15

 壇上のハイジがあたしを名指しする。

 司令内容はごく短いシンプルなものだった。


「『黒山羊』は能力を駆使して場を引っ掻き回し、できる限り多くの敵を殺せ」

「ハッ!」


 ピンと背筋を伸ばして敬礼する。


 遊撃手としては、名指しにされたのはあたし一人だけだった。

 腕を見込まれた形だが、あたしはこの日初めてハイジの口から「殺せ」という言葉を聞いた。

 あたしが人を殺すことを忌避し続けたハイジ。

 だが、今のハイジは個人ではなく司令官である。あたしという駒を利用しない手はない。

 そこに個人的な感情の挟まる余地はない。

 ならば――あたしも一兵士として期待に応えようではないか。


 めちゃくちゃ注目を浴びているが、半数は「誰だあの子供ガキは」という視線、残りが「あれが『黒山羊』か」といった視線だ。

 正直不快ではあるが、今のあたしは個人ではなく一兵卒である。

 だから胸を張る。今この時だけはハイジへの恋慕も何もかも後回しだ。

 できる限り敵を殺そう、味方を守れるだけ守ろうと、胸に誓った。


 自分の仕事を自覚したなら、もうここには用はない。あたしはすぐにその場を離れた。この後すぐに戦意高揚プロパガンダで演説がぶたれるはずだが、そんなものあたしには必要はなかった。

 人に戦意を高揚してもらわなければ戦えないような鍛え方はしていない。


 集団から離れ、独り敵陣を眺める。遠くて一人一人は見えないが、まだ若そうな兵も多い。人数は中央軍と同じか、やや多いか――しかしこちらの有利は揺るがないだろう。


 脳裏にぎる。


 ――戦闘開始と同時に敵陣に突っ込んで、あたしが全員殺したらどうなるのかな

 ――全員は流石に無理でも、何割かくらいなら実現できるような


 しかし、それは現実的ではない。儀礼戦はあくまでスタートラインだからだ。

 短距離走ではなく、長距離走――それもフルマラソンを連日走り切るようなものだ。


 ハイジは能力を限界まで駆使し、場を引っ掻き回せと言った。

 可能な限り殺せと言ったのだ。


 今日のあたしは英雄役の神輿ではなく、ただの一兵卒だ。

 上官ハイジの命令には絶対服従。あたしは最後まで走り切る必要がある。

 止まることは許されない。


 遠くで太鼓が打ち鳴らされ、歓声が上がる。

 法螺貝が高らかに吹き鳴らされた。


 あたしはただ真っ直ぐに敵陣に向かって歩き始めた。


* * *

 

 敵陣を引っ掻き回すには『黒山羊』としての能力よりも気配遮断の方が有効だ。

 あたしは身を潜め、この日三十人近くの敵兵を殺した。

 無力化など考えない。死んだ敵は立ち向かってきたりしないからだ。

 魔力を少しでも温存させるため、『黒山羊』の能力はもっぱら血を浴びないために使い、注目されないことにだけ意識を割いた。


 本来なら避けるべき後ろ指を指されるような戦法だが、批難なら戦が終わってから好きなだけ浴びせてくれればいい。


 あっという間に瓦解していく敵陣。

 想像以上に脆い――だが闇雲に突っ込んでいくような真似はしない。

 あたし個人の武勲には価値がない。目的に沿うことが求められる。

 中央政府はこの戦を機に反乱分子を徹底的に炙り出し、駆除するつもりだ。あまり派手にやると怖気ついて儀礼戦だけで戦争が終わってしまう。戦争を長引かせないと、もっと多くの敵を殺せない。命令に反してしまう。


 殺す必要のないはずの兵を斃すことには内心、酷く抵抗があった。

 特に青年兵、少年兵は精神に来る。

 あたしは意図的に心を鈍感にし、罪悪感を無視する。

 次第に感覚は麻痺し、機械のように目的を果たし続ける。


 時々フッと相手が人間であることを忘れそうになる。

 まるでただの作業のように剣を振るう自分に気づき――そんな時あたしはヒヤッとして、自分が敵と同じ人間であることを必死に思い出そうと努めた。


 人と機械を繰り返すのはなかなかに堪える。

 本当は、忘れたままの方が都合は良いのだ。

 心を凍らせて、少しでも多くの敵を殺すことがあたしの役目なのだから。


 それでも、あたしは人間のままでいたいと願った。


* * *


 夜の帳が下り、戦地が薄闇に包まれる。

 法螺貝が鳴り響き、儀礼戦が終わった。


 これまでにない激しい戦闘だった。

 疲弊しきったあたしは重い足を引き摺りながら本陣へと向かう。

 気配遮断だけは解くことなく、あたしはふらふらと人の少ない界隈まで移動した。

 人目につきたくなかった。

 これ以上消耗したくはなかった。


 じわり、と人間の心が戻ってくる。

 良かった。まだあたしは魔物になっていない。


 ハイジの顔が見たかった。


 倒れるように横になり、水を一口だけ飲んだ。

 食欲はない。

 ただただ疲労がすごい。


(……っ!)


 目を閉じた途端、「鈴森凛」の感覚が戻ってきた。


 ――あたしは一体何をやっているんだ?

