第8話 テスト航行の準備

「マコトくん、事務局長の奥さんが船を降りたの、気づかなかったの?」

 事務局長を船長室に残して、マコトとクリスは先に事務室に戻った。

 席に着くなり、クリスがマコトに近寄って小声で話しかける。

「えっ」

 マコトが大きな声を出しそうになったので、クリスが口元に指を立てた。

 マコトは必死で声を潜める。クリスとの距離が近づきマコトの心臓が激しく暴れ始めた。

「じ、事務局長の奥さん、薬剤師さんじゃなかったっけ」

「そのとおりよ、でも三か月前に下船してるわ。マコトくん、乗組員の下船状況を把握しているはずじゃない」

 クリスは少し責めるようなトーンを声に乗せた。

 マコトは心が萎えていくような気分を味わう。クリスの評価が下がるのは辛かった。

 だが、必死で記憶をまさぐっても、クリスの指摘に心当たりがない。

「確かに三か月前は船を降りた人がいっぱいいたけど、その中に『ハン』という名字の女の人はいなかったよ」

 事務局長のフルネームは『ハン・ハオラン』だ。

「あのね、夫婦別姓って知ってる?」

「知ってる」

 まるで教師のようなクリスの口ぶりにマコトはますますシュンとなる。

「そもそも中華圏の人は、結婚しても苗字は変えないのよ」

「えっ、そうなの?」

 多民族、多文化に慣れたつもりだったのに、マコトは日本の文化に引きずられていた。

「もう!」

「ごめん」

「まあ、謝るようなことじゃないけど」

 クリスに叱られてしょげたマコトに、クリスは優しい声をかけた。

「でも、なんで?」

 奥さんは船を降りたんだろうかと、マコトは素朴に疑問を抱いた。

「しらなぁい。それこそ聞けないわよ」

「そ、そうだよね」

「ところで、マコトくん、迷ってるの?」

 クリスの瞳に真摯な光が浮かんでいた。ウソ偽りは許さないという強い光だ。

「あ、うん」

「いい御両親なんだね」

 いつも明るい表情ばかりを浮かべているクリスの表情に少し寂しそうな影が差していた。

「えっ?」

 マコトはどう反応していいかわからない。クリスは珍しく伏し目がちに呟く。

「ちょっと、うらやましい」

 この移民船に乗っている人間には、いくつかの類型があった。

 家族などと一緒の者、家族などと別れている者、そして、家族などがそもそもいない者。

 家族などと別れている者には、マコトのように移民計画に高い価値やロマンを認めている者のほか、家族と別れることが目的だという者もいた。

 例えば、サムは金星の浮遊都市にいる両親や家族と折り合いが悪く、会わなくて済むと思うとせいせいすると言っていた。

 また、アイーシャの育った地域は紛争多発地帯だったため、彼女が小さい頃に家族はテロに巻き込まれて亡くなったと小耳に挟んだことがある。

 マコトはクリスのことが気になって仕方がないくせに、彼女の家族のことはあまり知らないことに今更ながら気が付く。

「あの、ひょっとして」

 クリスには家族がいないのだろうかとマコトは思った。発言が慎重になり、表情が硬くなる。

「え? あぁ、家族はいるよ。気を遣わせちゃってごめんね」

 マコトの深刻な表情を見てクリスは慌てて手を振った。

「だから贅沢言っちゃいけないのは知ってるよ。この船には家族がいない人もいるしね」

 マコトは黙って頷く。

「別に仲が悪いというわけじゃないんだよ。私、それなりに大切に育てられたし。でも、すごくプライドが高くてね、私の家族、両親と兄だけど。要求水準も高いし、息が詰まるっていうか。周囲の人にも厳しいし、だから、私、移民船ではみんなと仲良く楽しく暮らせればいいなぁって。あれ? 私、何言ってるんだろう」

 マコトは、クリスの心の中の大切に入れてもらったような気がして嬉しくなった。

「できると思うよ。クリスなら」

 思わずマコトは笑みを浮かべる。

「そうかな?」

 クリスは思わず照れくさそうな笑みを浮かべた。マコトは力強く頷いて見せる。

「ところでさ、クリス」

 今がチャンスのような気がした。マコトはクリスに更に近づき、声をひそめた。

 意識すると心臓が激しく脈打ち、息が苦しくなる。

「なあに?」

 甘い声でクリスが応じる。マコトは脳髄がマヒしたような気になった。

「い、いつでもいいんだけど、今度、クリスの都合がいい時に」

 そこまで行ったところで首でも絞められたように咽喉が閉まり、声が出なくなる。

 クリスがマコトの瞳をじっと見つめ、続きを促した。

 重苦しい沈黙がマコトの心臓を締め上げる。

「イグナチェンコ評議員からの連絡は? もう到着してもいい時刻だが」

 だが、マコトとクリスのヒソヒソ話に強引に幕を下ろすように、事務局長の声が響いた。

 船長室から戻ってきた事務局長が、自分の席の前に立ったままエドに声をかけたのだ。

 本日最大のイベント、恒星間移民船アークのテスト航行に向けての動きが事務室全体を支配しはじめる。

 マコトとクリスは慌てて自分たちの席に戻った。

「先ほど遅れると連絡がありました」

 エドが必要最小限の事実をキビキビと答える。

 イワン・イグナチェンコ氏は、宇宙植民地研究開発機構の評議員であり、地球連邦東欧自治州の代議員でもあった。この移民計画の強力な推進者の一人で、本日から始まるテスト航行に立ち会う予定だ。

