◇ 惨敗の末、男は己が身を賭けた。

 その日、パルフェは自室に閉じこもり、ひたすらに祈っていた。少しでも動きやすくするため、穢れた魂の浄化に勤しんでいた。


 使用人の多くは茶会の方にかかりっきりだったし、祈り捧げるにはうってつけな静かな一日だった。しかし、


(お腹空いた……)


 祈る為に昼食を事前に断ったせいで、夕方になる頃にはパルフェはすっかり空腹になってしまっていた。使用人を呼ぶベルを鳴らしたが、まだ片付けで忙しいのか人は来ず、パルフェは浄化が進み少しだけ軽くなった体で、部屋を出た。


 少しはしたないけれど、厨房に顔を出して一口つまめるものでも貰おうと思ったのだ。


(この時間なら、もうディアンヌ家の方々はお帰りになった後だし……残り物のクッキーがあったはず……)


 いつかの巻き戻しの時のように姉が持ってきてくれないかと期待もしたが、いつまで経っても屋敷に人の気配が戻ってこないので、パルフェは仕方なく自力で取りに行くことにした。──この時点で、前回までと違う事が屋敷に起こっていると考えるべきだった。


 厨房に寄る途中、開けっ放しになっていた応接室を何気なく見──黄赤色の髪の少年が俯いてソファに座っているのが見えて、足を止めてしまった。


 足音がしたからか、人の気配がその場に止まったからか、少年は重い動きで顔を上げた。


「──」


 桃花色の目と目が合う。息が止まる。時間が止まる。互いに相手の全てを見抜いたかのように目を見開き、それが好ましい感覚であると感じ取り、時が動き出すと同時に鼓動は早まる。


 この瞬間を、何度経験しただろうか。


 甘酸っぱい、いつまでも浸っていたいような思いに、全ての終わりが混じっていく。


(どうして、エオル様がここに──)


 思わず時計を確認した。今までなら、彼は両親と共にリャーナルド家を離れている時間だというのは記憶違いではなかったようで、少し間が空いてエオルがやや覚束ない足取りで立ち上がった。


「ごめんなさい、驚かせてしまって……少し休むだけのつもりだったんだ」


 立ち眩みでもしたのか、言いながらもエオルの体が少し揺れた。咄嗟に、パルフェは駆け寄って彼の体を支えた。こんなにも至近距離で顔を見たのはいつぶりだろう。まだ少し童顔気味な少年は、気恥ずかしそうにはにかんだが、これまでの記憶よりも顔色が悪いような気がした。


「パルフェ嬢……だよね? ファニーシュの妹の」

「っあ、はい……パルフェ=リャーナルドでございます……」

「初めまして。ファニーシュの婚約者の、エオル=ディアンヌだ。……姉妹というだけあって、よく似ているね。今日は体調が悪いと聞いていたけれど」


 婚約者の妹として扱おうとするエオルに従い、パルフェも姉の婚約者として彼を扱う。青い顔をしている彼を座らせ、周囲を見渡す。人がいない。


「あ、あの……お姉様……ファニーシュや当家の者はどちらに……?」

「ああ、僕が少し体調を崩してしまったから……珍しいことだったから、両親まで医者を呼んだり栄養がつくものを用意するとかで離れていて……予定ではもう帰っている時間だったのに、長居して悪いね」

「い……いえ……」


 微笑みかけられて、なんてことの無い仕草に胸が締め付けられる。全身の熱が巡り心地よい感覚と、背後から刃物を突き付けられているような緊張感が同時に押し寄せてきて、パルフェはぎこちない笑みを浮かべる余裕すらなかった。


(エオル様が、体調を崩すなんて今までなかった……どうなっているの……?)


 まさか、彼も前回の神父のように、何者かによって悪魔をけしかけられたりしているのだろうか。何か変化は見つけられないかと思い、まじまじとエオルを見つめる。


 くうぅぅぅうう、と音が鳴った。


 音と、下腹部が震える感覚に驚いて目を瞬かせてから、それが自分の腹の音だと気づいてパルフェは顔を真っ赤にして手で顔を覆った。


「っも……も、申し訳、が……ありません……!」


 空腹を思い出して、何もこんな時に、エオルの前で鳴らなくてもいいではないかと、いい歳をして恥ずかしいやら情けないやらで顔をあげられずにいると、「ふ、」とエオルが小さく噴き出したのが聞こえて目だけで彼の様子を窺う。


