聡き令嬢・『パルフェ』

仁徳な賭博者・『バルバ』

◇ 男は毎日、多額の賭けをしていた。

「ごめんなさいね、パルフェ」


 冷たい牢の床に転がって、咎の証が浮かんだ者の為への祈りが止められたことで停止していた成長が再開した証とも言える牢獄生活で伸び始めた菜種色の髪を、ファニーシュは指に絡めて言った。


 咎の証が浮かび、まともな人間扱いすら受けられず、豪華な食事もなければ衛生状態も酷いままに数週間が経過した彼女は、もう体を起こす体力も残されていないようだった。


 泣き崩れるこちらを見やって、ファニーシュは少し口の端を持ち上げた。


「貴方の式への出立を、見送ることができなくなってしまって……。もし良かったら、わたくしの髪飾りを一つ貴方にあげるわ」

「か……髪飾り、ですか……?」

「ええ。棚の奥にあるこのぐらいの箱に入った、綺麗な金細工なんだけどね……」


 言いながら、彼女は両手の人指し指と親指で四角形を作る。ギクリとするこちらを他所に、ファニーシュはヘラリと笑って「貴方にとってもよく似合うのよ」と付け足した。それからじっとこちらを見つめて、微笑んだまま首を傾げた。


「……あら? そういえば、今は無くなってしまっていたのだったかしら……まあ見つかったら、貰ってちょうだい」


 無垢を装っているような気がした。ファニーシュの純粋さを疑うなんて、それこそ天啓にケチをつけるような愚かな好意であるとパルフェは理解していたが、遠回しに指摘されているような気がして勝手に追い詰められていた。


 違う。事が済んだら返すつもりだった。盗んだのではない。姉がまた、アレをパルフェに渡したりしないように、出立するギリギリまで隠し持っておこうとしただけだ。欲しかったのではない。盗んだんじゃない。違う、違う。


「お、ね……っ」


 言い訳を口にしようとして、咳き込んだ。いつからか、体調は悪化し続け、立っているのもやっとの状態だった。そんなパルフェを見上げて、ファニーシュはちょこんと小首をかしげるような動きをした。


「い、いえ……また、明日来ます……」

「うん」



 立てない。


 ベッドから這い出ようとしたパルフェは、足に力が入らず、そのまま床に転げ落ちた。起き上がろうと手をついた位置に大嫌いな白金の髪が広がっていたようで、引っ張られた毛根からツンとした痛みが走った。


 ……邪魔だ、切ってしまおうか。ナイトテーブルの引き出しに目が向く。護身用として買ってもらったナイフが仕舞われているはずだ。


 引き出しの取っ手に手をかけたところで、物音に気付いて扉を少し開けたリーヴィが、僅かにぎょっとしてこちらに駆け寄ってきたので、パルフェはのっそりとした動きで手を伸ばすのをやめた。


「……お姉様、入用でしたら使用人にお声がけを」

「違うの……行かなくちゃ……」

「? どちらに?」


 同い年の義弟に支えられて、ベッドの淵に座らされる。パルフェは蚊の鳴くような小さな声で、問いかけに返答する。


「収容所……」

「ファニーシュお姉様のことでしたら、私が見てきます。昨日もまだ元気そうでしたよ」


 ここのところ、パルフェはファニーシュの様子を見に行けないでいた。原因は一目瞭然の、体調不良だ。ファニーシュがまだ気力を保っていられるか、その確認は勿論大事ではあるが、今パルフェの頭を悩ませているのはそれではなかった。


「そうじゃ、なくて……」


 首を振る。髪を揺らす程度すら、衣服で擦れた皮膚から痛みが走り、パルフェは堪えるように顔を顰めた。


「しょ、け……処刑、を……遅らせて、もらわないと……」

「……嘆願でしたら、手紙で十分かと」


 咎の証が浮かんだ者と親しくすべきではない。そう言おうとして、自分も未だに“ファニーシュお姉様”と家族として扱い続けている矛盾に当たったのか、間を空けてリーヴィは代替え案を出した。体調不良のパルフェを慮ってのことでもあるのだろう。


 だが、それでは駄目だ。


「直接、言いに行かないと……そうじゃないと、聞いてもらえない……」

「そんなことは、」

「聞いてもらえなかったのよ……っ!」


 振り絞った声は怒声にすらならず、弱弱しく室内に響いた。適当に宥めてしまっても良かっただろうに、リーヴィは命短き姉を思って口を噤んでくれた。それに甘えて、パルフェは八つ当たりのように嘆く。


