恒星間移民船のとても長い一日 ― 気になるあの娘に告白しようとしていただけなのにテロリストたちに襲われるなんて ―

川越トーマ

第1話 プロローグ

 真っ赤な夕陽が、分厚い雲のたれ込めた空を赤黒く染め上げていた。

 周囲には古びた灰色の五階建て集合住宅が、見渡す限り並んでいる。

 それらの建物に挟まれて緩いカーブを描いて続くアスファルトの歩道には所々亀裂が入り、名も知れぬイネ科の雑草が顔を出していた。

 高温多湿の風がそよぐ中、痩せた小さな少年が水色のレインコートを羽織り、顔の半分を覆う布製マスクをして、飛び跳ねるように歩いていた。小さな身体に不釣り合いな長さの深緑色の竹刀袋を背中に担いでいる。

 レインコートのフードから覗く前髪は、真っすぐでクセのないサラサラした漆黒、その下に見える大きな黒い瞳は生き生きとした光を放っていた。

 少年の他に人通りはなく、歩道は数メートル先で急な下り坂になる。坂の先は、かつて小さな公園だったが、今は海の一部となっている。その時刻は満潮で、公園内の酷くさびたブランコや滑り台は、途中まで海水につかっている。

 潮の流れが弱く、波間にはビニールやプラスティックのゴミが漂っていた。生臭い、すえたような嫌な臭いがする。

 少年は波打ち際を歩き始めると、小さく弱々しい猫の鳴き声が、海のほうから聞こえてきた。

 少年が視線を巡らせると、岸から一〇メートルほど離れた枯れ木の枝に、まっ白い仔猫がしがみついている。恐らく、引き潮の時に木に上ったは良いが、満潮になって海の中に取り残されたのだろう。

 少年の方を見ながら仔猫は悲しそうな声で鳴いた。少年は周囲を見回したが、他に人はいない。仔猫に視線を戻すと、つぶらな瞳が少年を見つめていた。自分が何とかするしかない、少年はそう思ったようだ。

「およげないんだね」

 少年は、そう仔猫に声をかけると、竹刀の入った袋を岸に置き、何の躊躇もなくズブズブと海の中に入っていった。

 小さな膝まで海水に浸かり、水色のレインコートの裾が海面で広がる。少年は水の抵抗と戦いながら白く波を蹴立てて進んだ。幸い、海は、それ以上深くなることはなかった。

「おいで」

 ほんの一〇メートルほどの距離だったが、海水は激しく抵抗し、それなりに時間がかかった。少年は両手を広げて仔猫を誘ったが、怖がっているらしく、なかなか少年の胸に飛び込んでは来ない。

 仔猫のいる枝は少年が必死で手を伸ばしても届かない高さだ。少年は何度かジャンプしてみたものの、あと数センチというところで届かない。

「ちょっと、こわいかもだけど、がまんしてね」

 岸に置いてある竹刀を使おうという気は全くないらしい。

 少年は仔猫のいる枝の下に垂れ下がっていた別の枝をつかむと仔猫のいる枝を揺らした。

 仔猫は悲鳴を上げながら少年の方に落ちてくる。恐怖にとらわれた仔猫は抱き留めた少年の頬をひっかいた。少年の頬に赤い筋が走り、ジワジワと血が滲んだ。

「こわがらせてごめんね。もう、だいじょうぶだよ」

 少年は、痛みに顔をしかめることもなく、優しく仔猫に話しかけた。少年は両手で注意深く仔猫を抱きかかえると、バシャバシャ海面を波立てながら岸に向かった。そして、陸に上がると、すぐに仔猫を地面におろす。

 仔猫は飛ぶように走り去っていったが、少年から十分離れたところで立ち止まり、後ろを振り返った。

「バイバイ、きをつけてね」

 少年は満足そうに一人うなづくと仔猫に背を向け、竹刀の入った袋を拾うと、スキップするような軽快に動きで、ゴボゴボ、バシャバシャと靴の中にたまった海水を撒き散らしながら公園を出ていった。


 八号棟という表示のついた集合住宅の入り口に少年は入っていく。

 古びたコンクリートの壁には細かいクラックが走り、黄色い照明は不安定にチラついていた。一部の塗装が禿げ、錆の生えた灰色の郵便受けに何も入っていないことを確認し、少年は掲示板に視線を向ける。

