第5話 嫌われたらどうしよう

 翌週の金曜日、開店すぐに「はなむら」を訪れた雪子ゆきこさんに続いて入って来た若い女の子を見て、茉莉奈まりなは「あら、お連れさまですか?」と」目を丸くする。雪子さんがどなたかを伴って来られるのは初めてだったのだ。


「孫やねん、世羅せらちゃん」


「あらまぁ〜」


 カウンタ内の厨房から香澄かすみの声が届く。心なしかうきうきした様な声だ。


「いらっしゃいませ、雪子さん、世羅ちゃん。今日はテーブルか小上がりがええですか?」


 茉莉奈が訊くと、雪子さんは「そうやね」と穏やかな笑みで小首を傾げる。


「ではテーブルにどうぞ」


 茉莉奈が案内すると、雪子さんが世羅ちゃんを奥に座らせる。


 小上がりは足が伸ばせるので人気の席ではあるのだが、若いお嬢さんの中には靴を脱ぎたく無い場合もある。茉莉奈がさっと見たところ、世羅ちゃんはハイカットのスニーカーを履いていた。それでは脱ぎにくいだろうから、小上がりでは面倒だろうと思ったのだ。


 世羅ちゃんはチャコールグレーのトップスに黒のホットパンツを身にまとっていた。そのシンプルな服装の中で赤いハイカットのスニーカーはポイントなのではと思ったのだ。


 靴の形や色もファッションの一部だ。靴を差し色などにする装いもある。大学生の若いお嬢さんなのだから、お洒落にも敏感だろう。


 もう10月に届こうかというころだが、湿度はなかなか下がらず、外を歩いているとじんわりと汗が浮かぶ。「はなむら」では9月中はまだ夏とみなし、おしぼりをふたつお出ししていた。


「お外はまだ暑かったでしょう。おしぼりで汗をぬぐってさっぱりしてくださいね」


 茉莉奈がおしぼりをお渡しすると、世羅ちゃんは「ありがとうございます」と受け取って、素直に首筋をそっと拭いた。


 薄いながらもお化粧をされているので、崩さない様に慎重におでこの生え際も押さえている。


 雪子さんも正面で心地よさそうな顔で汗を拭っていた。


「あ〜、気持ちええわぁ」


「ほんまやね。こんなサービス、他のお店でしてもろたこと無いわ」


「ここではしてくれるんよ。ええお店でしょう」


「うん。ええねぇ」


 茉莉奈は汗を吸ったおしぼりをさりげなく回収する。雪子さんと世羅ちゃんは飲み物のおしながきを眺めていた。


「世羅ちゃんはまだ未成年やねんから、お酒はあかんよ」


「分かってる。ちゃんとジュースとかにするから。でもここ、ソフトドリンクも結構多いねんなぁ。迷うわぁ」


 「はなむら」のご常連には下戸げこの方もおられる。だからと言うわけでも無いのだが、ノンアルコールもそれなりに充実させているのだ。お茶は烏龍茶と爽健美茶そうけんびちゃにお〜いお茶があるが、炭酸ではコカ・コーラにウィルキンソンジンジャーエールにスプライト、ファンタのオレンジとグレープを揃える。


 果汁ジュース類もオレンジやリンゴなど数種。果汁100パーセントの濃縮還元ジュースをご用意している。カルピスも「はなむら」では濃いめに作るのだ。


「じゃあ私、ジンジャーエールにする」


「私はどうしようかなぁ。世羅ちゃん、ほんまにお湯割り飲んでもええの? 匂いするで?」


「構わへんよ。大学生になってから居酒屋行く様になったから、お酒の匂いには慣れてるし。あ、もちろん私は飲んでへんけどな」


「二十歳になって飲める様になったら、家族みんなで「はなむら」に来ようね」


「私、そのころには反抗期終わってるやろか」


 世羅ちゃんが不安げに目を揺らすと、雪子さんは「どうやろうなぁ」と穏やかに言う。


「大丈夫やと思うけど……。その時になってみな分からへんけど、その時はその時や。終わってから来たらええねん。「はなむら」は逃げへんよ」


「……うん」


 どうやら世羅ちゃんはこの反抗期を深刻に捉えている様だ。それも含めて雪子さんとお話をするのだろう。世羅ちゃんの懸念が晴れてくれれば良いのだが。


「茉莉奈ちゃん、注文頼むねぇ」


「はーい」


 茉莉奈は新しい伝票を手に、雪子さんたちの元に向かう。


「とりあえず飲み物ね。世羅ちゃんにジンジャーエールと、私には一刻者いっこもん<赤>のお湯割りちょうだい」


 「一刻者」はおなじみ宝酒造さんが手掛ける芋焼酎で、<赤>はシリーズのひとつだ。一刻者はこうじも芋で作ることを実現し、全量芋焼酎と呼ばれ、芋焼酎の美味しさをふんだんに味わえる。