「や……ふふ、ごめん……なんだか意外で……」


 もっと人間味の無い人物を想像していた、とエオルは肩を震わせたまま言った。


「神様に祈りを届けるばかりか、奇病を治してしまうような方だから……欠点も無いような……ああいや、別に腹が鳴るのは欠点ではないのだけどね」

「わ、笑わないで、ください……っ今日は寝込んでいたからで……」


 言ってから、部屋着で彼の前に立っているのが恥ずかしくなって、パルフェはじわじわと首に汗が滲むのを感じながら少し彼から距離を取った。祈るのに集中したままで着替えずにいるから、汗臭いかもしれない。


「普段は、ちゃんと……して──」


 パタパタ、と。子どもの足音が近づいて来た。ハッとして扉を振り返った時には、姉がそこに立っていた。


「……パルフェ、」

「お姉様、」


 子ども特有のキラキラとした百群色の大きな目から、光が失われていく。冷めきった空気を纏う姉にパルフェが無意味と知りながら弁明をしようとしたその時だった。


 ぱっ、と。姉に笑顔が戻った。


 と同時に、パルフェは体の内側に鞭を打たれたような鋭い痛みで、ビクリと重苦しくなった体を揺らした。


「体調が戻ったのね! エオル様との顔合わせも終わったの?」

「ぅ……え、は……はい……」

「そう! ねっ、わたくしが言ったとおり、とっても素敵な人でしょう! あ、そうだわ! まだディアンヌ家の方たちも残っているから、パルフェも挨拶しましょうよ!」


 にこにことしたいつもの笑顔に、パルフェは拍子抜けして「いえ、その」と口ごもる。


(今何か、変な感覚が……何……?)


 痛みが残る奇妙な感覚に心臓が激しく鳴る。戸惑うパルフェは、迷いながらも目の前の会話を続ける。


「ふ、服……そう、服。この恰好では、公爵家の方々と顔を合わせられません」

「あっ、それもそうね!」


 納得したようにファニーシュは手を打って、満面の笑みを浮かべた。


「じゃあ、着替えてきて! パルフェは普段からあまりお外に出ないから、ご挨拶する機会は滅多にないでしょう? 自慢の妹をお披露目できないのは、わたくし悲しいわ!」

「わ……分かり、ました」


 屈託のない笑みに困惑しながらも、姉の言葉に従いパルフェはエオルに一礼してから踵を返した。


(どういうこと……? 私とエオル様が顔を合わせただけで、私の彼に対する好意に気づいて激昂していたはずのお姉様が、怒らない……?)


 部屋へ戻る道中にメイドに声をかけ、部屋で急いで着替えをしながらも、これまでとは違う姉の反応に戸惑い、落ち着きなく考える。


(でも、見間違いではなかったのなら、一瞬……ほんの一瞬、お姉様はいつものように私を断罪する目をしていた……)


 これまでの巻き戻りでは、姉はその衝動を抑えることができず、刃物を取り(あるいは殴りかかり、時には馬乗りになって首を絞め)、パルフェの命を奪いきる前に第三者によって止められ、咎の証が浮かび投獄されていた。


 それが、止まったのだ。どんなに手を尽くしても、弁明しても、受け入れず暴れたあの姉が、自制した。何故? 分からない。


(……さっきの、痛みは何?)


 ブローチが飾られた胸元を鏡で確認するフリをしながら、パルフェは先ほどの奇妙な痛みを思い返す。あれは、これまでの巻き戻りで一度だけ経験した痛みだった。あの時は、姉が投獄されてから痛みが酷くなり、しかし外傷はないので周囲に上手く伝えられず、一人で耐えることしか出来なかったが……痛みが続いたのはそのやり直しの最中だけで、以降の巻き戻しでは経験しなかったので、単なる体調不良かと思っていた。


 だが、よく考えてみれば、あれ以降から少しずつパルフェは体調を崩し始めたような気がする。姉の処刑を遅らせることに成功してから、やり直す度に徐々に、パルフェの浄化が追いつかない勢いで魂が穢れている。


(お姉様が、私に何かしている……? いいえ、まさか、あのお姉様に限って……ありえないわ)


 馬鹿な考えに首を振り、これは好機だと捉えるべきだと考え直す。そう、好機だ。


 これまで何度やり直そうと、エオルがパルフェの目に(それが遠目だったとしても)映れば暴走し咎の証が浮かんでしまう姉が、それを克服する術を見つけたのだ。あとはその条件を探れば、魂の浄化を進めることができる。


