第3話 前を向いて

 茉莉奈まりながどうにか食べられる様になってから、出てくるご飯はうどんやそば、雑炊など、悪く言えば手抜きと言えるものばかりだった。だが茉莉奈は身も心もすっかりと弱っていたので、とてもありがたかった。


 今にして思えば、そうでなければ茉莉奈が食べられないと香澄かすみも解っていたのだろう。だが栄養バランスは考えられていて、いつでもお野菜やきのこ、海藻類がたっぷり入っていた。


 お出汁の効いた優しい味は、茉莉奈の痛んだ心をそっと包んでくれる。ご飯を美味しいと感じることすら腹立たしいと思いながらも、茉莉奈は出されたものをもそもそと口に運んだ。


 今日はお味噌で仕立てたおうどんだった。お揚げに白菜に人参に椎茸と、お野菜もたっぷりと煮込まれている。くたくたの白菜が優しく茉莉奈を癒した。


 そう言えば、食べている時だけは少しだけ、ほんの少しだけだが、茉莉奈は穏やかな心でいられた。そう思うことすら嫌だと思うのに、食欲といたわりに抗えなかった。


 ダイニングテーブルの正面で香澄も同じものを食べながら、「ねぇ、茉莉奈」とゆっくりと口を開く。


「ママね、小料理屋さんを開こうと思うねん」


 小料理屋。小料理屋って確かお酒が飲めるお店だったか。


 茉莉奈がのろのろとうつろな顔を上げると、香澄はゆったりと微笑んだ。


「パパが亡くなってしもうたから、ママが働かなあかんねんけど、ママ、これまで料理の仕事しかしたことあれへんから。せやから最初はどっかのお店でやとってもらおうと思ったんやけど、せっかくここに土地あるし、この家改装して、小料理屋始めようと思ってね」


「……そうなんや」


「反対や無い? パパとの思い出が詰まったこの家、少しつぶしてしまうけど、構わへん?」


 茉莉奈はすぐに返事ができなかった。まだ感情が動かないのだ。確かにこの家で佳正よしまさと暮らしていたのだから、そこかしこに思い出がある。だがそれはどれも佳正の存在そのものに敵うものでは無い。


「全部無くなるんや無いんやんね」


「うん。一階を店舗にするから、リビングの一部が無くなるやろうけど、二階はほぼそのままにするつもりやし、全部や無いよ」


「それやったらええよ」


 投げやりな返事になってしまったが、今は考える気力が無かった。佳正との思い出が全て失われるわけでは無いのなら良いと、簡単に返事をした。


 香澄は少しばかり苦笑を浮かべた。


「あのね、茉莉奈、パパが亡くなって辛いやんね。私もや。まだたったの一ヶ月やもんね」


 一ヶ月。閉じこもりきりで日付の感覚が無くなっていたが、もう一ヶ月が経っていたのか。


「でも私ね、もう上を向かんとね、あかんかなぁて思うんよ。私もね、油断すると泣きそうになるねん。でも、茉莉奈も私も生きていかなあかん。きちんと食べて、寝て、できたら学校にも行って」


 そこで香澄は「ん?」と目をきょろりとさせた。


「学校は、まぁええか。中学は義務教育やから、卒業はできるやろうし。そんな急がんでええよ。でもね、そろそろちゃんとした生活できる様にならんとね。茉莉奈もしんどいやろ」


「……ママは悲しく無いん?」


 当たり前のことをつい聞いてしまう。ついさっき「辛い」と聞いたばかりなのに。だが香澄は穏やかに微笑んで言った。


「悲しいし寂しいし辛いよ。でもね、私はこれからパパの分も茉莉奈を大人にせんとあかんからね。立ち止まってる余裕は無いんよ。うーん、でもやっぱり茉莉奈には無理して欲しくは無いなぁ」