「何度出しても駄目だった! 贈り物をしても駄目! お金を握らせても駄目! 直談判して、ようやくよ! どんなに頑張っても、それしか成功しなかった!! だから……っ、──」


 器官に唾がひっかかり、パルフェは激しく咽た。咳を落ち着かせ、荒々しく息を整えるだけで肺が痛い。


「パルフェお姉様……そうしたところで、ファニーシュお姉様が……処刑されるのは、変わりません」

「分かってる……分かっています……」


 リーヴィの言い分は分かっている。助かるかもしれないなんて淡い期待はしていない。ただ──愛する姉が、民衆の前で首を刎ねられる様など──二度と見たくない、そんな我儘でしかない。


 だが、不安で仕方が無かった。心配性であるとは自負しているものの、それ以上に、こんなことは初めてなのだ。


(私への危害以外で、お姉様に咎の証が浮かんだことなんて、これまでなかったのに!)


 咎の証が浮かぶ条件は一つだけ、魂が穢れる行いをすることだ。犯罪は数あれど、魂を穢すとまで呼ばれているのは大きく分けて三つ。それが、身内殺し、近親姦、自殺だ。


 今回、ファニーシュに咎の証が浮かんだのは大叔父の家であった。だが近親姦であれば双方に証が浮かぶはずだ、大叔父が何かしたとは思えないが、なら自殺かと聞かれると、もっと考えられないと言わざるを得ない。だって、数日後にはあんなに楽しみにしていた茶会が待っているし、姉は婚約者を愛している。命を絶つ理由が無い。あとは、身内殺しぐらいだが……。


 家族は誰も、危害を受けてなどいない。なら一体何が原因なのか。このままではいつ、姉の処刑が行われるかも分からない。嘆願せねば。直談判を……。


 また立ち上がろうと腰を浮かせたパルフェを、両肩を掴んで座り直させたリーヴィが小さくため息を吐いた。長女に加えて次女まで狂い出したので、彼もいい加減うんざりしているかもしれない。


「……お疲れのようです、今日はお休みください」


 鉄仮面みたいな硬い表情に、こちらを安心させようとぎこちない笑みを浮かべて、リーヴィは静かに退室した。


 静かになった薄暗い室内で、パルフェは(寝転がると自力では起き上がれそうになくて)天蓋を支える柱にもたれかかった。


(直近で亡くなったのは神父様だけど……リャーナルド家と親族関係ではないし、他に繋がりもなかった……)


 他に考えられることがあるとすれば、元々穢れていた魂が小さな罪を犯した事で許容範囲を超えてしまう事だ。


「……」


 ちらりと、白緑色の目を枕元にやる。暇つぶしにと両親が持ってきてくれた書籍で隠すように、悪魔に関する本が紛れ込ませてある。


(例えば……一族を神々の脅威に晒す発端となった悪魔、ザヌと契約していたとなれば、神々は咎の証を印すかもしれない)


 そもそも悪魔召喚も魂を穢す行いではあるが、リャーナルド家の歴史を知っていれば、ザヌは絶対に契約してはいけない悪魔だ。何も知らない姉が契約してしまうことはありえる。だが……。


(……いいえ。悪魔召喚には多くの供物がいるし、召喚陣だって複雑……幼いままのお姉様には難しいわ。それに、召喚する悪魔によって、作法も違うし……ザヌを呼び出すには、名も無き悪魔の妨害に耐える精神と時間が必要だと書いてあった……お姉様が何日も部屋に閉じこもっていた事なんて無いし、まず無理よ)


 姉は毎日元気に生活していた。たまに元気すぎて眠れないらしく、夜中に屋敷の廊下をうろうろしていたぐらいだ。


 そもそも、悪魔は穢れた魂を持つ者が行く末の存在。その数は世界の総人口よりも多いとすら言われている。その中でも名のある悪魔は、判明しているだけでも数十体。好みの儀式をしても現れるとも限らない。それらの条件を思えば、名のある悪魔を引くことすら相当低い確率だ。


(別の理由があるはずよ……私の知らないところで、歯車が狂っている……探さなきゃ……)


 だって、万全なはずだったのだ。パルフェと神の式に反対するリーヴィに先んじて釘を刺し、周囲に徹底して口裏を合わせてもらい姉に式の事を伏せ、後は茶会の日をやり過ごし、後でお菓子を持ってやってくる姉に泣きついてエオルとの面会を避け、誕生日よりも前に出立する──これ以上とないぐらい、ファニーシュに咎の証が浮かばない計画。……そのはずだったのに。