 愛しい姉を、悪魔にせずに済む。


(そうよ、これは好機よ……お姉様の魂の汚れを全て浄化し、お姉様はこの先“清き一族”の名に負けぬ清き人として生きていくの)


 そうでなければいけないのだ。


 だって、姉の奇病が聖女病に切り替わったのは、パルフェのせいなのだから。


 気合いを入れるように両頬をぱちりと叩き、パルフェは身だしなみの最終確認をとり、着替えを手伝ったメイドの確認も取り、部屋を出る。


 体が重い。少し前までの浄化作業で消し去った以上の穢れを背負い、パルフェは応接室に戻る。待ち構えていたファニーシュに手を引かれて部屋に上がれば、ディアンヌ家の夫妻も戻っていたようで、公爵家の三人にパルフェはそっと礼をする。


 顔を上げる。


 エオルと目が合う。微笑みかけられ、きゅう、と胸が締め付けられ──バシッ!! と、全身に鞭を打たれたような鋭い痛みが走った。


「……っ」


 表情を隠すように努めていなかったら、声をあげて蹲り顔もしかめていたかもしれない。どっと重くなった体を周囲に意識させぬようパルフェはドレスの裾を掴む手に僅かに力を込めることで耐え、ちらりと姉を見やった。


「やっと挨拶ができて嬉しいわ! わたくしの妹のパルフェですわ! とっても、とっても、可愛いでしょう! よろしくしてくださいませっ!」


 にこにこと笑顔でパルフェを紹介する姉は、やはりいつもと変わらない姉だった。


***


 それからは、平穏だった。


 元気いっぱいな姉は楽しそうに暮らし、リーヴィはこちらを気遣うことこそあれ姉の行動にはいつも通りの対応で、母も父もできるだけいつも通りを装い日々を過ごす事に注力してくれている。


 重い体をソファに深く沈め、思う。


(この時期はいつも……投獄されたお姉様の事で、家の中は暗かったものね……なんて穏やかで、暖かい日々かしら)


 望んでいた日常だ。


 一つ不満を上げるとすれば、これまでとは違い、何度となくエオルがこの家を訪れるようになった、ということぐらいだろうか。


 彼は姉の婚約者で、その姉は奇病の治療に成功した奇跡の存在で、国随一の供え花の花壇を持つ我が家がエオルにとって興味深いものであるのは事実であるし、遊びに来る事自体は不自然な話ではない。


 ただ、公爵家の人間が同じ敷地内にいれば伯爵令嬢のパルフェが挨拶しないわけにもいかず……その度に、あの痛みが体中を走り、耐えなければならないのが辛かった。


 茶器を手に取ろうとして、指先が震えて上手く取れず、嘆息してパルフェは自身の手の平をじっと見つめた。


(浄化が追いつかない……あの痛みがくる度に、浄化した以上の穢れが溜まっていく……せっかくお姉様が、怒りを抑え込めたのに、これでは……)


 息を吐く。眠たい。だけど目を閉じても眠れない。体が重い。頭がクラクラする。地面が回って見える。


『……何があったのですか?』


 今月の十四日。姉に連れられたベル教会で、パルフェは神父にそう声をかけられた。茶会を楽しむ姉を尻目に、聖堂でぐったりとしていたパルフェは『何も』と答えたけれど、神父は信じられないと言いたげな顔でパルフェを見つめていた。


『それほどの穢れ、大天使から加護を頂いた貴方が溜め込むはずがありません。明らかに、外部から攻撃をうけています』

『攻撃……? 誰から?』

『何か心当たりはありませんか? 貴方に対して、攻撃的になった人物……黒魔術に詳しい人間でも構いません』

『……いませんよ、そんな人……』


 パルフェに対して攻撃的な人物……そう言われて、姉の顔が頭を過った。痛みは確かに、エオルとパルフェが顔を合わせた時、そして近くにファニーシュがいる時に発生している。だが、神父の言い方ではまるで、姉が悪魔と契約してパルフェを呪っているようではないか。