 香澄はそう言って、また苦笑いをする。


「あかんわぁ、パパがおらんくなって、私が茉莉奈を甘やかしてもうてるねぇ」


 茉莉奈はそんな香澄を見て、ゆっくりと首を横に振った。


 そうだ。香澄にはたくさん叱られて来たが、それも全て親の愛ゆえだ。佳正が茉莉奈に甘かったのも、また愛だ。茉莉奈が可愛がられていた証拠だ。


 そして茉莉奈が引きこもってしまってから、香澄は寄り添いながらも何も言わず見守っていてくれた。茉莉奈が自然に、いや、自力で起き上がるのを待っていてくれているのだ。


 食べることをこばんだ茉莉奈が食べられる様になった時には、きっと少しは安心してくれたと思う。


 今も無理をすることは無いと言ってくれている。どれだけ自分は甘やかされているのだろうか。そして自分はそれに甘んじていて良いのか。


 駄目だ。このままではパパに顔向けができない。まだたったの一ヶ月。だがもうこんな生活は終わりにしなければ。学校にもちゃんと行こう。来年は受験だ。遅れも取り戻さなければ。


 茉莉奈はおはしを持ち直すと、豪快な音を立てておうどんを啜り上げた。香澄はそんな茉莉奈を見て目を丸くした。


 茉莉奈は自分を取り巻く様々な負の感情を吹き飛ばす様に、濡れた犬がごとくぶるぶるぶると首を振った。


「茉莉奈……」


 香澄が呆気にとられている。茉莉奈はそんな香澄に「うん」と大きく頷いた。


「そうやんな。私、いつまでもこもってたらあかんよね。もっとしゃっきりせんと」


 茉莉奈には分かる。久しぶりに茉莉奈の身体に力が沸いていた。


 このままではいけないことは茉莉奈にも解っていた。だが抜け出すきっかけが見付からなかった。もちろん悲しみが癒えたわけでは無い。だが生きているものが死んでいてどうする。


 これからも踏ん張っていかなければならない。しっかりと立って歩かなければならないのだ。


「私、明日からは学校も行くわ。もう大丈夫、とはさすがに言えんけど、大丈夫にしていかんとな」


「茉莉奈」


 香澄がほっとした様に表情を崩す。やはり負担と心配を掛けてしまっていたのだと、茉莉奈はいたたまれなくなってしまう。だがここは明るく行くところだと、茉莉奈は笑顔を浮かべた。


「今やったら鶏の唐揚げとかも食べられそうや」


「あらまぁ。でも今は胃が弱ってるやろうから、揚げ物はやめとき。でもそうやなぁ、ちょっと待っててくれる?」


「うん」


 香澄は立ち上がるとキッチンに入る。キッチンはダイニングから独立していて、カウンタで繋がっている。


 茉莉奈の位置からは見えないのだが、香澄は何やら作っている様だ。包丁を使う音や、電子レンジが仕上げを知らせる電子音などがする。


 ああ、こんな音を聞くのも久しぶりだな、と茉莉奈は目を細める。佳正が生きていた時の休日などは、ふたりしてダイニングテーブルでキッチンから漏れる音を聞きながら、「今日の晩ご飯は何やろうね」なんて話をして心をおどらせたものだった。


 それを思い出すと、また涙が溢れそうになる。だがもう終わりにしなければ。良い思い出なのだから、余裕で微笑んで見せよう。


 急に心を切り替えるのは難しい。だが、月並みな言葉なのかも知れないが、こんなままではきっと佳正も喜ばない。


 やがて、香澄がカウンタにスプーンを添えた深さのある器と、とんすいをふたつ置いた。ほかほかと湯気が上がっている。


「はい、できたよ」


 茉莉奈は立ち上がり、器ととんすいをテーブルに移す。中には黄色い卵を使ったお料理がこんもりと盛り付けられていた。青ねぎの小口切りも使われている。優しいお出汁の香りがふわりと漂った。


「これは?」


 キッチンから戻って来た香澄に聞くと、香澄は「ふふ」と笑みを浮かべる。


「親子煮やで。鶏肉と卵。玉ねぎも入ってる。ご飯の上に乗せたら親子丼になるね」


 そう言いながら香澄はふたつのとんすいに親子煮を取り分け、ひとつを茉莉奈の前に置いてくれた。卵の柔らかな黄色から、しんなりした透明感のある玉ねぎが顔を出し、そぎ切りにされた鶏肉をまとっている。青ねぎの緑が目に鮮やかだ。


