第2話 劇的ビフォーアフター その2

楠 大樹くすのき たいじゅ』と『黛 綾乃まゆずみ あやの』は、どちらも中学三年生。

 身長は僅かに大樹の方が高いけれど、それほど差があるわけでもない。

 10センチも変わらない。

 つまり両者の歩幅にも差はない。

 ひとり前を行く綾乃は歩き。後ろから追いかける大樹は小走り。

 ふたりの距離が詰まるまでに、さほどの時間は必要なかった。


「待てってば、黛」


 追いついて、隣に並んで、声をかけて。

 それでも無反応を貫く綾乃を横合いから見やる。

 地味な制服とコートでも隠し切れない、強烈な曲線が目に飛び込んでくる。

『ヤバい』と緩みかけた頬を引き締め、本人に気づかれる前にそっと視線を逸らせた。


『黛 綾乃』は――胸が大きい。


 直に目にしたことなどあるはずもないが……きっと先ほどコンビニで目にしたグラビアアイドルにも負けていないと思われるほどにデカい。

 身体の線が出づらい服の上からでもわかってしまうほどに。

 ただ、その事実が彼女にとって望ましいことなのかと問われると、残念なことに首を横に振らざるを得ない。

 綾乃は自分に向けられる男子たちの性的な視線を嫌悪している。

 大樹が見ている範囲において、彼女はいつも猫背気味だった。

 おそらく自分の豊か過ぎる胸を隠そうとしているのだろう。

 これは決して妄想の類ではない。

 一緒に勉強していると、しばしばその手のシチュエーションに立ち会うことがあった。

 同年代に比して成長著しい彼女の身体は、男子からは欲望を、女子からは嫉妬を集める。

 綾乃は身勝手な感情をぶつけてくる彼ら彼女らを倦厭しているが、周囲の人間は綾乃の心情に頓着することはない。


『てめーら、イチイチうるせーんだよ!』


『楠くん、別にいいから』


 綾乃をチラチラ見ながらひそひそ囁かれる揶揄いに苛立って大樹が激昂し、本人に袖を引かれて渋々腰を下ろすなんてやり取りも珍しくはない。

 最初の頃は思い至らなかったが……綾乃は大樹が周囲を窘めようとすることそのものに、強い羞恥心を覚えているようだった。

 いつしか大樹もあまり強く口に出さなくなった。

 自分が腹を立てれば立てるほどに、綾乃を追い込むことになると気付いたから。

 連中に物申してやりたい気持ちは残っていたものの……ほかならぬ大樹自身も、綾乃の胸に目が吸い寄せられたことは一度や二度では済まないことは厳然たる事実であり、『こんな有様で何を言っても説得力がなさすぎる』と自己嫌悪に陥ったことも、一度や二度ではなかった。

 せめて普段は極力目を向けないように意識しているつもりなのだが……実際のところ、彼女にどう思われているかは怖くて聞けなかった。

 大樹には女性の友人なんてほとんどいないし、姉妹もいない。

 母親と思春期女子の考え方がどうこう的な話をするはずもなく、ゆえに綾乃がどんな気持ちを抱いているのかは想像することしかできなかった。


――まぁ、いい気はしないよな。


 当然のように、そう結論付けた。間違っているとは思わなかった。

 だから、綾乃に思春期真っ盛り的な話題は絶対に振らない。

 エロ本どころか水着グラビアをガン見したりもしない。

 漫画もアプリも動画も、綾乃の前では避けている。

 今日は例外だった。気が抜けてしまっていた。


――何もかも受験が悪い。


 半端ないストレスによって正常な判断力が奪われてしまっていたのだ。

 ……などと自分に言い訳しても始まらない。

 高校受験が目前に迫っている状況で、綾乃との協力体制にひびを入れたくはない。

 ふたりの関係は『同じ志望校を目指していて』『中学三年生の春の段階で目標とされるレベルに届いておらず』『その原因が苦手科目の大きな穴に起因している』という共通の弱点を抱えているところから始まった。

 受験に必須な五科目すなわち英語・数学・国語・理科・社会のうち、大樹は数学と理科が得意で国語と社会が苦手。逆に綾乃は国語と社会が得意で数学と理科が苦手。

 お互いに現状を維持していては、志望校合格に届かない成績だった。

 ふたりが通っている進学塾は好意的に表現するならばレベルが高く、身も蓋もないことを言えば落ちこぼれに対するフォローが足りない。

 だから――大樹は動いた。


『なぁ、黛……だっけ。ちょっといいか?』


『……何?』


 抜き差しならない状況を打破するために、綾乃に同盟を持ち掛けたのだ。

 パートナーに彼女を選んだのは、模試の結果などで成績を把握していたから。

 貸し借りを作るのは苦手だったから、弱点のない他の生徒には声をかけづらかった。

 お互いの欠点を補い合う間柄こそが最も気楽で都合がよかった。

 女子を誘う気恥ずかしさはあったけれど、差し迫った問題の方が大きかった。

 最初は戸惑い気味あるいは気乗りしない様子だった(最大限オブラートに包んだ表現)綾乃も、最終的には手を握り返してくれた。程なくして協力体制に大きなメリットを見出してくれたようで、いつもムスッとしていた顔が柔らかく綻ぶまでに、それほどの時間は必要なかった。