 這うようにしてナイトテーブルに近づき、引き出しを開ける。使用人にすら触らないようキツく言ってあるそこには、一度も使ったことのないナイフの横に、木箱が置かれている。


 姉の髪飾りが入っている、質素な木箱だ。


 ──これにはね、わたくしの一番のお気に入りが入っているのよ。


 ……まだ聖女病を患っていた姉が、かつてそう言っていた物。そしてパルフェが一目見て気に入って、欲しくなってしまった物であり、それを察知した姉がパルフェに差し出した物でもある。


「お姉様……」


 壁を支えによろよろと立ち上がる。このままひっそりと収容所に向かおうとしたが重心を支えきれず、仕方なしに壁で片肩を擦りながら窓辺へと移動する。


(せめて祈ろう)


 獄中の姉が、平穏で過ごせるように。


 起き上がるのも尋常ではない体力を要するようになり、日課だったお祈りがあまりできないでいたから、姉の体調が悪くなっていないか心配だった。いくら治ったと聞いても、信じ切れずにいたぐらいには、不安だ。


 たどり着いた窓辺で一度大きく深呼吸をし、カーテンを引いた。


「──」


 供え花の花壇に、エオルがいた。


(あ…………)


 今日は春の月、二十四日。リャーナルド家と、ディアンヌ家の親睦を深める為、家族で顔合わせを予定していた茶会の日だったと、今頃気づく。


 きっともう、婚約破棄の話を詰めているのだろう。両家の当主はそこにおらず、既に投獄された姉に代わって、今回はリーヴィが案内をしているようだった。暗い顔をするリーヴィを励ましているのかエオルが彼に微笑みかけ──不意に視線を上げた。


 そこに大した理由は無かったのだろう。視界の端に人影を捉えたのかもしれないし、風で舞う木の葉を何気なく追いかけただけかもしれない。だが視線の先にはパルフェがいて、目が合った二人の時が一瞬止まるのは、繰り返す人生においてまるで必然のように何度でも起こるのだ。


 そして理不尽にも、パルフェは何度でもエオルを一目で好きになる。


 熱くなる頬が、熱で潤む目が、その目を離せずにいるのも、鼓動が高鳴るのも、汗が滲むのも、心地よい甘い感覚も何もかもが嫌になる。


 姉の婚約者でさえなければ、パルフェの方からどうにかしてお声がけ出来ないか画策していただろう。ひょんなことから婚約者になったりできないか、友人でも構わない、何か繋がりが持てたらと夢見たことだってあった。


 だが、彼は姉の婚約者だ。パルフェは義妹であるのが精いっぱいで、愛する姉を裏切って関係を持つなんてできるはずもなく、必死になって気持ちを殺してきた。だが、何度も失敗してきた。感情を止める術はどこにもなく、目を合わせればうんざりするほど好きになり、その罪を罰しようと姉は刃物を握るのだ。


 ……その姉は、今この屋敷にはいない──。


 甘い囁きにも似た考えが過り、パルフェは急いで窓に背を向け、後ろ手でカーテンを閉め切った。


(お姉様は冷たい牢獄で一人、死を待っているのに……私は、何を……)


 変わらない。何も。また、彼を好きになる。姉はきっと、そんなパルフェをまた見咎めることだろう。あの冷めきった、断罪者の目で……。


「……っ」


 思い出した視線から逃げるように、パルフェは引き出しから髪飾りが入った木箱を引っ掴み、外着に着替えることすらせず家を飛び出した。


(違う、違うんです、お姉様。私は、貴方の物を盗ろうとしたわけではない……!)


 幸い、今日はディアンヌ公爵家が来ているので使用人の多くはそちらの仕事で忙しく、またパルフェがここ最近寝込んでいたのも相まって、『パルフェお嬢様は部屋で大人しくされているだろう……』と信じているようで、あっさりと外に出ることが出来た。


 一度でも足を止めればもう動けなくなるような気がして、少し動くだけで上がる息をしながら足を出し続ける。


「パルフェ様!? お、お一人ですか? どうされたのですか!」


 ふらつきながら知人の家を頼ると、大層驚かれた(今まで令嬢らしくきちんとした装いと、従者を引き連れていたのだから当然の反応だ)。


「馬を、貸してください……収容所、に……行かないと……」


 息も絶え絶えにそう主張すると、知人は最初止めようとしたが、床に這いつくばって頼み込むと、とうとう折れて、とはいえ乗馬はさせられないと思ったのか馬車を貸してくれた。