「冷凍庫にあった鶏肉で簡単にね。もも肉やねんけど、皮は剥がしてあるから、茉莉奈のお腹でも食べられると思うわ」


「……うん」


 久しぶりに出されたお肉だった。胃がびっくりしないだろうか。茉莉奈は恐る恐るとんすいを持ち上げる。


 鶏肉をお箸で持ち上げると、ぽってりと半熟の卵が付いて来る。鶏肉は薄く小さく切られていたので、茉莉奈はこれならと、そっと口に運んだ。


「時間が無かったから顆粒かりゅうのお出汁使ってん。せやけど無添加のやつやから、悪ぅ無いと思うんやけど」


 ……悪いどころでは無い。美味しい。とても美味しい。お出汁がしっかりと効いて、優しい味。心の底から癒される味。


 鶏肉を薄く切ったのは、茉莉奈が食べやすい様にというのもあるのだろうが、短時間で柔らかく煮える様にという意味もあったのだろう。弾力はあるものの、柔らかく歯が沈む。


 ふんわりとろりと仕上がった卵も絶妙だった。とろっとした玉ねぎの甘みも加わり、滋味じみ深いとはこういうことを言うのだろうか。


 香澄の思い、いつくしみが詰まった様な親子煮だった。心が暖かくなり、それがじわじわと全身に伝わって行く。冷え切った身体に血が巡った様な感覚だった。


 茉莉奈の目からぽろりと雫が落ちる。これは悲しみの涙では無い。立ち上がった祝福の涙だ。


 完全に立ち直れたわけでは無い。だが前を向いて歩ける。茉莉奈はそれを確信していた。


「泣くんはこれで最後。もうパパのことで泣くのはやめる。明日から、また元気な茉莉奈ちゃんになるから」


「泣いてもええんよ。無理に止めたらあかんもんやとママは思う。でもね、たっぷりお日さま浴びて、動いて、美味しいもん食べて、ぐっすり寝て。そうせんとほんまの意味で立ち直られへんから。それは分かってて欲しい」


「うん。もう大丈夫」


 茉莉奈は笑顔を作ると、そっとお箸を置き、テーブルに付くぐらいに頭を下げた。


「ママ、ほんまにありがとう」


「あらまぁ、どうしたん、あらたまって」


 香澄がおかしそうに笑う。茉莉奈も顔を上げて「へへ」とはにかんだ。




 翌朝を迎え、鏡を見て茉莉奈は「あちゃ〜」と苦笑いを浮かべる。目の腫れがまるで治まって無かったのだ。まるでお岩さんの様になってしまっている。しかも両目だ。とても見られたものでは無い。


「ママごめん、学校、明日からでええ? こんな目で外出られへんわ」


 多感なお年頃だ。自分が不細工ぶさいくに見えてしまう要素があってはたまらない。誰かに会うなんてもってのほかだ。


「あらあら」


 香澄はおかしそうに笑うと、「構へんよ。今日はよう目ぇ冷やしとき」と言って、冷凍庫から保冷剤を出してくれた。いつか買ったケーキに付いていたものだ。


 リビングのソファで仰向けになり、ハンドタオルで包んだ保冷剤を目の上に置きながら思う。本当に生まれ変わった様な気持ちだった。昨日までの鬱々とした気持ちが嘘の様に晴れている。


 香澄の親子煮のお陰だな、と思う。香澄はいつでも丁寧に気持ちを込めてご飯を作ってくれていたが、昨日の親子煮は茉莉奈をぐんと押し上げてくれた。


 パパ、もちろんまだまだ悲しいんやけど、私もう大丈夫やから。見守っとってな。


 茉莉奈は心の中で佳正に語り掛け、保冷剤が与えてくれる冷たさに身を委ねた。

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