第3話 白鷺の社

 昼に近づく秋の陽は、木漏れ日となって弘紀と修之輔の進む道に光の濃淡を描き出す。雨を吸った落ち葉からは微かに水蒸気が立ち上り、軽やかに巻く風を微かに白く染めながら運ばれていく。


 修之輔の乗る残雪に松風を並べて歩ませる弘紀が、間近に修之輔を見上げてきた。

「この先になにか目印となる物はありますか」

「小さな無人の社があると聞いている」

「では、そこまで」

 黒曜の瞳を快闊な笑みに細めて弘紀が松風の腹を軽く蹴る。泥濘の多い道も気にせず駆け始めるその後を修之輔も残雪で追った。道は緩やかに登り始めているが山には至らず、広がる田畑の景色が後ろに流れていく。


 昨日までの大雨の跡がそうと気づけばあちらこちらに見られたが、入り組んだ谷のあるこの辺りでは場所によって降った雨の量に差があったようだ。雨が比較的少なかった場所では、形よく積まれた藁山が農閑期に入った里の長閑さを感じさせた。


 二人が馬を駆ったのはほんの短い間で、道が山に入る手前で弘紀が松風を止めた。事前に得た知識に依れば、この道を上って尾根を一つ越えればそこから須貝の庄になる。ただ、ここでも小さな土砂崩れがあったのか、木が数本倒れていて行く手を塞いでいた。根の浅い若木だったようで、後続の者達が来ればすぐ退かすことはできそうだ。

 修之輔は残雪から下り、様子を見るためにその倒木の枝を搔い潜って向こう側へ回り込んだ。確かに山を登る道はその先に続いている。

「行けそうですか」

 こちらも松風から下りて歩いてきた弘紀が修之輔の後ろから覗き込むように行く手を伺う。そして、あ、と小さく声を上げ、道の脇を指さした。

「あの、あそこのお社が目印の社ではないでしょうか」

 修之輔が弘紀の指差す方に目を向けると、倒れた木の向こうの道の脇に確かに小さな社と鳥居があるのが見えた。近づくと腰高の石に白鷺八幡神社と刻まれている。ここ数日の雨で落ちた枯葉は仕方ないとして、朱に塗られた鳥居にも社にも荒れた気配はなかった。世話に来ている者がいるのだろう。


 黒河に生まれ育った修之輔が羽代に来て気づいたのが、この地にある八幡神社の多さである。羽代城の城下にある矢根八幡神社が最も大きく、先々代の羽代藩主であった弘紀の父が江戸の山王祭りを真似た祭りを始めさせて、例年城下町に住む人々の楽しみにする行事となっている。街角のところどころにある社も稲荷神社か八幡神社のいずれか、あるいはどちらも祀っているところもある。

 城下から離れても、今日、通ってきたような主要な街道沿いにある神社はそのほとんどが八幡神社である。黒河では佐宮司神社と似通った名の社が同じように点在していたので、これは羽代の土地柄ということなのだろう。


 後続を待つ間に、修之輔は弘紀に尋ねてみた。

「羽代には八幡様を祀るお社が多いように思う。何か由縁でもあるのか」

 弘紀は、そういえばそうですね、と首を少し傾げた。当たり前すぎて今まで気に留めたことがなかったようだ。

「ずっと昔、この辺りの豪族が勧請したものが多いとは聞いています。鎌倉に源氏の幕府があったころ、恭順した豪族がその証に自分の領地内に源氏の氏神である八幡神社を建てたと。ここもそのうちの一つでしょう」

 今二人がいる白鷺八幡というこの神社は、既に今は伝わる名もない豪族が建てたものなのだろうか。修之輔は昨夜弘紀に聞いたばかりの須貝という豪族のことをふと、思い出した。穏やかに秋の陽を受ける田畑の光景からは想像できないような激しい戦の時代がこの地にもあったのだ。

 そこまで思い、数年前に辺り一面を血に染めた出来事が修之輔の脳裡に蘇った。弘紀を守るために自分が斬った十数人の人間から流れた血潮の色と、古の戦の時代に流された血の色は大して変わらないのではないのかと、そこまで考えて、社の正面の小さな石段に腰掛けてこちらを見ている弘紀と目が合った。

 傍に、と目線だけで声に出さずに要求する弘紀に従って、その近くに歩み寄る。弘紀は自分の隣に修之輔を座らせたかったようだが、そうすると背後に死角ができる。修之輔は傍らに寄っても座ることは無く、立ったままで弘紀に寄り添った。辺りを見回す修之輔の視線に弘紀も理由を察して、それ以上は強いてこない。けれどその袖の端は修之輔の袴に触れる近さで、どこか互いの体温すら感じる距離だった。