「ファニーシュ……の、ところ、ですか……?」


 同乗した知人は、いつも通りに呼んで良いものか悩んだような言い方をした。小さな声で「はい」と答えると、知人は「そうですか……」と目を伏せた。


「なら……収容所ではなく、大広場に向かいましょう」

「え?」


 顔を上げる。対面に座る知人は、「最近の貴方様は体調が悪いようでしたから、伏せられていたのでしょう」と、なんだかよく分からない事を言う。


「なんの、話……」

「彼女の処刑は、今日です」

「そんなはずないッ!!」


 金切声に近い叫びをあげた。知人は動じず、ただただ同情的な目でパルフェを見ていた。叫ぶだけでも疲れて、肩で息をしながらパルフェは、違う、と首を振る。


「だって、まだ……婚約破棄が……」

「既になされています」

「で、でも、今日、ディアンヌ家の方々が……」

「ファニーシュの処刑が無事終わることを、祈る為かと。咎の証が浮かんだ者の親族は皆、そうします」

「そんな……はずは……」


 記憶を巡らせる。一度目の人生はどうだっただろう。……もう思い出せない。


 だってもう、何度この時間を繰り返したか覚えていないのだ。


 沈黙の間にも馬車は進む。ついにたどり着いた大広場は、中央に大きな処刑台が設置されていて、丁度連れられた姉がきょとんとした顔で、言われるがままに首を木の板の窪みに乗せた。


「お姉様……っ!」


 御者が扉を開けるよりも先に自分で開け、パルフェは馬車を降りた。ふらつく足では体を支えきれずに転んでしまったが、周囲が貸してくれる手に目もくれずひとりでに立ち上がり、人だかりをかき分け処刑台へと駆けていく。


「お姉様、お姉様!」


 声が届いたのだろうか。人混みの中からパルフェを見つけ出した百群色の目が、確かにパルフェの方を向き──穏やかに細められた目が、すうっと、静かに冷めていく。断罪者の目に、あの目に、なっていく。


 嗚呼。ここに彼がいなくても、恋に落ちたその瞬間でなくても、姉には分かってしまうのか。


「──」


 ファニーシュが何か言おうとした。周囲のざわめきを聞き流しながら、パルフェは止まれない足で人混みを進む。


「あれ、リャーナルド家の令嬢だったんだろ?」


 姉が小さな口を開く。明確にこちらを見ている。


「清き一族から咎人が出るとは……」


 幼い顔を酷い形相にして──断頭装置の大きな刃が落ちて来て──人波を押し避けて最前列にたどり着いたパルフェの前で、血飛沫が舞った。


 綺麗な菜種色の鮮やかな髪が風に乗って、錆びた匂いと共にパルフェの頬を掠めた。


 心音が止まったような気がした。息が詰まる。こんな光景は二度と見ないはずだったのに。何かが壊れていく感覚で前後不覚になりそうなパルフェを他所に、人々は歌う。神を称える歌だ。咎の証が浮かんだ者の、正しい処刑方法だというのに、パルフェは居心地の悪さと、痛みすら感じて顔を歪める。


「穢れを落とそう」

「美しき世界は保たれる」

「神に感謝を」


 何が神か。何が穢れか。


 愛すべき人にあんな印を刻んだ神に、何を感謝しろと言うのか。


「あぁ──」


 嗚咽のような声が漏れた。掠れた、老婆みたいな声だった。それが自身の声だと気づいたのは数秒後で、周囲の安堵の空気に喉はひくつくばかりで、言葉にならなかった。



 半ば引きずられるようにして、神の下へと運ばれたパルフェは願う。


 それは、これまでと同じ願いだった。


「……神よ」


 掠れた声で神を呼ぶ。もう涙が出ない程泣いて赤く腫れた目で、ステンドグラスを見上げる。そこに描かれるのは教会創設者の姉妹とされている女性だ。


 創設者とされる男性が描かれることはない。それどころか、その人がどのような名前で、どのような顔をしていて、どのような性格をしていたかすら、民衆は知らないし、知らないことを疑問にも思わない。


 悪魔の力とは、そういうものだ。


「姉、ファニーシュの穢れを全て私が背負います」


 大嫌いな神様に、パルフェは跪き、頭を垂れて懇願する。


「やり直しの機会を今一度、私に」


 燭台の炎が、風も無いまま消える。


 ぐにゃりと視界が歪んだ。

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