七.旅籠の女

 

 

 着物を縫う手は、無駄なく針を運ぶ。

 義母のぬいの手が休みなく動いている傍で、りくもまたそれに倣って繕い物を一つ、任されていた。

 縫物の手伝いを頼まれた時は、使用人にでもやらせれば良いと思ったが、はたと気付いて了承したのである。

 使用人がいるにはいても、その手は他の雑用に塞がっており、下女を増やす余裕もない。自らやるより他にないのだ。

「この着物、どなたの物なのですか」

 義母が着るには少々派手な色合いの染物で、どこかからの頼まれ物かに思われた。

「街道沿いの糸屋さんに届けるのですよ」

 街道は内陸の月尾と海辺とを繋ぎ、四季を問わず旅人の往来も多い。商いには潤沢な恩恵のあることであろう。

 今少し城下に近付けば宿場町があり、陣屋も置かれているのだが、沢代組の一つ隣組で、麟十郎が代官として預かる土地ではなかった。

 りくも嫁入る道中で素通りして来たが、山間の土地にしては活気づいていた。旅籠や茶屋もあれば、飯盛女も置いているらしかった。

「これも少しは足しになりますからね」

 家計の足しに、という意味だろう。

 つまりは内職だ。

 町人から仕事を得なければ、日々の暮らしも成り立たない。

 実家さとにいた頃は、質素ではありながらもそんな苦労をする事はなかったのに。

 つい愚痴を溢しそうになるのを呑み込み、りくはそうですか、とだけ返し、また黙々と針を刺す。

 しかし、ふと自分の縫い目を改めると、目の間隔もちぐはぐで、蛇のようにうねっている。

 そのうねったところで布地は引き攣れて、醜く皺が寄っていた。

「………」

「まあ、針はあまり得意でなかったかしら」

 覗き込んだ義母の声に、貶めるような響きはない。

 しかしそりくが羞恥を感じるのには十分で、思わず義母の目から縫い目を隠して身じろぐ。

 嫁入りには必須の嗜みとして針は幼少から習うものだったが、どうにもりくの手にはあまり馴染まない。

 手先が不器用という自覚はなかったが、何年続けても上達が見られず、師にも苦笑される始末で、不得手から苦手となり、それを嫌いかけたとき、ついに針を習うことをやめてしまった。

 その代わりに父の丈左衛門に言われて通いだしたのが、剣術道場だったのである。

「申し訳ありません、針はどれだけやっても、昔から一向に上達しないのです」

 りくが恥じ入る思いで俯くと、ぬいは微かに笑声を立てた。

 嘲りの色はなく、どこかうら若いおなごのような軽やかな声だ。

「恥じることはありませんよ。誰にでも得手不得手はあるものです」

 言って、ぬいは着物の袖をけ終え、手を止めた。

「麟十郎をご覧なさい。あの子の剣など、まったくのへっぴり腰。幼い頃は、それでよく他家の御子たちに揶揄われて、よく泣き付いてきたものです」

 同じ道場の子弟同士だったなら、容易に想像がつくでしょう、と笑う。

「さ、明日には届けに行きますよ。一緒においでなさい」

 縫い物の内職をすること自体、りくには考えられないことだったが、それを届けに行くのもまた自ら足を運ぶと聞いて仰天した。

 てっきり、店の者が受け取りにやって来るものと思っていた。

 喫驚を口に出さない代わりに、女だけで行くのかと問うと、下男を連れて行くと言う。

 その義母の言葉通り、翌日には三人連立って街道沿いの糸屋の暖簾を潜ったのだった。

 

   ***

 

 街道を行き交う旅人の姿も見慣れぬもので、町家の中に入るのも初めてのことである。

 山間にできた猫の額ほどの平らな土地に、町家の屋根が犇めき合う小さな集落だ。

 大きな河川は遠いが、そこへ注ぐ小さな支流が暮らしを支えている。

 武家屋敷の並ぶ郭内から滅多に出ることのなかったりくにとっては、目新しい光景の連続であった。

 初めての土地で、道行く足も覚束ず、義母のいることが心強い。義母とても、この地へ移ってそう長くもないはずだが、慣れた足取りであった。

「いや、綺麗な仕事をなさる。こちらも助かりますよ」

 仕立てたものを広げた糸屋の番頭がその縫い目を改めながら、感に堪えないといったふうに息を吐く。

 確かに、義母の手仕事は繊細で、仕上がりも美しい。

 着物は無事に納められ、代わりにまた、この辺りの大店が娘のためにと注文したらしい太物と寸法を請負って店を出た。

 りくが生木を割くような音と共に、喉の奥が引き攣れるような声を聞いたのは、大通りの辻から代官所へ向かう路地に踏み込んだ直後だった。

 甲高い鳥か獣かの鳴く声にも似ていたが、悲痛な叫びのようでもある。

 塀を巡らした向こう側は旅籠の裏庭になっているようで、どうやら音はそこから聞こえた。

 思わず義母と二人立ち止まり、互いに顔を見合わせると、また鋭い音が聞こえ、今度はそれと同時にくぐもった呻きのようなものが漏れている。

「義母上さま、誰か加減のお悪い方がいるのではありませんか」

 病か怪我かは知らないが、何者かが苦悶する声に違いない。

 そう話し、りくは塀の周辺をきょろきょろと眺める。

 二間ほど向こうに裏口の木戸を見つけて駆け寄ると、中を覗き込んだ。

 が、そこに見た光景はりくの巡らした懸念とは全く異なる光景であった。

「………」

 庭木の幹に縛り付けられた、まだ若い女がぐったりと項垂れていた。

 投げ出した細い脚が裾から覗き、白い肌はところどころ裂けて血が滲む。

「あ……」

 怪我には違いないが、どう見ても折檻の痕跡だろう。

 りくがその場に固まって動けずにいると、女が重たげに顔を上げる。

 痩せた顔に生気のない眼が二つ、上目にりくを見た。

 物を言う気力もないのか、女は黙ったまま、助けを求める様子もない。

「ここを離れますよ」

 義母は強張った顔付きで声を低め、りくの手首を些か強引に引っ掴む。

 思いも掛けぬ光景に呆然としたりくは、大して強くもない義母の力にあっさり負けてしまった。

 女から目を離せないままに、二、三歩縺れるように歩かされる。

「旅籠の中のことです、こればかりはどうにも出来ませんよ」

 再びりくを叱る義母の声に、はっと我に返る。

 足許は覚束ないが、りくは手を引かれるままにその場を離れたのであった。

 

 

 【八.へ続く】

 

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