「羽代の地に茶がもたらされたのも、鎌倉のその頃だということです」

 弘紀が辺りの景色を眺めながら先ほどの続きを話し始めた。

 茶は当初、仏教の儀式に用いられていた。鎌倉の初めに羽代に寺を開いた僧侶は、最初は寺院内で、次いで寺院の荘園内で茶の栽培を行った。だが栽培法も茶の製法もその荘園の外には伝わらなかったという。

「でも、植物のことですから。折れた枝から、転がる実から、次第に荘園の外にも茶の木は生えるようになったのです。利用の方法が分からないまま茶の木は里に生え続け、今から百年ほど前に京都で開発された煎茶が全国に広がりました。そこから先は貴方も知っているでしょう」


 藩が率先して茶の栽培を促進するにあたり、弘紀はまず羽代の藩士たちに茶の由緒来歴や植物としての性質を詳しく勉強させた。修之輔も例外ではなく、実際に茶の精製方法を見ながらその歴史も学んでいた。

 その知識に依るならば、京都の宇治で開発された煎茶の製法は商人を介して瞬く間に全国に広がった。煎茶は特に江戸の文人に持て囃され、彼らと親交のあった旗本から江戸在勤の各藩の武士、そして大名へと、煎茶の文化は全国津々浦々に行き渡る物流に乗って、すみやかに広がっていった。


「羽代の地でも五十年ほど前には茶の木を畑で栽培して茶葉を収穫する技術が確立していたのです。けれどそれ以降、茶の栽培や収量の管理に藩は介入してきませんでした」

 放っておかれた羽代の茶に、商品としての付加価値を与えて藩の財政を支える強力な商品作物にするというのが弘紀の目下の目標である。

「もともと茶は仏の教えと共に大陸から本邦へ渡来してきたのですが、兄によると大陸には全ての茶の木の大本となった茶の大木があるそうです」

「大木、なのか」

「はい。その木には茶樹王ちゃじゅおうという名がつけられ、幹は大人が十人手を繋いで囲うほど、枝の先は天まで届くほどだということです」

 修之輔は高くても胸高程度に剪定されている茶畑の木しか知らないので、天に届くほどの茶の木の大木というのは想像の外だった。


「でも大陸から渡来する以前から、日本にも茶の木が生えていたという話もあるのです。茶を飲むという習慣が伝わってなかったので、毒にも薬にもならない雑木の扱いだったならそれもありかな、と。羽代にもそんな古の茶の木があったという言い伝えがあることを、以前、兄が手紙で教えてくれました」

 兄とは先代羽代藩主である朝永弘信のことで、弘紀に家督を譲って隠居している今は、江戸の朝永家下屋敷で趣味の博物学に興じる悠々とした生活をしている。

 弘信は下屋敷の庭園を耕して植物園を作るほどこの分野に傾倒しており、また弘紀の求めに応じて江戸で出版される書籍を羽代へ頻繁に届けてくれるほど弘紀とは近しく親しい存在だ。

 二年ほど前に側室の土岐との間に男子が生まれ、朝永家の次期当主となるその子が江戸下屋敷で健やかに育っていることも修之輔は弘紀から聞いていた。


「中国の茶は長い間、人の手によって改良されてきました。そのため農作に適した性質をもっていますから、飼い慣らされていない本邦の茶は次第に生息する場所を追われて姿を消していったのでしょう。羽代の茶が珍しい花の香りを醸すのは、古からこの国にあったその茶の名残がどこかに残っているからかもしれませんね」


 自分の興味があることについて弘紀は心から楽し気に良く話す。そんな弘紀の様子に気を取られ、ふと冷たい空気が辺りを漂い始めていることに気づいたときは既に遅く、薄い霧が静かに視界を遮り始めていた。

 土を湿らせていた雨水が日の光に温められて空へ還るその前に、谷の奥から流れ込んでくる冷たい空気が重く厚い霧を急速に生み出している。後続の者達が追い付く気配はまだ無く、辺りを覆う霧がだんだん濃くなってきた。

「すこし高いところに行けば見晴らしが効くようになるかも」

 石段から身軽に立ち上がった弘紀はすたすたと倒木をまたぎ越して、山の斜面を登り始めた。何も考え無しな行動というわけではなく、斜面の上を見ると倒木があった場所だけ空がぽっかりと覗いている。地から湧き上がる霧はまだそこまで上がっていない。

 松風と残雪を脇の木に繋いだまま、修之輔も弘紀の後を追った。

「弘紀、少し待て」

 身軽に斜面を登っていく洋銃を背負ったその後ろ姿に声を掛けたその時、水気を含んだ風が覚えのある匂いを伴って修之輔の鼻先をかすめた。


 花の香り、だろうか。だが、思い当たる花の名はなかった。


「秋生、どうかしましたか」

 弘紀はまるで背に目があるかのように、歩くのを止めた修之輔の気配を敏感に感じ取って振り向いた。

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