20

 一人で帰ってきた少女を見て、ヘルマンニは「やっぱりな」と思った。


 飛び出していくハイジを見たヘルマンニには、であろうという確信めいた予感があった。

 だからといって『遠見』で覗き見たりはしない――それはハイジへの誠意でもあり、友としてのマナーだった。

 気にならないといえば嘘になる。

 しかし、ヘルマンニはハイジの選択を信じ、だからこそ、その背中を押したのだ。


 黙ったままポツンと突っ立ったままの少女はものすごく小さく見えた。

 もともと小柄な――あくまでこの世界基準ではあるが――少女だったが、いつもの小生意気な様子は形を潜め、愛用の細剣レイピアを大切そうに胸に抱きしめながら俯いている。


「よぉ、リン」


 ヘルマンニはいつもの様に軽い口調で声をかけた。

 返事はない。

 聞こえていないはずはないが、なんの反応も示さなかった。


「ハイジは幸せそうに逝ったか?」


 それは、不死身と思われたの英雄がもうこの世にいないことを確信していなければ出ない言葉だ。

 少女はゆるゆると顔を上げた。


「……見てたの?」

「そんな野暮な真似はしねぇさ」


 もちろん少女にもわかっていた。もし覗き見られていたとしたら、自分とハイジが気づかないはずもないからだ。いや――それ以上にこの気のいい男がそんな真似をするはずがないと、無意識に信頼していただけかもしれない。


 少女は泣いていなかった。

 男が死んでしまったことを悲しんでいるわけでもなかった。

 ただ、置いて行かれたことがどうしようもなく寂しいだけだ。

 独りであることを持て余しながら、少女は大切な何かを胸に抱き、それをじっくりと味わっている。



 手にはまだ、男の心臓を貫いたときの感触が残っている。

 愛用の剣を通して手に伝わる、力強い鼓動が止まるその瞬間も。

 その感触も、別れの痛みも、全ては男が遺したものだ。

 だから少女は、決して忘れまい、と心に刻み込む。

 静かに荒れ狂う寂しささえも、一欠片すらこぼさず大切にしまい込むように。



 恐るべきことに、あれほど傷だらけだった体はほとんどが治癒していた。

 肩に受けた矢傷のせいで左手の握力がほとんど残っていないことを除けば、既に問題ない程度には治っている。

 見た目の傷は残っているが、これならだろう。



 対して、ヘルマンニの心は晴れやかだった。

 むしろ親友の幸せな最期に、とっておきの稷酒ラムで乾杯したいような気分だった。


(死ぬくらいどうってことねぇじゃねぇか。なぁ? ハイジ)

(よかったなぁ……お前もようやく愛を知ったんだな)