「反物質燃料の受入は、どうなっている?」

「予定通りです。反物質製造工場がある人工惑星アマテラスを出港した宇宙輸送艦が、護衛の宇宙艦隊とともに接近中。正面に映像を出します」

 エドが自席のキーボードを操作すると、事務室の正面の壁一面が漆黒の宇宙空間へと変化した。部屋から出てきた船長が事務局長の後ろで立ち止まり、姿勢を正して映像を見つめる。

 壁に投影された宇宙空間の映像は、みるみる倍率を上げ、中央にラグビーボールのような形の銀色の宇宙船を映し出した。対比物がないのでサイズ感を掴みづらいが、モニターに字幕表示された補足情報によれば四〇〇メートル級の宇宙輸送艦だ。

 さらに、輸送艦を取り囲むように、大型回遊魚のような形の宇宙護衛艦六隻が、数キロの間隔をあけて展開している様子が、メインの宇宙輸送艦の映像とは別の画面に映された。宇宙護衛艦の全長は、補足情報によれば二〇〇メートルほど。すべて同じ形状で、高出力レーザーを発射する三連装旋回砲塔を多数備えている。

 数キロの間隔というのは、一見、艦隊行動をしているかどうかもわからないほど離れた距離に思えるが、秒速三〇キロを超える速度で航行する惑星間宇宙船にとっては、コンマ何秒かの誤操作で接触事故を起こしてしまうほどの密集隊形だ。

「物々しい警戒ですね」

 六隻の宇宙護衛艦を確認した船長が、斜め前に佇んでいる事務局長に視線を送った。

「何せ運んでいるのは、自治州一つが消滅する量の反物質ですから」

 反物質を利用した対消滅エネルギーは、単位質量あたり核融合の一〇〇倍のエネルギー効率を誇る。太陽系を飛び立ち、一〇〇年を超えて宇宙を旅する恒星間宇宙船には、必要不可欠な燃料だ。わずかな質量、容積で済むため、宇宙船のペイロードを圧迫しないことが最大のメリットになっている。

「あれじゃあ、テロリストも手が出せませんね」

「おっしゃる通りです。ただ反物質の搬入作業が終わったら護衛艦の半数は例の事件対応で軌道エレベーターに向かうそうです。本船の護衛として残るのは三隻だけです」

 軌道エレベーター爆破予告の対応で地球連邦軍は大忙しだ。

 しかし、内部に反物質を抱えている以上、恒星間移民船アークも有力なテロ対象になる。護衛なしというわけにもいかない。

 反物質を奪取して大量破壊兵器に転用するほか、現時点で三〇〇〇人以上の人間が生活している移民船を爆破したり、地球に落とすなど、最悪のケースはいくらでも想定できた。

 そもそも恒星間移民船アークがスペースコロニーなどの拠点が一切ない月の裏側の重力均衡点(ラグランジュポイント)に停泊しているのは、万一事件事故が発生しても地球とその周辺に被害が及ばないようにするためだ。

「宇宙輸送艦、減速。本船とのランデブーを開始」

 エドの声が響いた。

 巨大な宇宙輸送艦は、その細部が見えるほど接近してきた。巨大な艦体に比べると小さなパルスレーザーの旋回砲塔が、死角が発生しないよう艦首に三基、艦尾に三基、設置されている。攻撃に主眼を置いた火器ではなく、主にミサイルや無人戦闘艇を迎撃するための装備だ。

「周辺に危険なサイズのデブリなし、小天体の接近なし、反物質燃料の受け入れ作業のため、磁力シールド、および斥力シールドを一時的に解除します」

 フローラが安全を確認しながら移民船アークを守るエネルギー障壁を取り除いた。

 そうしないと宇宙輸送艦が接近できないからだ。

「イグナチェンコ評議員のプライベートロケットが接近します」

 事務局のほぼ全員が反物質燃料を運んできた宇宙輸送艦に神経を集中している中、輸送艦とは反対の方向から全長一〇〇メートルに満たないデルタ翼の宇宙船が接近してきた。

「よりによって、同じタイミングか」

 事務局長が思い切り不機嫌そうに呟く。

 忙しいので手が空くまで放置したいところだが、評議員は『自分は、この移民船にとってVIP中のVIPである』と自認しているので、そうもいかないだろうと思案している様子だ。

「反物質燃料の受け入れ作業は事務局長にお任せしていいですか? 私が評議員の出迎えに行ってきます」

「お願いできますか?」

 事務局長の心を読んだかのような船長の提案に、事務局長は安堵の表情を浮かべた。

「職員は何名かお借りしますよ」

 船長は穏やかな表情でほほ笑んでいる。

 その会話を聞きながら、マコトは『少なくとも何でも屋の自分は駆り出されるんだろうな』と覚悟していた。

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