第7話 出口のないトンネル

「朱羽子ちゃん?お水、お出しして」

「あ、はい…すみません」


どんな土地を転々としても、どんな仕事を転々としても、朱羽子は日常のほとんどを、ぼんやり過ごすことが多かった。

何故だか、何をしていても、自分がいきなり何処かに消えてしまうような、そんな空気の中は何だか息がしずらい。

そう、空虚。

その一言。

何もない海に1人投げ出されたようだ。



カランカラン!!

誰よりもにぎやかに、ドアの鐘を鳴らし、入って来たのは…、朱羽子が2年ほど前からバイトをしている、この喫茶店によく顔を出す青年だ。

それは、確か半年ほど前、初めてこの喫茶店に来て時、ひどく驚いた。


「あ…あなたは…」


(…!)

朱羽子は、ビクッとした。


自分の事を知っている人物なのか、ここでその話をされるのではないだろうか…。

焦って、思わず手にしていたグラスを割ってしまった。


「大丈夫かい?」

心配そうに近寄る、マスターとほぼ同じタイミングで、

「僕が片づけて…」

「俺が片づけます!」

「いや、しかし君はお客様だし」

「イエ!全然!」

と、そっと朱羽子の指を持ち上げると、その指には血が滲んでいた。

その血を見て、朱羽子は悲鳴が出そうだった。

グラスを割ってしまって、謝らなければいけないのに、マスターより早く、優しく代わりに片づけておく、と言ってくれた、その青年にも口を手で塞いで、化粧室に行った。


朱羽子は指の血を…いや、父親を刺した血を一生懸命水で洗い流していた。

幻の血を…。


コンコン…、と扉のノックする音さえ優しいマスターのノック音で、朱羽子はやっと冷静になった。


そして、お化粧室から出て来ると、マスターの後ろに先ほどの青年がいた。

「俺、青野木鷹也って言います。指、大丈夫でしたか?」

「あ…はい…あ…の…」

「はい?」

「わ…私の事…知ってるの…ですか?」

「え?あぁ、『あなたは』のあなた、ですか?」

無言で頷いた。

「こんな顔知ってます?会った事ないですよ。と言ったのは、マスターの事です」

「マ、スター…ですか…?」

心臓の音が少し穏やかになった。

「マスターは、カメラマンなら知らない人はいない、すっごい伝説の人なんです!」

ふいっと、マスターを見つめると、マスターはもう60歳になるのに、少し照れているのが解る。

「青野木君…と言ったね。どうしてここに僕がいると?特定の人たちにしかここで喫茶店をしてる事は言ってないんだが」

「いえ」

「ん?」

「今日初めて入った喫茶店に杉丈太郎すぎじょうたろうがいた、って言うか、神のおぼしめしだとしか言えないです!俺、丈太郎さんの大ファンなんです!先生と呼ばせてください!」

「おいおい、先生はよしてくれ。もうカメラマンではないんだから」

苦笑いのマスター。


杉丈太郎は将来を嘱望された凄腕のカメラマンだったが、コーヒー好きが嵩じて、そのカメラマンのセンスの良さを惜しまれつつも、カメラマンを引退し、喫茶店を開いて、その喫茶店も軌道に乗って、悠々自適に第2の人生を謳歌していた。

「じゃあ、俺の写真、見てもらえないですか?まだ、カメラを持って6年くらいなんですけど、オリジナリティに欠けるって言うか、もうトンネルみたいっす」


(トンネル…か…少し、解る気がする…)


そんな事を朱羽子は考えていた。


しかし、朱羽子のトンネルは、出口がない。

真っ暗で、何も見えない。

光なんて何処にも見えない。


光…なんて…、


ない。

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