 そこには、小学校低学年くらいの子供が水彩絵の具で描いたと思われる彩り豊かなポスターが貼ってあった。

 鮮やかな青い海の中を赤や黄色の魚たちが何匹も泳ぎ、『きれいなうみをとりもどそう』という標語が書いてある。

 現実の海ではない。

 こんなに綺麗な海は、今となっては絵本や昔の映像の中にしか存在しないことを少年は知っていた。


「ただいまぁ!」

「おかえり」

 壁がひび割れ、塗装が所々剥がれた集合住宅の階段を元気よく駆け上がり、二〇四号室の水色のスチール製の扉を開けると、香ばしい揚げ物の匂いが少年の鼻を突いた。そして、温かみのある若々しい女性の声が彼を迎える。

 少年は海水の滴る水色のレインコートを脱ぐと、壁に作りつけられたコート掛けにかけた。

 レインコートの下は白いポロシャツに紺色の半ズボンだ。幸い半ズボンは濡れないですんでいたが、靴下はビショビショだ。仕方ないので玄関で靴下を脱ぎ、玄関横の洗面所に置いてある洗濯機の中に突っ込んだ。

 そして、液体せっけんで手を洗い、うがいをするついでに仔猫に引っ掻かれた頬の傷を洗う。

 タオルで拭くと、少し血がついた。血が止まっていないらしい。

「マコト、手洗いとうがいが終わったらシャッターを閉めて頂戴」

「はあい。ママ」

 マコトと呼ばれた少年は母親に言葉を返すと、リビングダイニングの隅に置いてある白い木製の救急箱から、母親に気づかれないように絆創膏を一枚だけ抜き取り、黙って頬に貼った。母親に知れると色々うるさいからだ。

 ふと、母親以外の女性の声に気づいて目を声のほうに向ける。

 リビングダイニングの壁に掛けられた紙のように薄くマコトの身長よりも大きなモニターが、インターネットの天気予報番組を映し出していた。

「夜に入ると雨になる地域が多いでしょう。上空の西風が強いため、放射性降下物が今後増える恐れがあります。直ちに健康に影響はありませんが不要不急の外出は控えてください」

 東京の東半分が海に侵食され、千葉に至っては本州から切り離されて島になってしまっている日本列島の地図の上に、曇りと雨のお天気マークがちりばめられていた。

 そして、画面の右下には空間放射線量がリアルタイムで表示されている。端末位置情報を利用したこの場所の数値だ。『毎時〇.八マイクロシーベルト』それが今の値だった。

 背が低く窓枠の上の方に手が届かないマコトは、先端が鈎状になった棒を使って放射線を遮断できるという謳い文句の鉛とステンレスと特殊な樹脂でできたシャッターを閉めた。

 ガラガラと重そうな音を立てる。

「ねえ、ママ。パパはだいじょうぶかな」

 シャッターを閉め終わるとマコトは対面型キッチンの向こう側にいる母親に声をかけた。

 先ほどの天気予報が気になったようだ。自分が今の今まで外にいたことは忘れているとしか思えない。

「ちゃんとコートもマスクもしてるから大丈夫よ」

 デニムのワンピース姿の母親は、トントンとまな板で何かを切りながら、マコトに視線は向けずに答えた。

 黒髪をショートボブにカットした薄化粧のほっそりした女性だ。三〇代の後半ぐらいだろうか。マコトによく似た黒目がちの大きな目が印象的だ。


 マコトが生まれる何年か前、極東アジア、中東、東欧、ロシア、そして北米のいくつかの都市が核兵器の業火にさらされた。

 地上で使われた核爆弾の量は『限定的』とのことで『核の冬』を招くほどではなかった。

 逆に、世界を混乱と分裂と反目が覆う中、各国が経済効率最優先で戦後復興を図ったため、人口と生産設備が減少したにもかかわらず、地球温暖化は戦前より加速する。

 海面の急激な上昇により、沿岸部の工業地帯が水没したことで、毒性の強い様々な化学物質が海に飲み込まれることになった。それが、環境汚染に拍車をかける。

 放射性物質と化学物質による汚染で、地球は、人間と、そして全ての生き物にとって、有害な環境へと変わり果てていた。

「続いてニュースをお伝えします」

 リビングダイニングの壁に掛けられた薄く巨大なモニターから天気図が消え、栗色の髪をセミロングにした知的で美しい女性アナウンサーが映し出された。

「大戦中、各国が行っていた人体を兵器化する研究が全面的に禁止されることになりました」

 女性アナウンサーの背後に、腕から機関銃の生えた男性のコンピューターグラフィックス映像が映し出される。

「地球連邦最高評議会の決定で禁止されるのは、義手や義足に銃や刃物を組み入れること、遺伝子操作や薬物投与で人体を強化することです。特に人体強化に関しては、大戦中、戦災孤児に対して非人道的な人体実験が行われ、多くの犠牲が出たことから批判が高まっていました」

