23
しかし、ここでじっとしている余裕はない。
現実は容赦が無い。あたしたちの事情などお構いなしだ。
目の前に転がる物言わぬ『はぐれ』の骸も、あたしがこれまで切り捨ててきた敵と何ら変わるところはないのだ。
単に髪と瞳の色が黒いというだけのことだ。
周囲の弓兵たち――ハーゲンベックが用意した対・番犬と黒山羊の陣はハイジの手によってとっくに無力化されてはいるが、こうしている間にも敵はライヒ軍を激しく責め立てている。
倒さねばならない。感傷に浸っている時間はない。
(……『どうか安らかに』)
一瞬だけ『はぐれ』の青年の骸に手を合わせ、あたしは立ち上がる。
そしてすぐに激戦の中に躍り入った。
「番犬だッツ!」
「黒山羊もいるぞッツ!」
「死神め……!!」
敵には、あたしたちが死神のように見えているらしい。
別に構いはしない。兵の一人一人には何の罪もないが、侵略者を生かして帰せば何の罪もないライヒ領の人々の命や生活が脅かされる。その中にはニコやヤーコブたちもいる。何と言われようとあたしに容赦する気はない。
「あああああああああッツ!!」
剣を振るいながら、気づくとあたしは叫んでいた。
戦いながら声を上げるなど、無駄でしかないはずなのに。
『はぐれ』の青年の死を見届けたからだろうか。あたしはますます苛烈に、感情を脱ぎ去ってまるで機械のように敵を無力化し続けた。
* * *
日が暮れ、法螺貝が高らかに鳴らされ、儀礼戦が終わった。
闘争の空気が薄れていくと、少しずつあたしの中に少しずつ感情が戻ってくる。
喉が枯れていた。
我武者羅な、ほとんど無意識に近い戦いの中で、あたしの体はよほど無茶をしていたのだろう。肩や腕、足に至るまで熱を持ったように痛む。特に手首が痛い。この世界の人間としてはかなり華奢な部類に入るあたしの体には、少々負担が大きかったらしい。
魔力もかなり消費した。とっくに魔力枯渇は克服したつもりだったが、訓練と違って斬るのは魔物でも白樺でもなく人間だ。きっと心を殺して人を殺めるとき、魔力は想像より激しく消費されるような気がする。
あるいはこれが男たちのいう経験値の重みなのか。
「……はぁ……」
空を見上げてため息をつく。
ハイジの横に相棒として立つ。そのことに一切の躊躇はないし、後悔もない。
後悔はないが――
(人を殺すと戻れなくなるってこういうことかぁ……)
それでも心はボロボロに擦り切れていた。
有体に言えば疲れ切っていた。
これまでも散々人を殺してきた。
寂しの森で、またエイヒム周辺の森で、あるいは戦場で。
初めて殺した男――ピエタリ一味の一人、ハンスの名前は一生忘れないだろう。
しかし、そのことに後悔したことは一度もない。
あたしはただ、自分の身を守ることとエイヒムを守ること、そしてハイジの横に立つことだけに必死だったのだ。だから殺す相手のことなど考えもしなかった。
つまり、感情が伴う相手を殺したのは初めてだったのだ。
「リン」
「何? ハイジ」
自分の声とは思えないほど酷い声だった。
「随分と無茶をしたな。お前一人がそこまでやらなくてもいいだろうに」
ハイジらしくない緩い励ましに、あたしはクスリと笑う。
「それを言うならハイジこそ……『はぐれ』を殺してしまって本当に良かったの? 殺さなくても、無力化してくれればそれで良かったのに」
あたしが止めを刺したのに。
「そうだな」
「なぜあんなことを?」
「頭に血が登ってしまってな」
「なぜ?」
「お前に剣が届きそうだったからだ」
その言葉を聞いて、あたしはクシャリと顔を崩してしまった。
泣くまいと思っていたのに。
あたしは我慢できずに、泣きながらハイジに縋りついた。
「ごめんね、あたしのために」
「おれが勝手にやったことだ」
ハイジは珍しくあたしを引き剥がすことなく、肩を力強く抱いてくれた。
あたしはハイジの戦闘服に顔を埋めて泣いた。
ハイジは汗と埃の香りがした。
血の匂いはしなかった。
* * *
いつもなら司令室で雑魚寝するところだが、今日に限っては無理を言って二人用の軍幕を用意してもらった。
