23

 大戦からこっち、あたしは一度も教会に顔を出していない。

 ペトラとの関係が破綻してしまったこともあり、ペトラ食堂が関係している場所への出入りを避けているからだ。


 今のあたしはかなりの荒稼ぎをしているが、必要なものを買う分以外はギルドを通して全て教会に寄付している。

 孤児院は最低限食うのに困らない程度にはなっているはずだが、『掛け算の歌』や戦闘訓練がどうなっているのかは若干気になるところだ。


 娼館にも顔を出していない。

 これについては、ハイジ亡き今、取り立てて用がないというのもあるが、何よりもユヅキと娼婦のお姉さんが死んでしまったことで、どこか気まずいのである。


 学院については、教員として働くことを正式に辞退した。

 ハイジの命令ではあったが、テキストの共著者であるユヅキが戦死したこともあり、そんな中で悪評高いあたしだけが教壇に立つとなると、エイヒムの学院の評価が下がる。

 そう説明したら、トゥーリッキ氏は少し悲しそうにしながらも、強くは引き留めなかった。

 口には出さないが、トゥーリッキ氏も同じ考えなのだろう。


 ヴィーゴには「偽悪的だ」などと言われたが、あたしとしては悪ぶっているつもりは全くない。悪評を望んだことはないし、何より仲が良かった人たちとの関係が断たれるのはとても辛い。