 <赤>は赤芋で造られる。豊かな甘みがふわりと立ち、まろやかながらもすっきりとした味が楽しめるのだ。


「はい。お待ちくださいね」


 料理のおこんだてを広げる雪子さんたちに背を向けて、茉莉奈は飲み物カウンタへ。


 「はなむら」では焼酎のお湯割りは、陶器製の和カップに作る。取ってが無いので飲むときに少しばかり手が熱くなるのだが、それもお湯割りの醍醐味だ。特に冬には冷えた指先からも暖かさを取り込み、喉に熱々を流し込んで全身を温める。そして適温が保たれやすいのだ。


 カップに一刻者<赤>のお湯割りを作り、タンブラーに氷を詰めてジンジャーエールを注ぐ。トレイに乗せて雪子さんたちにお運びした。


「はーい、お飲み物お待たせしました」


「ありがとう。お料理の注文ええやろか」


「はい、どうぞ」


 飲み物をそれぞれの前に置いて、茉莉奈は伝票を手に取る。


 「はなむら」の伝票は複写式のものだ。スーパーや文房具店などでも買える一般的なものである。1列ずつミシン線が入っているので、書いた部分の一枚目だけを千切って、厨房ちゅうぼうの香澄に持って行く。


 大手チェーン店などで導入されているPOSシステムにも少しの憧れはあるが、「はなむら」の様なこじんまりとした店には必要無いだろうと、開店当時からこのシステムだ。


 ほとんどの品の値段は覚えているし、会計の時に分からなくなればおしながきが置いてあるので、ぱっと見ることができる。「はなむら」の金額設定は50円単位でそう細かく分けていないので、レジ打ちもそうややこしくはならないのだ。


「とりあえず、茉莉奈ちゃん特製高原きゃべつと桜えびの炒め物と、豚の生姜しょうが焼き、蓮根れんこんのはさみ揚げと、マカロニサラダもらおうか。あ、あと切り干し大根も」


「お祖母ちゃん、私もうちょっとお肉食べたい。でも角煮やったら豚が被るもんなぁ〜牛肉やったらどて煮?」


「そうやねぇ」


「世羅ちゃん、がっつり牛肉行きたい派?」


 茉莉奈が訊くと、世羅ちゃんは「はい」と力強く頷く。


「若いお嬢さんやったら、やっぱり牛肉が好きやもんねぇ。ちょっと待ってて。女将おかみに何かできひんか聞いてみるね」


 茉莉奈は厨房に戻り、香澄に世羅ちゃんの希望を言う。


「そうやなぁ、それやったら牛肉とセロリでオイスターソース炒めでもしようか。セロリ苦手やったらピーマンで牛肉多めの青椒肉絲ちんじゃおろーすにするわ」


「ありがとう。訊いて来る」


 茉莉奈がそれを世羅ちゃんに伝えると、ぱぁっと目を輝かせた。


「それ食べたい! セロリがええです! お祖母ちゃん、頼んでええ?」


「ええよ。他はまた後でね。テーブルに乗りきらんくなるからね」


「うん」


 茉莉奈が書いた伝票を千切ちぎってテーブル席を離れると、背後で「かんぱーい」と言う元気な声が響いた。


 茉莉奈から見た世羅ちゃんは素直な女の子で、とても反抗期をわずらっているとは思えない。だが反抗期は主に親に対して発揮されるものだろうから、外に出たら普段と変わらないのだろう。


 茉莉奈は厨房に入り、作り置きのマカロニサラダと切り干し大根を中鉢に盛り付ける。


 マカロニサラダは茹でたマカロニに、玉ねぎときゅうり、ハムというシンプルな具材を、マヨネーズを主にしたソースで和えたものだ。


 マヨネーズだけだと重いのでヨーグルトで伸ばしてさっぱりさせ、和の味に寄せるために少量のお醤油を落としている。白こしょうでほんの少しの辛みも加えて。


 冷たくして食べるマカロニは柔らかく茹でている。輪切りのきゅうりは塩揉みし、角切りにしたハムのほのかな塩分も味のひとつになる。玉ねぎはみじん切りにして、しゃきっと爽やかなアクセントになっている。


 昔からある家庭の味、懐かしさを感じる一品だ。


 切り干し大根にはお揚げと人参、さやいんげんを入れている。人参は旬には少し早いが、今では年中手に入れられるものだし、やはり彩りとして欠かせない。


 干されることで旨みと甘みが凝縮ぎょうしゅくされる切り干し大根を水で戻し、ごま油で炒めて香ばしさを出したら、ふくよかなお出汁を効かせた煮汁でじっくり煮込んであげる。お揚げからも豊かな味が滲み出て、切り干し大根にたっぷりと含まれて行く。