戦地に風呂はもちろんサウナだってありはしない。水を使って体を拭く。こうした場所では水だって貴重な資源だ。これだけでもかなりの贅沢と言える。
ハイジほどの腕がないあたしの体には避けきれなかった返り血の跡があった。それをすっかり拭き取ると、軽装に着替えてレイピアだけを腰に刺す。
ハイジも体を拭いていたが、軍から与えられた小さな布では背中は分厚い筋肉が邪魔で届きづらいらしい。布を受け取ってハイジの広い背中をゴシゴシと拭いてやった。
ハイジが背を向けてゴロリと横になる。あたしも横になったが、どうしてか甘えたくてたまらなくなり、ハイジの背中にペタリとくっついた。
「どうした」
「別になんでもないけど」
ハイジはあたしを潰さないようにゆっくりとこちらを向くと、そっとあたしの頭を抱いてくれた。
なぜか少しもドキドキしなかったが、擦り切れそうだった心があっという間に癒されていくのがわかった。
(まるでヴィヒタみたい)
巨大な安心感が押し寄せる。
抗えない眠気に襲われ、あたしはそのままハイジの腕の中で眠りに落ちた。
* * *
目を覚ますとハイジがいなかった。
慌てて気配を探る。すぐ外にハイジの気配があった。
ホッとする。どうやらあたしを起こさないように先に起きたらしい。
(ハイジが起きた時に目を覚まさないとは)
(どんだけ疲れてたんだよ、あたしは)
まだ喉と体のあちこちは痛いが、昨日のどうしようもない心の疲れはすっかり癒えていた。比較的すっきりとした目覚めと言えるだろう。
うん、と体を伸ばして軍幕から顔を出すと、ハイジが優雅にお茶を啜っていた。
「おはよう、ハイジ」
掠れた声で挨拶すると、ハイジはうむ、とうなずいた。
「お前も飲むか?」
「いただくわ」
小さな焚き火台の上のお湯を自分のマグに継ぎ足すと、ほら、とあたしに差し出した。
戦時仕様なのかハーブは長めのものが二本刺さっている。少し昔なら魔力酔いを起こしかねない濃さだが、今のあたしなら何も問題はない。
苦味の中に優しい甘味のあるお茶を啜ると、体に魔力が満ちていくのがわかる。
マグで顔を半分隠しながらハイジを見る。
特にいつもと変わりはない――いや、いつも通りすぎるというか。
まるで森小屋で朝食をいただいている時のような落ち着きよう。
戦地ではいつも険しい表情のハイジだが、随分とリラックスしている。まるでそこだけポッカリと戦場の空気を切り取って、日常の風景を貼り付けたようだ。
その様子はあたしを安心させた。
ハイジが『はぐれ』を殺したことで、あるいはあたし自身が
いつも通りすぎるところが少し気になりはするが、明日からも同じ日常が続くのだとわかり、あたしは胸を撫で下ろした。
「この戦争は儀礼戦だけで終わりそうだ」
「そうなの?」
「ああ。ハーゲンベックとしては準備万端のつもりだったのだろうが、昨日の消費を考えれば、続行は不可能だろう」
「へぇ……」
「人ごとのような返事だな」
は? とハイジを見ると、少し目が笑っていた。
「な、なに?」
「気づいてないのか?」
「……何が?」
「一番多く敵を倒したのは間違いなくお前だ」
「えええ」
いやそんなわけあるか。
第一、昨日はほとんどハイジと行動を共にしてたんだぞ。
「おれが動くより先にお前が倒すものだから、おれの出る幕がなかったぞ」
「えええ……そ、そうだったっけ?」
「間違いなく英雄として祭り上げられるだろう」
「それはやめて欲しいな?!」
冗談じゃないぞ、おい。
「少なくともエイヒムやマッキセリだけじゃなく、他の同盟領にもお前の名前が轟いたはずだ」
ここへ来るまでの軍用馬車での出来事を思い出す。
あたしの妙ちくりんな二つ名も他領にまでは届いていなかったはずなのに。
「ま、まさか」
思わず頭を抱える。
「『麗しき黒髪の戦乙女』に一目会いたいと、今朝だけでも何度も打診があった。疲れて寝てるから起こすなと言って追い返したが」
マジですか……。
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