 そんなことはありえない。あの姉が。純情無垢な姉が。天真爛漫な姉が。パルフェにとって、天使そのものである愛しい姉が、そんなことをするわけがない。


『神父様……ご存じの通り、私は大天使様の加護を受けています。悪魔や呪いにはとんと強いのです』

『だからこそ、今の状態は異常です。浄化の力があるはずでしょう。例えば貴方が──』


 馬鹿らしい例え話をしようとして、神父は言いかけて止まった。じっとパルフェと目を合わせていた彼は、嫌な想像を働かせて息をのんだ。


『パルフェ。貴方まさか、誰かの穢れを代わりに引き受けてなどいませんね?』

『……』


 なんと鋭い目線を持つ人だろうか。これがパルフェ相手ではなく、悩みを持つ子羊とやらにだけ向けられていればよかったのに。


 聖堂で嘘などつけず、パルフェは黙り込んで顔ごと視線を逸らした。神父はその場に屈み、パルフェの顔を見上げ、真摯に告げる。


『今すぐやめなさい。貴方の力で浄化し切れないほどの穢れを溜め込むなんて、余程の行いをしているはずです』

『ですが……』

『穢れとは、その人の行いによって溜まるもの。溜めた本人が背負うものです。他人が持つものではありません』


 正論だ。そう思う。だけど、パルフェは首を振った。


『これは、神もお認めの行為です……』


 大嫌いな神を盾にして、パルフェはその場から逃げた。


 一夜明けて早朝から自室のソファに座り込み、パルフェは力なく天井を見上げる。思考はほとんど回っていなかった。穢れのせいかもしれないし、単純に疲れ果てていたのかもしれない。


「パルフェお嬢様、準備が整いました」

「……ええ。今行きます……」


 から返事のような調子で答えて、数秒そのままの姿勢でいたパルフェだったが、呼びに来たメイドの視線に気づき、のっそりとした動きで立ち上がった。


 日課のお祈りの時間だ。


 部屋を出て、庭へたどり着くまさにその直前に、彼を見つけてパルフェはギクリとしてその場に立ち止まった。


 そして、痛みに備えて息を止めた。酷い調教を受けた猛獣のような気分だった。エオルを見れば全身に痛みが走るのが日常に組み込まれつつあったパルフェは、ぎゅっと服の裾を強く握り──いつまで経っても痛みがやって来ないので、おそるおそる顔を上げた。


「おはよう、パルフェ嬢」


 穏やかな表情を崩さず、不思議そうにこちらを見つめていた彼は、パルフェが顔を上げたタイミングでそう声をかけて来た。


「……お、おはようございます、エオル様。よく眠れましたか……?」

「勿論。急な泊まりになってごめんね」

「いえ……天気が、悪かったのですから……気になさらないでください」


 昨日、我がリャーナルド家に来訪していたエオルは、急な悪天候により急遽この家に宿泊したのだ。パルフェが今朝から気が重い理由の一つである彼はこちらの事情を知る事もなく、パルフェが日課の祈りを行うと聞くと「同席してもいいかな?」と興味津々な表情で尋ねて来た。


「勿論です。よろしければ、ご一緒に祈っていただけますと花も喜びます」


 いつ痛みが来るかとビクビクしながらも、平常通りを装いパルフェは庭へと歩み出す。そして供え花の花壇一つ一つの前で足を止めて祈った。


 全ての供え花に祈りを捧げ終えた頃、部屋に戻る前に少し休憩しようと東屋に入る。顔を合わせられないで俯き、備え付けの椅子に座るパルフェとは対照的に、エオルは感心した風に露できらめく花々を見ながら口を開いた。


「美しいね。祈りの積み重ねが生んだ景色だ」

「……代々、祈って作り上げてきましたから」

「貴方の存在が大きいと、僕は思うな」

「え……」


 思わず顔を上げる。桃花色の目と目があえば、それだけで苦痛でくすんだ世界が鮮やかなものになっていく。にこりと、彼は優しく笑んだ。


「ああ、やっと目を合わせてくれたね。僕は確かに公爵家の一員だけど、それを笠に着るつもりはないから、あまり委縮しないで欲しいな」


 初めて顔を合わせた時のような距離感でいいよ、と微笑む彼の目には、今、パルフェだけが映っている。そう意識した途端、緊張してパルフェは少し居ずまいを正した。


「綺麗だね」


 多くの使用人に囲まれながら、彼は言う。きっと庭の話だ。花壇の話だ。そう言い聞かせながら、言葉の意味を深く考えないようにして、だけどそれが自分に向けられているかもしれないという一抹の期待をして、パルフェは応える。


「……ありがとうございます」


 この瞬間が続けばいいのに。


 姉の事も忘れて、神へ身を捧げる事から逃げて、甘いひと時に全身浸っていたくなってしまった。


 バシンッ!!


 体の内側から鞭で打たれたような痛みが走り、パルフェは小さくうめき声を洩らした。……きっと、近くに姉がいたのだろう。


この痛みが姉によるものだと、もはや疑う余地もなかった。

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