 甘い人参やさやいんげんと一緒に食べると、また風味が加わって滋味じみ深い、だがご家庭でもおなじみの定番の一品である。


 香澄は他の料理に取り掛かっている。茉莉奈は中鉢のふたつを先に雪子さんたちのテーブルにお持ちした。


 さて、茉莉奈特製おこんだてを作ろう。大きく張りのある高原きゃべつは4分の1個を使う。ざくざくざくと太めの千切りにしておく。


 まずは桜えびを乾煎りし、香ばしさを引き出してやる。それを一旦上げておいて。


 同じフライパンにオリーブオイルを引き、高原きゃべつを炒める。軽くお塩をして手早く炒まる様にする。


 しんなりして来たら日本酒を加え、アルコールが飛んだらバターを落とし、風味付けのお醤油をひと回し。仕上げに桜えびを加えてざっと混ぜたら完成である。


 しゃきしゃき感を残し、爽やかな甘みを蓄えた高原きゃべつにバターとほのかなお醤油が絡み、桜えびの塩味と香りが加わって、風味豊かな一品に仕上がるのだ。


 出来上がった料理をクリーム色のお皿に盛り付けていると、香澄から声が掛かる。


「茉莉奈、雪子さんたちの豚の生姜焼きも上がったから、一緒にお持ちして」


「はーい」


 香澄が持つ薄緑色の丸皿から、清涼感のある生姜の香りが立ち上がっている。茉莉奈はそれを左手で受け取って、右手は茉莉奈が作った料理を持つ。少しでも温かいうちにと、雪子さんたちの元に運んだ。


 「はなむら」の豚の生姜焼きは、お箸で食べやすい様に細切れの豚肉を使っている。もちろん仕入れ値などにも関係があるのだが、それは表向きは内緒の事情だ。


 それをスライスした玉ねぎと一緒に炒め上げる。


 豚肉は日本酒とごま油で下味を付け、玉ねぎと一緒に火を通し、お醤油ベースのたれを加える。生姜は香りを大事にしたいので、ご注文をいただいてからたっぷりとすり下ろすのだ。


 できあがった生姜炒めは、千切りきゃべつをふんわりと添えて盛り付ける。


 香澄が作る生姜焼きはお醤油主体ではあるのだが、際立つのは生姜の風味だ。たれはお醤油の他にお砂糖と日本酒と少量のウスターソースを使い、複雑なコクを加えている。


 お砂糖を入れることで、焼いた時に香ばしくなりやすい。こんがりと程よい焼き目は、焼き物や炒め物の醍醐味だいごみと言える。旨味のひとつになるのだ。


 生姜とお醤油の辛みのバランス、そしてお砂糖と日本酒の甘みの調和が素晴らしい。そんな味わいをたっぷり絡めた豚肉と玉ねぎを一緒に食むと、玉ねぎのねっとりとした甘みがきりっとした生姜を際立たせるのだ。


 テーブル席に近付くと、雪子さんと世羅ちゃんはゆっくりとおはしを動かしながら、真剣に話し込んでいた。


「私もな、こんなん嫌やねん。でもどうしても感情が抑えられへんで」


 嘆く世羅ちゃんの肩を、雪子さんがいたわる様に触れる。


「うん。そういう時期や。克人かつともさつきさんも良う解ってるよ」


「でも嫌われたらどうしようって思って」


「そんなことあるわけ無いやんか」


 世羅ちゃんの反抗期ゆえの悩みなのだろう。茉莉奈はあえて聞いていないとアピールする様に、場を読まずに声を上げた。


「お待たせしました。豚の生姜焼きと、高原きゃべつと桜えびの炒め物です」


 テーブルの空いているところにふたつの料理を置くと、世羅ちゃんが「わぁ」と表情を輝かせた。先ほどまでの苦悩の表情とは打って変わって嬉しそうだ。良い香りを上げる料理を前に、若いだけに切り替えも早いのだろうか。茉莉奈は自分もそう変わらない歳なのに、そんなことを思った。


「お祖母ばあちゃん、美味しそう」


「ほんまやねぇ。でもほんまに美味しいで。ほら、食べて食べて」


「うん!」


 世羅ちゃんはさっそく豚の生姜焼きにお箸を伸ばした。たっぷりの豚肉を口に運び、「ん」と目を丸くした。


「うわぁ、めっちゃ生姜が効いてて、でも辛く無い。美味しい!」


「良かったなぁ」


 茉莉奈は特製おこんだての感想も聞いてみたかったが、とどまることが躊躇ためらわれてその場を離れた。


 また雪子さんと世羅ちゃんはじっくり話をするのだろう。飲み物を飲んで、料理も挟んで。それを邪魔してはいけない。


「茉莉奈ちゃん、ほっけちょうだーい」


「はーい」


 茉莉奈の思考はご常連である尾形おがたさんのご注文にすっ飛んでしまった。茉莉奈は尾形さんが着かれている小上がりの伝票を取り上げた。

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