を拒絶したのを覚えている。春、というか半分夏の日差しで温められた心に、あの時は悪いことしたな、なんて言葉が浮かんできた。

「修也! 楽しいね!」

そんな考えどこから湧いてくるんだろうか。こいつの思考回路は分からないけど、とりあえず同調して、空をセパレートするようなひこうき雲に視線を逃がした。

 登校を済ませ、いつものメンツと駄弁っているとあっという間に時間が過ぎて、終業式の時間になった。体育館に全校生徒が整列していくのを待ち、長いだけの先生の話を聞き流す。先生の話があまりにつまらないからなのか、三年間見てきた窓外の景色が、いつもより鮮やかに見える。

「教室に戻ったら、静かに着席してるように」

担任の前原が望んでも無駄なことそ指示して、俺たちを教室に返す。当然、廊下では駄弁って、教室でも机の上に座って駄弁って。そんなに話していると話題も尽きてくるわけで、話題の切れ間になんとなく教室を見回した。

「あれ、葵は?」

声を上げたとき、前原が葵と共に教室に入ってきた。入ってきた前原は神妙な面持ちで、葵の方はどこか淋しそうに見える。

「えっと、みんなに話がある」

シンとした教室に、前原の真っすぐな声が通る。

「この夏休みで、葵が転校することになった……」

「……は?」

前原の突拍子もない一言に、声が漏れた。定まらない焦点のまま葵の方に目をやると、葵は申し訳なさそうな顔でこちらを見つめていた。

「ご家庭の事情で、東京に行くそうだ」

前原の重たい言葉が、事実として心にのしかかる。

「木野から一言」

前原の小さな声で、葵が一歩前に出る。

「突然のことで、ごめんなさい。先生が言った通り、東京に行くことになりました。みんなと過ごした、二年間と少し。とっても楽しかったです。あの、忘れないでください」

葵の一言一言が心に張りつく。嘘だと信じたくて。悪い夢か何かだと思いたくて。必死に引き剝がそうにも、これが現実なんだと言わんばかりに俺の心から剥がれてくれない。

「みんな、葵に一言ずつ……」

前原の言葉で、一人一人が葵にメッセージを送る。席順に進んでるから、窓側の最後尾の俺は最後になるだろう。

 いくら言葉を探しても見つからない。葵に言わなきゃいけないことなんて腐るほどあるだろうに、こういう時に限ってどこを探しても出てきてくれない。

「最後。修也」

前原の声に返事もせずに立ち上がる。怖くて前が向けない。顔を上げれば、情けない表情をさらしてしまいそうで、俺は俯いたまま

「じゃあな」

そう一言だけ言って、静かに腰を下ろした。


 ――怒り、哀しみ、虚しさ、喪失感。


葵の転校を聞いてから、いろんな感情が心に湧き上がってくる。

「それでは有意義な夏休みを」

前原のその一言で、もう下校の時間なんだと知る。俺は、何も入っていないカバンを持って、独りで教室を後にした。後を追ってくる小さな足音が聞こえるけど、俺は完全に無視をして校舎を出た。

 独りの帰り道。今まで通りのはずなのに、心がからっぽな気がする。空を見上げると、昼下がりの清々しい青空が一面に広がっている。朝よりも鮮明な青が、ものすごく切ないものに感じられた。

「ハァ……」

ベッドの上でため息を零す、午後四時。家中にけたたましく響くインターホンの音。この音が、俺の怒りメーターを上げて、応答する気力を消していく。次第に、怒りは呆れに変わった四時半過ぎ。俺は、一階に降りて、玄関の戸の前に立った。

「んだよ……」

扉に背を当てて、奥にいるであろうアイツに話しかける。

「ちゃんと話そうと思って」

昨日、すぐ隣で聞いた声が扉の奥から聞こえてくる。もの悲し気な声が、胸に細い針を刺す。

「修也には話しておこうと思ってたんだ。でも、昨日までの修也は、雰囲気がちょっと黒色で話せなかった。だから、その……」

葵が話せなかった原因は、完全に俺にあるということだ。そんなことを言いに、わざわざ家まで来てくれたのか。腹が立ってくる。

「そっか。俺が悪かったよ。これで満足か?」

呆れた声でそう言って、俺は玄関の扉から離れる。

「違うの! そうじゃなくて!」

「もういい。じゃ、東京でも達者でな」

葵の大きな声の間で小さくそう言って、俺はまた自室に戻った。

 濃紺の遮光カーテンで遮られた、この真っ暗な部屋。俺はベッドに寄りかかって、ゆっくりと瞼を下ろした。浮かんでくるのは、昨日、ここで葵と過ごした時間。あったかくて、やわらかいあの時間。

『居なくならないで』

そう言った葵。

「どっちがだよ……」

小さく零すと、目じりから一滴、涙が頬を伝う。泣いているんだろうか。

 ――どうして……。

幼馴染みが転校するというだけで、なぜ泣いているんだ。

 答えの見つからない問いを考えているうちに、俺は眠ってしまっていた。

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