第6話『黛 綾乃』 その2
退勤ラッシュの時間から外れた電車は、どこか物寂しさを感じさせる。
『残業お疲れさまでした』な、見るからにくたびれ切った大人たち。
かつての自分と同じように塾からの帰りと思われる中学生たち。
他にも何をやっているのかわからない人影がちらほらと。
俯き加減な彼らの顔には一様に生気が欠けていた。
(ま、しょうがないか)
車内を見回してみても微妙にシートが埋まっていたので、窓際に立つことにした。
理由は――どこに座っても誰かと距離が近くなりすぎるから。
バッグを身体の前で抱えて両手で支える。
電車の中で胸元を隠すのは中学生の頃からの癖だった。
近くに座っている乗客から視線を感じたが、余計なことはせずに無視した。
目を閉じれば撮影現場を思い出す。
自分に向けられる熱意と眼差し。
興奮が加速し、情欲が高まる。
心も身体も火照りを覚えた。
誰も彼もいい笑顔だった。
(手ごたえあったし、褒められてたし)
最近少し慣れたものの、現場ではとにかくチヤホヤされる。
撮られる側のテンションを上げれば、写真のクオリティも上がるから。
カメラマンには褒めたり煽てたりと言ったトーク能力も要求されると聞いた。
……おべんちゃらの類は、何度も聞かされれば嫌でも聞き分けられるようになるけど。
(今日の撮影は……いい感じにできたかな)
窓に映った自分の顔を見ながら心の中でガッツポーズ。
グラビアアイドルとして活動を開始してから一年と少々。
当初はデビューなんて形だけで、ひたすらレッスンの日々だった。
注目を集めることに慣れていないどころか、芸能界に足を踏み入れることそのものが自分にとっても想定外だったので、毎日毎日右往左往していた記憶しかない。
胸が大きいだけで通用する世界ではない。
顔が可愛いだけで通用する世界でもない。
自嘲でも謙遜でもなく『
年下でも子役の経験があったり、アイドルとして既に活動していたりと何らかの芸歴が既にあったりなかったり。
素人そのものだった
誰もが生き急ぎ過ぎているようにしか見えなくて。
それが芸能界のスタンダードだと気づかされて。
子ども気分が抜けない甘さを思い知らされて。
基礎の基礎から学ぶ日々が続いた。
事務所の上役から罵声を浴びる日々が続いた。
慣れないレッスンで身体を痛めつける日々が続いた。
出版社へのあいさつ回りに、靴のかかとをすり減らす日々が続いた。
ひとつだけ他の同業者を上回っていたところを挙げるとしたら……それは先の見えない努力をひたすらに積み重ねる日々は、持て囃されるどころか誰にも顧みられないまま過ごす日々は、綾乃にとって元より日常茶飯事だったことくらい。
辛いとは思わなかったし、耐えているとも思わなかった。
報われないことは、綾乃にとって当たり前だった。
違いなんて、それだけだった。
「ふぅ」
電車を降りて駅を後にすると、生暖かい風が肌を撫でた。
まだ五月だと言うのに、すでに蒸し暑い。
身体に纏わりつく湿気が不快だ。
『体調管理はしっかりしなさい』なんて麻里の声が聞こえてきそうで、笑みが零れた。
綾乃の実家こと黛家は、駅から歩いてしばらくのところにある。
この辺りは治安もいいから危険はないと思うのだが……あれだけ真顔で脅かされると何となく不安が募ってくる。
ちょっとした散歩がてら気楽に声をかけられる友人がいればいいのだけれど、生憎そんな人間に心当たりはなかった。
ただでさえ学校に顔を出す日数が他の生徒たちより少ない。
仲間内でグループを形成する文化を持つ女子たちのフィールドには、とっくの昔に自分の居場所なんてない。
だからと言って迂闊に男子と接触すると、それはそれで煩わしいことになる。
(ホント、めんどくさい)
肩を竦めてため息ひとつ。
バッグからスマートフォンを取り出し、ディスプレイを指でなぞった。
表示されたのは、とある見慣れた男子の名前。
『黛 綾乃』にとって最も大切な名前。
「呼んだら……来てくれるかな?」
自問しているつもりはない。
呼べば来てくれると思った。
根拠はないが確信はあった。
「……」
どうしても、あと一歩が踏み出せない。
『彼』とは友人以上の間柄のはずなのに。
自分のせいで迷惑をかけたくなかった。
夜中に呼び出すのは気恥ずかしかった。
「……」
待ち受け写真の『彼』を見つめたまま動けずにいると、唐突に手の中でスマホが振動した。
懐かしさに浸っていたところを現実に呼び戻され、驚きのあまり端末を取り落としかける。
「何なのよ、もう」
毒づきながらディスプレイに目を走らせる。
メッセージの着信あり。麻里からだった。
※※※※※
麻里
『今どこ?』
綾乃
『地元の駅です。寝過ごさずにちゃんと降りられましたから』
麻里
『その辺はあんまり心配してない』
麻里
『道は明るいの? ちゃんと帰れるの?』
綾乃
『大丈夫ですって。子どもじゃあるまいし』
麻里
『十七歳なんて子どもだと思うけど、あなたの場合は見た目が子どもじゃないのが心配』
綾乃
『見た目でスカウトしたくせに。他のみんなにも、そんなに気を配ってあげてるんですか?』
麻里
『全員見てるつもり。だけど平等じゃない』
