第41話 クレアンヌさま
クレアンヌさまは待ちくたびれた様子を隠す気もなく、僕たちが戻ってくる様子を眺めていた。
「ようやくお戻りかしら・・・
あら?」
近づいてきた僕のフルメイクの大部分が見事に崩れていること。
その化粧がジュリーさんにベッタリと付いていて、払った跡があること。
サイネリアさんの衣装が少しよれていること。
それらの変化と待たされた時間の長さに、なにか察したのだろうクレアンヌさまのお言葉が途切れる。
気を取り直すように小さなため息をついてから、クレアンヌさまは何があったかは聞かず、手元の
「フィーリス。
注いでみなさい」
指名された僕は手にしたヴァインの栓を抜くと、ブドウという果実の発酵した液体が発する独特の香りが広がった。
僕は12歳を過ぎたばかりなので、もちろんお酒の味はわからないが、昨日の酒場で傾けられたヴァインや人参酒などの香りを楽しむお客がいた。
なんでも、高級なヴァインや、樽から開けたばかりで酸化の少ないヴァインは、どちらもあまり知識のない飲み手をも魅了する香りがあるようだ。
前者は徹底された品質管理と高度な醸造製法による香りで、後者は香り付けのために燻された樽の良い香りがヴァインから抜けていないために香るにおいだ。
常連客の一人が連れてきた仲間に説いているところを、たまたま耳にして得た知識だ。
そして、今手に持っているヴァインは相当な値打ちものなのだろう。
酒場で嗅いだ香りとは異なるが、芳醇でいて奥行のある香りが優しく鼻孔をくすぐった。
この香りが好ましいと思う気持ちはうなづける。
「フィーリス。
お店でヴァインの注ぎ方は教わっているわね?」
緊張した面持ちの僕に、クレアンヌさまが声をかけてくれた。
酒場ではまだヴァインを一度も注いだことはなく、昨日はすべてナンシーさんとマスターが対応してくれていた。
「いえ、まだ酒場では注いだことがありません。
昨日は注文の確認と来店された方々への対応方法だけ教わりました」
「そう。
でも、あなたならできるのではなくって?
便の扱いには長けているはずでしょうから」
ヴァインの注ぎ方は昨日の酒場で何度か目にしていたので、見よう見まねで栓を開けることはできた。
問題はここからだ。
クレアンヌさまがおっしゃるように、僕は藥師なので、たしかに瓶の扱い自体には慣れている。
大小様々な瓶を扱って薬の調合や濃縮、希釈などを行ってきた。
ヴァインも瓶には違いがない。
しかし、勝手知ったる自分の道具たちではなく、ヴァインの瓶に触れるのは初めてだ。
はたして、こぼさずに
僕は意を決して、クレアンヌさまの手元の
トクトクトクトク
どうやら上手くいったようだ。
勢いが全くなければヴァインは水よりも粘性があるので、
勢いが着きすぎていても、
注がれた白のヴァイン越しに、クレアンヌさまの少し柔らかくなった表情が一瞬だけ大きく映った。
それからにおいを小さく整った鼻から吸い込む。
柔らかい唇が傾けられた
ヴァインを嗜むクレアンヌさまを間近でみる機会もそうそう無いだろう。
何せ晩餐の席では、いつも長いテーブルの端と端で声を大きく張らないと届かない程の距離だ。
至近距離で眺めることが許されているこの給仕というお仕事は、悪い事ばかりではないらしい。
これほど優雅に、そして美味しそうに(実際に美味しいものなのだろう)ヴァインを口にするクレアンヌさまは、大人の女性特有の色香を纏っていた。
「フィーリス。
50点」
「え、え?!
点数がさがってる。
どうしてでしょうか??」
「白のヴァインは、一般的には冷たい方が美味しいと言われているわ。
でも、
あなたがボトルを握りしめたまま、モタモタしているものだから、少し温められていて温いわ」
「ぁう・・・」
「それと、お客の事をジロジロと見つめ続けるウェイトレスなんて、私はあまり見た事がございませんわ」
「あぅ・・・」
「その顔は可愛いから、おまけで50点よ」
「あぁ・・・うぅ・・・」
おまけで50点。
てことは、地の応対の点数はもっと低いのか…。
「見た目は重要よ。
見た目が良いだけで商品の売れ行きが数倍になることもあるわ。
逆に見た目が悪いだけで文句をつけられたり、不当な罵声を浴びせられることもあるの」
「それは…たしかに心当たりがあります」
そうなのだ。
僕自身も、見た目や匂いに一応人並みに気を付けているのは、おしゃれのためではない。
むしろ、『おしゃれ』というのはあまりよくわからない。
各地を転々と旅していると、地域によって着ているものの傾向が違う。
同じ旅人同士でも、たぶん裕福さや巡ってきた地域によって身につけているものは千差万別。
だから、僕の旅装束に関しては、機能性一辺倒になりがちで、決しておしゃれとは無縁だ。
僕自身は全くおしゃれについての研鑽がないのでわからなかったが、どんなところにも『おしゃれな人』というのは存在するのである。
僕と似たような装備をしていても、並べられると明らかに『おしゃれな人』の方に人が集まる。
それが生き物の習性で、より良いものを見分けるための基準をそれぞれの人が持っていて、多くの人は見た目の良さをその基準に組み込んでいる。
意識的にせよ無意識的にせよそうなのだろう。
これまでは旅装束で露天商をしていたが、この機に露天商の時のための装束も持っておいた方が良いのかもしれない。
数々の商人と渡り合うクレアンヌさまの考えに、僕が思案していると、クレアンヌさまがヴァインを片手に語り出した。
「その衣装はとても仕立てが良いわ。
少し偏った趣向があることに目をつむれば、いえ、それも一部の客には有効なデザインですけれど・・・。
客引きのために従業員の持つ魅力を引き立たせている。
それだけではないわ。
高頻度で樽を開けると鮮度の高いヴァインが回り、安値でも良い状態のヴァインが提供される。
用心棒兼料理補助の好条件な雇い入れや、不貞を働く客から罰金を巻き上げる。
それをすべて店の収益に納めるのではなく、従業員へ配ることでモチベーションの向上をはかり、接客のクオリティを維持・向上させる。
お店の雰囲気や出しているものをマスターが一元管理しているから質が落ちにくい。
さらに、依頼の貼り出しができる掲示板を設置して、客以外の出入りもあり、人が集まる場にしている。
掲示板を店の奥に配置することで、店の利用客以外の人が出入りする際に、サービスの良さや客の状況を見せて、店の客を集客するのもとても良い手法だわ。
そのマスター。
相当なやり手のようね」
クレアンヌさまはお酒のおかげか、少し饒舌になっているようだ。
それにしても、いつのまにそんな細かいところまでお知りになったのでしょうか?
ちらっと部屋を見渡すと、少し離れて給仕服のドネットさんが椅子に座っているところが見えた。
まだ怪我が癒えきっていないのだろう。
安静にしながら事細かにクレアンヌさまへ報告していたのか。
「そうですね。
外から見ただけでも人の出入りが絶えなかったので、そのお店なら旅人や商人も集まるかと思いまして。
案の定、お客の中にたくさんの旅人や商人がいました。
マスターも良い人そうで、従業員の方たちも楽しそうに働いていました」
「あなたの嗅覚も・・・。
なかなか鋭いようね。
さすがは一人旅を長く続けて居られるだけあるわね」
「あれほどのお店だとは、さすがに思っていませんでした」
照れ隠しに愛想笑いを浮かべる僕を見つめるクレアンヌさまは、お酒が回ってきたのか血色が良く、美しい微笑を浮かべていた。
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