呪いが街へ行く方法1

 屋敷の朝は早い。シャノンは日の出とともに起きる習慣がついていたし、ウィルフレッドも早起きだ。

 ウィルフレッドに結界を解いてもらったあと、支度をしてから一階へ向かう。

 シャノンの今日の服装は胸元にフリルがたくさんついた真っ白なブラウスと濃紺のワンピース、その上に白いエプロンを羽織る。


「なっ!?」


 屋敷の中央部分にある広い踊り場つきの階段を真ん中まで降りたところで、その下にある玄関ホールのありえない状況に思わず声が出る。


(モップが……踊ってる!?)


 彼女の視線の先では二本のモップが踊り、数枚の雑巾が窓やシャンデリアの上を這う不可思議な光景が繰り広げられている。

 そして、ホールの中央には眉間に皺を寄せた淡い金髪の青年が無言でたたずんでいて、真剣な面持ち――――を通り越した強面こわもてで輝く大理石の床を見つめている。


「レイ先生? 何をされているんですか?」

「……支度は済んだのか? 見てのとおり、掃除だ」

「あの、それは私の仕事では?」

「貴様一人で高い場所まで掃除していたらそれだけで一日が終わるだろう。これは私の日課だから部屋の掃除はしなくていい」

「でででで、でも、それでは何をすればいいんですか?」

「……そうだな。食事の準備と、洗濯は貴様に頼もうか。太陽の下に干した方が心地よいからな」


 やはりウィルフレッドは他人を全く必要としていない。世話になっている身としては、掃除くらい完璧にやったほうがいいのだが、毎日手の届かない場所まで清掃している彼の基準で屋敷を維持することなど彼女には明らかに不可能だ。だから、シャノンはとりあえず言われたことをするしかない。


「わかりました。では朝食の準備をしますね」

「よろしく頼む」


 シャノンはウィルフレッドの要望を聞きながら、朝食の準備をする。彼は朝から豪華な食事をする人間ではなく、パンと卵、少し果物と紅茶でいいという。

 厨房にある食品保管庫の中にはシャノンが見たことのない果物がたくさん用意されていた。それに紅茶もいれたことがないシャノンは、果物の皮の剥き方や切り方、紅茶の種類や蒸らし時間などをウィルフレッドから教わることになってしまい全く役に立たなかった。


「わからないことはこれから知ればいい」


 教師という職業のせいか、彼は教えることを苦とせず丁寧に説明してくれる。すぐに役立てないことを申し訳ないと思いながら、シャノンはせめて彼の説明をきちんと頭に入れようと必死に聞いた。

 朝食が終わると、ウィルフレッドはシャノンに魔術をかけるために研究室に呼び出す。彼は今日、王立学園での仕事があるので屋敷を留守にするのだ。その間、また事故防止の結界を張るつもりなのだ。


「昨日の反省を踏まえて、このような物を用意した」


 彼が見せたのは金属でできた細い首輪のような物だった。細い金属部分にはよく見るとびっしりと文字や図形が刻まれている。ウィルフレッドの説明によれば、これは『魔具』と呼ばれる魔術を補助する道具で、特定の効果を生み出すようにあらかじめ『陣』に相当する物が金属に刻まれている。あとは純粋に魔力を送り込むだけでわざわざ『陣』を描くことなく魔術が使えるという物だ。


「同じことをやろうと思えば、魔具なしでもできるのだがこちらのほうが手っ取り早いのだ。今回は、効果の範囲から私と貴様を除外している。人間以外の物には無効だから、食事もできる」

「それは便利ですね! 魔術って人と物を識別できるんですか?」

「あぁ、少し複雑になるがそうだ。お前が宿している呪いも同じ理論で――――人間だけを識別するように設計されているはずだ。そうでないなら犬にも猫にも移せるのだから、いっそそのほうがよいのだが」

「そうですよね。人間以外に移せたらよかったのになぁ……」


 そしてウィルフレッドはシャノンに首輪をはめてから、その一部に指先で軽く触れる。やけどをするほどではないが、首輪から熱が発せられ一瞬だけ周囲が光る。光が治まってから彼女は自身の顔に触れてみる。昨日とは違い魔術をかけた状態でも確かに顔に触れることができる。


「レイ先生、一つ聞いてもいいですか?」

「いいだろう」

「なぜ、先生まで対象外にしたんですか? 一番、事故が起こりそうですが……」

「あぁ、効果を解除するときに貴様に触れられないのは都合が悪い。それと、私は他者の魔力に対して敏感な体質だからたとえ不意打ちでも呪うのは不可能だ。私が自ら望みでもしない限り私に魔術をかけることなどできない。……心配なら試してみるか?」