 あたしだって普通の人間だ。できればあまり悪く思われたくはないし、昔のようにエイヒムの人たちとは仲良くしたい。


 ただ、ハイジとの最後の時間について、誰にも知られたくないだけだ。

 あれはあたしとハイジだけの大切な時間なのだ。


 あたしにとってほとんど唯一の宝物を守るために、多少の誤解やバッシングくらいは甘んじて受けるしかないのだ。


* * *


「おじさん、これとこれ、あとこれを二つちょうだい」

「あいよ」


 森で手に入らない食材などを購入しながらエイヒムの街を歩く。

 中にはあたしを見て露骨に嫌な顔をする人もいるが、大抵は何食わぬ顔で接してくれる。ただ、どこかよそよそしく、内心どう思われているのかはわからない。

 嫌だなぁとは思うが、かといってどうしようもない。

 とりあえず、必要なものを売ってもらえないような状況でないだけマシだ。


 買い物が終われば、すぐに森へ向かう。

 ペトラの店、教会、娼館に顔を出せない今、わざわざエイヒムで一泊する必要はないからだ。

 トナカイは公営の共同厩舎に預けてあり、大きく膨らんだ荷物を担いで足速に向かう。

 ハイジの経験値を継承したからだろう。やたらとでっかい荷物でも運ぶことに苦労はない。体がちっこいくて大きな荷物は持ちづらいが、そればかりは仕方ない。


* * *


「リンちゃん」


 声をかけられた。

 振り返ると赤ん坊を抱いたニコだった。


 大戦から帰ってから初めて見るニコは、また一段と大人っぽくなっていた。

 具体的には、おっぱいミルクタンクが膨張している。

 どこから見ても立派な母親だ。

 相変わらずのやせっぽちの癖にどういう仕組みなのだろうか。


「ニコ……久しぶり」


 ちょっと気まずい。

 ニコの養母であるペトラとは訣別しているし、こうして話すことが許されるのかどうかの判断も難しい。

 しかしニコは、と昔のままの人懐こい笑顔を見せる。


「久しぶりリンちゃん。元気?」

「お陰様で」

「……顔……」

「ああ」


 あたしの顔には結構な数の傷がある。

 その気になればナイフで切り裂いてヴィヒタを使って傷を消すこともできるが、痛いだろうし、あまり意味を感じない。

 あたしは肩をすくめて「大丈夫」とだけ答えた。


「赤ちゃん、無事に産まれたんだね」

「そうだよ。リンちゃんに見せたくって、待ち伏せしちゃった」


 会うために待ち伏せした、という言葉に少し胸が痛んだ。


 ずっとニコを避け続けていたあたしが、ニコの顔を見ただけでこんなにも嬉しい。


 喜んでいいのだろうか。

 嬉しくなってしまってもいいのだろうか。


 あたしは気づかれないように平然を装う。


「男の子? 女の子?」

「女の子だよ」

「へぇ。……ニコに似てるね。口元はヤーコブ寄り?」

「髪の色もね。抱いてあげて」

「あー、えーっと」


 逡巡する。

 あたしなんかが抱いていいのだろうか。

 そもそも今こうしてあたしと会っているだけで、ニコの立場が悪くなるような気がする。


「やめとく」

「えっなんで?」


 断るとニコの目が丸くなった。

 まさか断られるとは思っていなかったようだ。

 気まずくなって、言い訳を探す。


「……実は左手が動かないんだ」

「嘘ばっかり」


 咄嗟に口を吐いて出た言い訳に、ニコがぷぅとふくれた。


「握力がないだけで、腕は動かせるって聞いてるよ」

「誰に?」

「ペトラに」


 じわり、と何とも言えない感情が胸に芽生える。

 ペトラがあたしを話題に出すなんてことがあるのか。


「ペトラは? 元気?」

「あー、ここ最近ものすごく老けたよ。もう四十過ぎになるからね」

「そう……」

「いいから抱いてあげてよ」


 やや強めの口調で言われ、あたしは逡巡する。

 本当は抱いてやりたい。触りたい。撫でてやりたい。

 目の前ですやすや眠る、ニコに似た輝くような子供に目を奪われている。


 でも。


「……この子の評判が悪くなる」

「そんなこと気にしなくていいよ」

「いや、母親なんだからそこは気をつけなよ」

「さっき洗礼を済ませたばかりなんだ。ヤーコブの次にリンちゃんに抱っこしてもらいたくてね。もう一時間以上待ってるんだよ」


 あーあ、ずっと待ってたのになー、とニコが口を尖らせる。

 お母さんになったはずなのに、出会った頃のニコを彷彿させる態度に、あたしは暖かい気持ちになった。


「じゃあ、ちょっとだけ」

「ちょっとと言わず、ちゃんと抱いてあげて。えっと、左手はこう、右手は上から……」

「こう? うわ、めちゃめちゃ軽い」

「上手上手」

「……かわいいね。めちゃくちゃ……かわいい……」


 人間って不思議である。

 ただかわいいと言うだけで、なぜ泣きたくなるのだろう。


「名前は?」

「リンだよ」

「…………………は?」

「だから、リン。この子の名前」

「は? は? なんで?」

「だって、リンちゃん戦争から帰っても逃げ回って、名前つけてくれなかったじゃん」

「だからって! ニコ、あたしの悪評知ってるの? この子の未来のことを考えたらそんな名前」

「知ってるよぅ、死にたくないばかりに大恩ある養父を殺害した生き汚い女、だよね」


 一時はその噂で持ちきりだったからね、とニコは言う。

 なんでも、ペトラの店にも抗議が殺到したらしい。


「知ってるなら、なんで!」

「だって、嘘だって知ってるもん」


 ニコはおかしそうに笑った。


「ペトラも言ってた。リンちゃんは世界で一番辛い選択をしたって」

「ペトラが? 嘘よ、そんなの……」

「ハイジさんですらできなかったことをアイツはやってのけたんだ、って言ってたよ」

「でも、あたしとペトラは……その……」

「それっ! ペトラったら、ものっすごぉーく怒ってたよ」


 ニコは両手の人差し指を広いおでこに当てて悪魔のマネをする。


「なんで正直に話してくれないんだ、って。水臭いって」

「…………ニコ」

「でも、どうせリンちゃんのことだから、ハイジさんとの最後の時間を独り占めしたいだけなんでしょ?」

「ニコ、や、やめ、て」


 あたしは俯いてニコの言葉を止めた。


 ニコは「そう? なら黙っとくけど」と言って肩をすくめる。


 体が震えていた。


 ダメだ。

 理解されちゃだめだ。

 それくらいなら、誤解されたままの方がまだマシだ――。


 ――なのに何故、あたしは嬉しくなってしまっているのだろう。

 気づくとあたしは涙でボロボロになっていた。


「う、あ」


 だから嫌だったんだ。

 理解されてしまえば、愛されてしまえば、ハイジを殺したあの瞬間の痛みが薄れてしまう。


 何度も夢に見た。

 その度に悲鳴を上げて飛び起きた。

 そしてハイジのいない現実を突きつけられて、あたしは悲しみと寂しさで息もできないほど苦しんだ。


(この苦しみを奪わないで)

(あたしなんて放っておいてくれたらいいのに)


 でも、ニコの言葉が胸を熱くしていることは紛れもない事実で。

 ひだまりのような暖かさに縋りたくなることも間違いなく本当で。


「うっく、あ、ぐ」


 ズビビー、と鼻を啜る。

 だめだ、腕の中の珠のような赤ちゃんを汚したら大変だ。


「いま、から、でもっ(ズビビー)、名前、変えら、られ(ズビ)」

「無理だよぅ、さっき洗礼も終わったし」

「洗っ、礼?」

「ヴォリネッリじゃ教会で洗礼して初めて人と認められる、ってのは知ってる?」

「し、知ら、ない」

「その時に名前も届け出るの。受理もされたから、この子の名前は一生リンだよ」

「なんでぇー!」


 あたしは叫んだ。


「なんでっ、そんなことっ!」

「リンちゃんのことが好きだからじゃん。尊敬してるからじゃん」

「あたっ、あたしなんてっ」

「リンちゃん、、なんて言っちゃだめだよ。それともリンちゃんは、自分の選択が間違ってたと思ってるの?」

「ちが、う、けどっ」

「だったらそれでいいんだよ」

「ヤー、コブ、はっ?」

「もちろん二人で決めたんだよ。それに、ペトラも反対しなかったよ」


 その時、あたしの抱き方が下手だったからか、腕の中の赤ちゃんが「うあーん」と猫みたいな声で泣き始める。

 あたしも我慢できずに「うわぁん」と声を出して泣いた。


 公営厩舎の周りは人通りは少ないけれど、それでもすれ違った人たちが怪訝そうな顔でこちらを見ていた。

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