 根っからの傭兵であるヘルマンニは死に頓着しない。

 そんなものよりもよほど大事なものがあると知っていたからだ。

 故に、目の前の昏い目をした少女と、手のかかる親友を心から祝福した。


 だけど――とヘルマンニは考える。

 世間はきっとそうは考えないよな、と。

 生き残るために英雄を殺した少女。――少女には辛い運命が待っているだろう。

 これは一肌脱いでやる必要があるか、とヘルマンニは考えたとき、少女がポツリと呟いた。


「ヘルマンニには、全部わかってたのね」

「まぁ、そうだな」

「なら――お願い。どうか余計なことをしないで」

「余計なこと?」

「あたし、誰にも理解してほしくはないんだ」


 ヘルマンニだけは許してあげるけど、と少女は顔を上げる。

 愛した男が残したあらゆるものを――それには悲しさや寂しさなどの苦痛を伴う感情も含まれる――その全てを少女はひとつ残らず、大切に味わい尽くすつもりなのだ。


「……いいのか?」

「もちろん。ハイジの望みだもの」

「いやぁ、ハイジはあれでけっこう抜けてるからよ……そこまで考えてねぇと思うんだよな」

「それでもよ。ハイジがくれたものは欠片だって無くしたくないもの。全部あたし一人だけで……独り占めさせてもらうわ」


 そう言って、少女は美しく笑った。

 ヘルマンニはそれを目の当たりにし、危うく見惚れてしまいそうになった。



 ああ、そうか。

 こいつ、不幸じゃないのか。

 ハイジに与えられたあらゆるものが、等しく大切なのか。

 愛も、喜びも、寂しさも、苦痛ですらも、何もかも全部同じなのか。



 圧倒された。

 どんな愛だよ、とヘルマンニは驚愕した。

 この小さな少女が、ただあの英雄の横にいるだけのために、どれほどのものを犠牲にし続けてきたのかを思い知った。


 それを思うと、ヘルマンニは少女の願いを無碍に断る気にはなれなかった。


「わかった。選択を尊重しよう」

「ありがとう。感謝するわ。一応ね」


 そう言って、少女は背を向けた。


 戦争は終わった。

 しかし、少女にとっての戦いはむしろこれから始まるのだろう。


 ヘルマンニは少女に気づかれぬよう、そっとため息をついた。


* * *


 「ハイジの遺書だ」


 ギルド長ヴィーゴからぽいと封筒が投げ渡された。

 封筒の中身は二枚綴りの手紙だった。

 封蝋はすでに破られており、手紙にもギルドの検閲印が押されている。


 傭兵には遺書を書いておくことを義務付けられている。

 少女も遺書は残してあるが、内容は「好きにして」くらいのものだ。

 あのハイジが残した遺書。

 どんな内容なのやら、と少女は思った。


 ヴィーゴは英雄ハイジが死んだことについて何も聞かなかった。

 命を落とすことを初めから知っていたからだ。


 それにしても、と少女は訝しむ。

 たしかこの男とハイジは親友なのではなかったか? ならば、もう少し何かあってもいいのではないか。

 しかし、男同士の友情について、女の自分が意見などするべきではないと少女は思い直す。

 それに、変に自分を理解しようとしない男には好感が持てる。


 少女は封筒を受け取り、ペラリとめくる。


 一枚は自分亡きあとの財産について書かれている。

 もう一枚は同居人である少女へ向けた手紙である。


 ハイジらしい、と少女は思った。

 そこには感傷的な文章などかけらも存在せず、むしろ跡を継ぐために必要な情報だけが羅列されている。


* * *


『番犬』と呼ばれた英雄は、ヴォリネッリ中の『はぐれ』の情報を集めていた。

 ギルドに預けていた金貨を惜しげもなく使い、金にあかせて集めた情報をもとに『はぐれ』の保護活動を行なっていた。


 活動の中心になっていたのは、領主ライヒ伯爵、そしてヴォリネッリに集結した保護された『はぐれ』たちだ。


 ライヒ伯爵と『黒山羊』は友人である。

『はぐれ』の血を引くこの変わり者の領主は『はぐれ』の利用価値を誰よりも理解していたし、それ以上に親友『愚賢者』の弟子であり、自身の友人であるハイジのためにできるだけのことをすると心に誓っている。


『はぐれ』の優れた能力と知識は、ヴォリネッリに革命を起こした。

 それは科学や文化といったものから、政治や経済にまで及んだ。


 貴族が全てを決めるような政治形態がもはや限界なのは明らかだった。

 戦争ばかりが多く、犠牲者は増え続け、一次産業すらも壊滅状態で――もはや経済的にも死に体だった。


 そんな中、新興貴族であるライヒ伯爵は、議会政治のほうが儲かり、領土が豊かになることを証明して見せた。しかも貴族の立場は守られたままで、である。


 当然ライヒ領は目をつけられる。幾度も宣戦布告が行われたが、ライヒはその全てを『番犬』の力を借りて退けてみせた。


 結果その政治思想は、惜しげもなく、余すところなく論文として公表された。

 さらには首都エイヒムに学院を設立し、他領の貴族をも招き入れる予定だという。


 その思想は冷徹なまでに合理的で、旧態依然の貴族たちにとっては到底受け入れられる様なものではなかった。


 しかしヴォリネッリの将来を憂いていた中央政府の王族たちにとっては、それはまさに福音だった。

 もともとシンパの多かったライヒ伯爵の改革は概ね歓迎され、ヴォリネッリは精霊の国アースガルズの立憲君主制にも似た、独自の政治形態への道を選択した。


 反対意見も多かったが、ライヒ伯爵はを行使することで、この新しい体制が老朽化するまでの数百年の間、平和が維持できると主張した。


 それが引き金になり起こったのが、中央政府勢力と反政府勢力による大戦だ。


 戦争が始まると日和見的な中立派閥も中央政府に加勢するようになり、はたして中央政府軍は勝利をおさめた。


 かくして、長らく停滞していたこの世界は、ようやくその一歩を踏み出すこととなった。


 一人の英雄を犠牲にして。

 