「たたたたた、ため、試すんですかっ!?」


 ウィルフレッドは真顔でそういうが、シャノンは耳まで真っ赤になるしかない。呪いを移す方法はくちづけなのだから、試すというのはつまりは彼にキスをするということだ。


「冗談だ。そんなことをすれば呪いの宿主である貴様ごと吹き飛ばしてしまう可能性があるからな」

「レイ先生には冗談が似合いません!」


 シャノンは恥ずかしさを隠すために怒っているふりをする。不快に思えるほど鼓動がうるさくてどうしていいかわからないのだ。


「悪かった、今後は自重しよう。この魔具の効果は最長で一日だ。だが、私が一緒のときは解いてやるから安心しろ」


 そしてウィルフレッドはシャノンのベッド周辺にも別の結界を張ることを告げる。首輪の役割は単純に他人に呪いを移すことを防ぐためのもので、ベッドの結界はウィルフレッドの安眠のために必要なものだという。ベッドの結界の方は魔力だけを遮断するもので、シャノンの出入りを制限するものではなくなった。


「なぜ、先生がいるときは結界を解いてくれるんですか? 先生が呪われないというのはわかりましたが、いちいち面倒では?」

「他者の魔力の影響下に居続けるのは不快なはずなのだが。貴様は随分と変わっている。私としては呪いよりもそちらを研究したいほどだ」


 実は屋敷全体にも薄い結界の一種が張ってある。そうしないと瞳を閉じてもまぶしすぎて眠ることができないのだ。彼は瞳を閉じても、もう一つの世界――――魔力で満ち溢れた世界を視ることができるのだから。

 シャノンは屋敷全体に張られている結界、日中は首輪の魔術、夜はベッド周辺の結界、自身が宿した呪い、といくつもの魔術に包まれることになる。普通なら、その環境に長く居続けたら眩暈めまいなどの症状が出るはずだが今のところ、その兆候がない。

 そんな面倒なことをするのなら逆にウィルフレッドの周囲にだけ結界を張ればいいのではないかと普通なら考えるだろう。だが、それはできない。完全に外部からの影響を遮断するのは彼にとって息ができないのに等しいからだ。屋敷に張ってある結界はウィルフレッドの安眠のために複雑な『陣』や『魔具』をいくつも組み合わせて作られていて広い敷地を必要とする。

 視察で何日か外で眠ることはあっても長い間この屋敷以外の場所で過ごすことは彼にはできない。


「貴様に影響が出るようなら、ドミニク・カーライルの屋敷にでも預けるつもりだったが、まだ平気なようだな……」

「はい、鈍感なのでしょうか?」

「……詳しくは調べてないとわからない。もし、呪いが解けたら……いや、『もし』の話はやめよう」


 その言葉の続きをシャノンは聞きたくない。少し眉をひそめるとウィルフレッドがそれに気がつて続きを口にすることはなかった。ウィルフレッドの言う「もし」の続きに希望に満ちあふれた世界が広がっていたとしたら、ウィルフレッドがそれを示してくれるとしたら、途端に死ぬことが怖くなる。今のように穏やかな気持ちで過ごせなくなる。それが彼女にとってはとても恐ろしいのだ。

 ウィルフレッドは謝罪の代りにシャノンの髪を撫でる。大きな手の平を頭の上に乗せられたシャノンは少し驚くが、手の平から彼の優しさが伝わりほっとする。


「あとでセルマも来るだろう。洗濯と昨日のように食事の準備を頼む。近所ならば出かけてもかまわないから、買い出しも頼もうか。……では、いってくる」

「はい。いってらっしゃい、レイ先生」


 ウィルフレッドが学園へ出かけたあと、シャノンは洗濯をするために厨房から勝手口を使って屋敷の裏手に行く。そこには手押しポンプの井戸があり、物干し場が設置されていた。

 秋の高い空には鱗雲が広がっているが日差しは十分にあり、空気もカラッとしているから洗濯物がよく乾くだろう。

 シャノンは一度屋敷に戻り、二階にあるウィルフレッドの寝室のベッドから真っ白なシーツをはがしシャツやタオルと一緒にかごに入れる。手押しポンプでたらいに水をためて一つ一つ丁寧に洗うと洗濯石鹸せっけんの清涼な香りが裏庭に広がる。

 洗い終えた洗濯物の皺を伸ばしながら丁寧に干していると、勝手口からセルマが顔を出す。


「シャノンさん、おはよう。いい天気ねぇ」

「おはようございます」

「洗濯かしら? 助かるわ。それなら私は花壇の薬草にお水をあげようかしらねぇ」


 セルマは今日もゆっくりとした動作で仕事を始める。ウィルフレッドが屋敷の掃除を全て終わらせてしまったので、二人のすべき仕事は少ない。この屋敷ではゆっくりと時間が流れている。シャノンはそんな気がしていた。

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