綾乃
『目をかけていただいて感謝してます』
麻里
『そうね。あなたは特別。何しろ私が直接スカウトしたんだから』
麻里
『念のために言っておくけど、何かあったらすぐ連絡するように』
綾乃
『わかってます』
麻里
『痴漢撃退用のスプレーと防犯ブザーは?』
綾乃
『持ってます』
麻里
『ちょっとでも危ないと思ったら、すぐに使いなさい。躊躇っちゃダメよ』
綾乃
『何度も聞きました。麻里さん、お母さんみたいですよね』
麻里
『まだあなたみたいな大きい子どもがいる歳じゃない』
綾乃
『……あの、冗談ですから』
麻里
『わかってる。それじゃ、また連絡するわ。スケジュールのチェックを忘れないように』
綾乃
『ありがとうございます、麻里さん。おやすみなさい』
麻里
『おやすみ、綾乃』
※※※※※
メッセージのやり取りを終えて、スマートフォンをバッグに戻した。
寝過ごさないと信頼されていることに、ジョークを交わせるほどの関係性を築けていることに、ささやかな満足感を覚える。
それはそれとして、防犯ブザーとスプレーは完全に忘れていた。
バッグからブザーを取り出してポケットに入れた。
「さて、帰りますか」
小さな声で呟いて気合を入れた。
ここから先はグラビアアイドル『黛 あやの』ではなく、女子高生『黛 綾乃』の時間だ。
しばらく夜道を歩いて、ポツリとひと言。
「……地元なんだけどなぁ」
口を突いて出た言葉には、違和感が滲み出ていた。
通いなれている街並みが、どこか遠く感じられる。
生まれてこの方十七年と少々を過ごした街なのに。
なんとなく『ここは自分の居場所ではない』と感じてしまう。
『遠からずこの街を出るのだろうか』と意識する機会が増えたように思う。
(その時は……)
都合のいい未来を思い描き、軽く首を振って妄想を散らす。
遥か遠くを見過ぎて足元を疎かにする愚を犯すつもりはなかった。
(今は無事に家に帰ることだけ考えよう)
おっかなびっくり暗い道を歩いていると、ふとコンビニが目に入った。
珍しくもない全国チェーンの前を通り過ぎようとして――中によく見知った姿を発見した。
(え?)
足を止めて何度も目をしばたたかせたが、見間違いではなかった。
忙しくてすれ違いがちになっていた『彼』の姿に、心臓が早鐘のごとく鳴り響いた。
買いたいものはなかったが、足が勝手に入口に向かう。
自動ドアの前で呼吸を落ち着けて、いざ突入――直前でストップ。
周囲を見回し、ドアを見張ることができる物陰に移動した。
バッグからコンパクトを取り出し、マスクを外して覗き込む。
鏡に映っていたのは、ほとんどすっぴん同然の自分の顔だった。
帰るだけだと思っていたから、プロの手による化粧は落とした後。
「もう……こんなところで会うってわかってたら……もう!」
愚痴っても不貞腐れても、どうにもならない。
仕方がないのでリップを塗って、手櫛で前髪を整える。
しばらく鏡とにらめっこ。眉間にしわが寄った顔が写っている。
(いや、これはちょっと……)
人に見せられる顔ではなかった。
『彼』の前に出られる顔ではなかった。
ため息ひとつ。この状況で妥協はできない。
手持ちのコスメで何とか格好つくように、習い覚えた技術で取り繕った。
こんなところで化粧する自分になるとは思ってもみなかったが……兎にも角にも時間がなかった。
「……よし!」
自分で自分にゴーサイン。気合を入れ直してコンビニのドアをくぐった。
綾乃を見て驚きに目を丸くする店員は、無言の笑顔で黙らせた。
店内を見回して、先ほど目に入った人影を探した。
まだ外には出ていないはずだった。
入口はずっと監視していた。
(どこ!?)
狭い店だったから大した手間ではなかった。
『彼』は書架の前にいた。
手に持っていた雑誌をそっと観察し、身体を強張らせた。
『週刊少年マシンガン』
自分が、『黛 あやの』が巻頭を飾った有名な漫画雑誌だ。今日発売だった。
マネージャーにして業界の偉大な先達である麻里だってかなり意識していたし、電車の中でSNSをチェックしたら早速大きな反響が巻き起こっていた。
想像以上の盛り上がりで、正直なところ戸惑いを隠しきれなかった。
『彼』が自分のグラビアを目にしているという状況に、少なからず興奮を覚えた。
(一心不乱って感じよね)
他のファンには申し訳なく思いはするものの……今この瞬間のために『週マシ』の仕事を受けてよかったと、オファーをくれた出版社に心の底から感謝した。
(落ち着きなさい、私)
もう一度、深呼吸。大きく吸って、大きく吐いた。
よほど見入っているらしく、『彼』が自分に気づいた様子はなかった。
嬉しいし好都合ではあったが、それはそれでちょっと腹が立つ。
死角からそろりそろりと近づいて――今日イチの笑顔を作って口を開いた。
「何見てるの、
驚きのあまり大樹――かつて高校受験を共に戦った戦友にして、孤独だった綾乃に手を差し伸べてくれた恩人こと『
大きな身体で大げさなリアクション。
可愛らしいと思った。
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