 ――流れ作業みたいに人を殺して回って……みんな、あたしと同じ人間なんだぞ。


 こんなことは初めてだった。

 一瞬でパニックになった。


(やめろ。どっか行け。お前なんて嫌いだ)

(スズモリなんて女は知らない。あたしはただの『黒山羊』だ)


 チグハグでこんがらがった心を持て余す。

 勝手に涙が溢れてきた。

 ぐすぐすと泣きながら、なんとか意識を落とそうと努める。


 思えば、傭兵になってすぐの頃は敵を殺すことになんの痛痒も感じなかった。

 ハイジの隣に立つ――そのためにならどんなことでもしようと思った。

 人を殺してしまうとそれまでの世界が変わって見える――と、そんな話を聞いた。

 ピエタリ一味に襲われて、戦い、実際に殺してみて――そんなのは嘘だと思った。


 何も変わらなかった。

 少なくともその瞬間はそう感じた。

 罪悪感や後悔もなく、殺すことは必要なことだと思った。必要であれば殺すことが正しいと信じた。


 あれからどれほどの時間を過ごしたのか。


 いざハイジに認められ、横に立ち、冷静になってみれば……見える景色が変わってしまっていた。

 ハイジの言う通り、確実にあたしの世界は一変していた。

 ただ、夢中すぎて気づかなかっただけなのだ。


 実感してしまうと脆かった。

 怖い。

 命を奪う罪深さに息ができなくなる。

 殺すという行為を甘く見ていた。

 現実感を伴って、戦争のリアルが理解できてしまった。

 戦場にこんなにもたくさんの息遣いがあることをはっきりと認識できてしまった。


 何も知らずに、たった一つの目標のために何かもを犠牲にして、無邪気に人を殺せた自分はもういなかった。


 そして何より恐ろしいことに、あたしはハイジの横にたち続けるため、のだ。


* * *


 意識は落ちてくれない。


 たった一人で戦い続けてきたハイジを想う。

 その強さにただただ圧倒された。


 どんなに殺しても一切の穢れが付着せず清らかなままの少年。

 故郷を守り、弱きものを守ることに全てを捧げた戦士。

 自分を捨て、どこまでもひたむきに役割に準じていく英雄。


 あたしには眩しすぎる。


 穢れてしまった自分が恥ずかしくて、人目につかないように身を隠した。

 グスグスと泣きながら、自分を抱くように小さく縮こまった。

 どれほど戦う力があろうと、一人はこんなにも悲しい。

 小さくて、弱くて脆い、醜い自分を持て余し、いっそう背中を丸めた。

 

 と、その時、一瞬だけれど視線を感じた。


(ハイジ?)


 意識をそちらに向けると、間違いなくハイジだった。

 こちらを伺っていることが伝わってきた。

 あたしの無事を確認すると、ホッとしたように視線を切ったのがわかった。


 ポツン、と心に温かいものが灯った。

 たったそれだけのことで、あたしの中にあるどろどろしたものが霧散していた。


 もう一つ、こちらを伺う気配があった。

 これは……おそらくヘルマンニだ。

 気遣わしげにあたしを見ているのが伝わってきたが、無事を確認するとすぐに視線が外された。

 あたしもヘルマンニが無事で良かったと思った。


(温かい)

(あたしは一人じゃない)


 あたしは二人に無事であることを伝えようと、意識を向けた。きっと伝わっているだろう。あたしはなぜだかホッとして、なのに余計に涙が出てきた。

 自分でもよくわからなかった。


 そうだ。何をくよくよとしているのだ。

 お前はハイジの相棒なのだろう?

 どんな罪を背負おうと、それで一歩でもハイジに近づけるのなら、迷う必要なんてない。


 この日ようやく「鈴森 凛」たる古い自分と完全に決別した。

 ここにいるのは『黒山羊』のリンだ。


 大丈夫。

 明日になればまた戦える。


 寂しの森での最後の夜に感じたハイジの背中――体温と鼓動を思い出し、あたしはようやく眠りにつくことができたのだった。


* * *


 翌日、壇上のハイジは次の動きについて兵たちに指示して回っていた。

 あたしに対しては昨日に引き続き名指しである。


「『黒山羊』。昨日と同じように動けるか?」

「問題ありません!」

「よし。存分に能力を活かせ」

「ハッ!」


 あんなに暗かったあたしの気持ちは綺麗さっぱり洗い流されて、今はただこの体を役割のために使えることの幸せを噛み締めている。


 そうだ。あたしは戦士だ。

 いつか死んで、ヴァルハラでハイジとずっと一緒に過ごすのだ。


 ヴァルハラに二人きりになる場所はあるのだろうか? などという下らない思考を追い払い、あたしは意識を戦いに集中していく。


 ここからは「なんでもあり」の混戦だ。

 それでこそ、あたしの出番である。


 腕を回す。

 調子は悪くない。ヴィヒタがないので完全に本調子ではないが、これならまだまだ戦い続けられる。


 法螺貝が鳴り響く。

 兵を鼓舞するように太鼓が打ち鳴らされ、金物を叩く音が響き渡る。


(戦え)


 あたしは人間を脱ぎ捨て、一人の魔物になり、敵陣へ躍り入った。

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