 かの英雄は全てを理解した上で戦場へ向かった。

 その特異能力により、自分が死ぬことを知っていたにもかかわらず。

 同時に『番犬』は、信頼できる友人の一部とライヒ伯爵にそのことを伝えていた。

 それは自己犠牲などではなく、恩師である『愚賢者』アゼムの望んだ世界の実現と、ライヒ伯爵の理想、そして自身の望みのためだ。


 この英雄には悪癖がある。

 目的を果たすためならどんな犠牲も厭わない。

 故に差し出せるものは何もかも、自分の命ですら躊躇なく差し出してしまうのだ。


 しかし『番犬』にとって唯一犠牲にできない存在があった。

 自分の人生をかけた計画が実現した時――ハイジは少女にそれを見せてやりたかったのだ。


 少女にしてみれば、いい迷惑だった。


* * *


「それで、あたしにどうしろって言うんですか」

「これまで通り魔物の領域を管理できるなら、寂しの森はお前に相続される。受けるか?」

「受ける」


 少女は即答する。

 他の全てを投げ捨ててでも、あの場所だけは奪われるわけにはいかない。

 それを邪魔されるくらいなら――幸い、たとえヴォリネッリの全軍隊を相手にしても負けないくらいの自信はある。

 そしてそれは大袈裟でもなんでもなく、ただの事実だ。


「他にもいくつかお前が相続できるものがあるが――」

「たとえば?」

「ギルド預かりになっていた膨大な数の勲章と大量の金貨……金貨は半分は寄付されることになっているな。あとは『はぐれ』どもによりコミュニティ、他領にはいくつかハイジ名義の孤児院がある」


 ヴィーゴはペラペラと書類をめくりながら答える。


「金になりそうなのはそんなものか。あとはどちらかというと面倒ごとだな」

「要するに『はぐれ』の保護活動と資金ですね。あたしが相続しない場合どうなるんですか?」

「活動というより事業だな。だがそこは心配いらん。ハイジを司令塔に担ぎ出す条件として、自分の死後も事業を維持させることを約束させてある」

「誰に?」

「ライヒだ」


 どうやらこの大戦でライヒは一段階出世したらしい。

 なら、その権力を用いて、事業とやらは継続するだろう。


「あたしが欲しいのは、寂しの森と、大剣グレートソードくらいね。あとはいらない」

「金貨の半分はお前に権利があるぞ?」

「いらないわ」


 どうせ森暮らしになるのだ。

 金貨なんて重いだけで役に立たない。


「ああ、あと」


 と、少女はもう一つ条件を追加した。


「傭兵は続ける。差し当たってはあたしを倒しうる強敵がいる仕事が欲しい」


 戦いの中で死ななければ、ヴァルハラには招かれない。

 だから、一刻も早く自分を倒しうる強敵を用意してほしいと少女は言った。

 しかしヴィーゴは頬杖をついて忌々しい口調で答える。


「バカか貴様。ハイジから力を継承したんだろう? そんな都合のいい戦場があってたまるか」

「左手はまともに動かないのよ? 握力が戻らなくてね……」

「そんなハンデじゃ話にならん。片腕になったくらいで弱者ぶるな、馬鹿者」


 少女の左腕には麻痺が残った。

 邪魔にならない程度には動かせるが、握力がほとんど残っていない。

 多少不便ではあるが、靴紐を結べるだけマシだと少女は考えている。

 あとは、少女自身は少しも気にしていないが、顔にも傷が残っている。

 よく見れば額や瞼、頬、唇と傷跡だらけだ。


 英雄から継承した経験値は莫大だった。

 ただ、「キャンセル」と呼ばれた能力も継承したが、少女には使いこなすのことは不可能に近かった。あれは英雄ハイジ専用の能力である。


 とはいえ、もはやこの世界に少女を打倒しうる個人は存在しない。

 少女が自動的に殺されるなどという都合の良い展開は期待できないだろう。


 それを理解しているヴィーゴは、目の前の一見か弱そうな少女が、手に負えない化け物になってしまったこともまた理解していた。


「幸か不幸か、先の大戦の残党がまだわんさかいるな。小競り合いには事欠かんぞ」

「あまり期待はできないけど、行くわ。ハイジがいたらきっとそうするもの」

「戦争はまぁいいとして……リン。お前これからどうするつもりだ?」


 ヴィーゴにしては珍しく、少女への心配を滲ませた声だった。

 対して少女は肩をすくめて言った。


「森に帰るのよ。当たり前じゃない」

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