 核兵器も使用された世界的な戦乱の後、世界は、また一つになろうとしていた。

 世界は地球連邦という名で統合され、かつてのEUより強固な結びつきを持つに至った。

 第一次世界大戦後の国際連盟、第二次大戦後の国際連合に続き、三度目の挑戦だ。

「嫌な話ねぇ」

 母親は料理の盛り付けをしながら、画面を見ずにニュースの内容に反応した。

「人体強化の禁止に関しては病気や怪我による治療との線引きが難しいという批判も出ており、今後の詳しいルール作りが待たれます。では、次のニュースです。まずは、こちらの映像をご覧ください」

「さぁ、できたわよ」

 モニターがよく見える場所に置かれた淡い色合いのパイン材のテーブルに、母親は夕食の皿を並べはじめた。茹でたモヤシと奮発して買ったトマトをくし切りにしたサラダと、コオロギの唐揚げをワンプレートに盛り付けたものだ。昆虫は環境に負荷をかけず安いコストで生産できることから、最近では多くの家庭で定番の食材となっている。マコトも手伝って箸を並べた。

「いただきまぁす」

 母親が玄米をよそってくれた茶碗を前に、マコトは両手を合わせ元気よくあいさつする。

 そして、視線を上げた瞬間にその光景に出くわした。

 どこまでも広がる青い海、青い空、延々と続く白い砂浜、その奥に広がる緑の大地、遥か彼方には山頂に雪が積もっている巨大な山の姿があった。

 現在、地球で見られる景色、海に侵食された都市、核兵器のせいで瓦礫と焼野原が続く大地、大量のゴミが漂う妙な色の海とは異なる光景だ。

 マコトは一瞬にして、その美しい光景に心を奪われた。

「きれいだ」

「ん?」

 思わず母親もモニターに大きな黒い瞳を向けた。

「これは昔の地球の姿ではありません。無人探査機から届いた十二光年先のくじら座タウ星系第四惑星の映像です」

「へえ~二〇〇年前に送り出した無人探査機がようやく現地に着いたのね」

 マコトには何のことかよくわからなかったが、母親は映像の正体を知っているようだった。

「西暦一九六〇年から行われたオズマ計画で、私たち人類は太陽系外の宇宙に目を向け始めました。当初は何の成果も得られませんでしたが、西暦一九八〇年代以降、宇宙望遠鏡をはじめとする様々な観測機器の発達で、多くの太陽系外の惑星を発見できるようになりました。しかし、実際にどんな惑星なのか、その姿を見るためには無人探査艇による成果を待つほかはありませんでした」

 女性アナウンサーは一瞬、感極まったように言葉に詰まる。

「西暦二〇三〇年代に地球を出発した無人探査機が太陽系外の惑星に到達したのは今回が二度目です。前回は一〇〇年以上前で、最も近い恒星系ケンタウリ座アルファ星系の惑星でした。距離は地球から約四光年。残念ながらそこに豊かな海はありませんでした。しかし、ここは違います」

「すごく、きれいだね」

 マコトは大きな黒い瞳をキラキラ輝かせた。

「きっと、この惑星には、放射能のゴミも、プラスティックのゴミもないんでしょうねぇ」

 母親は遠くを見るようにモニターを眺める。

「ぼく、ここにいきたい!」

 マコトは屈託のない表情で元気よく叫んだ。

「月軌道にあるスペースコロニーに行くんじゃなかったの? この星、遠いわよ」

 この頃、月軌道上の重力均衡点(ラグランジュポイント)には、ドーナツのような形をしたトーラス型スペースコロニーが建設されるようになっていた。富裕層は汚染された地球を逃げ出して、清潔で快適な人工の大地で暮らそうとしていたのだ。

「いく、おおきくなったら、きっといく!」

 マコトは、この時、かの星に行くんだと強く心に決めた。黒い瞳がキラキラと輝く。

「じゃあ、いっぱい勉強しなきゃね」

 母親は目を細めて笑った。どうせいつものように思い付きを口にしているだけなのだろう。

 その時、少年の母親は、たいして深刻には考えていなかった。

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