『……ありがと。楠君のおかげで何とかなるかも』


『俺の方こそ、黛がいてくれてよかったよ』


『え、それは、その……どういう……』


『ん?』


『……何でもない』


 綾乃と同盟を結んでからの一年間は、とても充実していた。

 塾の後に、休みの日に一緒に机を並べて。連絡先を交換して。

 お互いの家を行き来して、お互いの家族とも顔見知りになって。

 ふたり揃って成績も向上して、志望校の合格ラインが見えてきて。

 提案した本人が言うと口はぼったいが、状況は劇的に好転していた。

 あと少し。あと少しなのだ。

 ひとりで勉強することは不可能ではないにしても、ここまで来て綾乃と揉めるのは縁起が悪いように思えた。

 それに――


『綾乃と一緒に過ごす高校生活は楽しいだろうな』


 大樹の胸中には、そういう思いがあった。

 友情以上の感情が膨らんでいることに気づいていた。

 ふたりで一緒に合格したら、心に秘めた言葉を告げるつもりでいた。

 ……だと言うのに、たかが水着グラビアで拗れてご破算とかマジで笑えない。


「落ち着けって黛。俺が悪かったって」


「別に怒ってないし。私、冷静だし」


 相も変わらず平坦な声。

 硬くて冷たくて、人を寄せ付けない音の塊。

 初めて話しかけた時に返ってきたのと、そっくりな反応。

 時間が巻き戻ったかのごとき錯覚が脳みそを直撃してゾッとした。


「なぁ黛……って、おい! 危ないッ!!」


 眼前の光景に呼吸が止まった。

 ゾッとするどころの話ではなかった。

 すがり気味な声に焦りが混じり、手が伸びた。

 信じられない光景を前にした、反射的な動きだった。


「楠くん、うるさ……きゃっ!?」


 足元だけ見ていた綾乃が車道に出ようとした瞬間、すぐ目の前を自動車が駆け抜けた。

 みるみる間にエンジン音が遠ざかっていく。

 ブレーキ音は聞こえなかった。

 ふたりとも無言で道路を見つめていた。車が行き来する夜の車道を。

 咄嗟に大樹が彼女の身体を抱きかかえて引っ張り込んでいなければ、今頃は……


「黛……お前、ちゃんと前見ろ! このバカ!」


「……」


 思わず強めな怒鳴り声をあげてしまった。

 頭の中には最悪の惨劇(未遂)が描かれてしまっている。

 決してはっきりしたビジョンではないが……想像するだけで吐き気がする。


「黛!」


「……」


 綾乃は呆然としたまま前方を見つめている。

 俯いていた頭を上げて、心持ち上に視線を向けていた。

 その視線を追って――思わず舌打ち。完璧に赤信号だった。


――俺も見えてなかった……


 視界に捉えていたのは綾乃と車だけ。

 大樹も信号までは意識が回っていなかった。

 寒々とした風が首筋を駆け抜けて、背筋に震えが走った。

 腕の中で綾乃は顔色を失っていた。カチカチと歯を鳴らしている。

 耳障りな音は断じて寒さのせいではない。死を垣間見た恐怖の音色だった。


「黛……こんなところで事故とかシャレにならねーだろ」


「うん、ごめん……ありがとう、楠くんがいなかったら……私、私……」


 つんけんしていた態度はすっかり成りを潜め、謝罪と感謝の言葉が続く。

 先ほどまで彼女を突き動かしていた怒りは、すっかり鳴りを潜めている。

 綾乃を救うことができたのは僥倖だったが、チクリと胸に痛みが走った。


「そんなの別にいいから。ホント大丈夫か?」


「う、うん……あ、きゃっ」


 大樹に身を預けたままであったことに気づいた綾乃は、小さな叫びとともに慌てて距離を開けた。

 その反応は地味に心に突き刺さったが、咎めようとは思わなかった。

 窮地に間に合って彼女を守ることができた。それで十分だった。


「どこか痛いところないか? ケガしてないか?」


「……うん」


「えっと……さっきはデリカシーなくてすまん。ほんと悪かった」


「あれは……ううん、私の方こそカッと来ちゃって周り見られてなかった」


「そうだな。俺は悪かったけど、お前だって……あと少しで死ぬところだったんだぞ」


「……うん」


 信号は青に変わったが、動けなかった。

 衝撃冷めやらず、沈黙。どちらも口を閉ざしたまま。

 大樹は綾乃のコンプレックスを無暗に刺激した自分を責めた。

 綾乃は――消え入りそうな声で『ごめん』とひと言。返事を待たずに横断歩道に歩みを進めた。

 大樹は小走りで追いかけて横に並んだ。

 綾乃は大樹を置いて行こうとはしなかった。

 横断歩道を渡り終えたところで強い風が吹いた。

 ふたりでポケットに手を突っ込んで身体を縮こまらせる。

 寒風をやり過ごした綾乃は、眼鏡越しに空を見上げて口を開いた。


「もうすぐだね」


「ああ」


 綾乃の声はいつものトーンに戻っていた。

 一緒に勉強するようになって以来の聞き慣れた声に。

 心の中でひとり胸を撫で下ろして、大樹も空を見上げた。

 雪は既に止んでいて、黒い雲の合間にぽつぽつと星が瞬いていた。

 

「高校に合格したら……」


「黛?」


「ううん、なんでもない」


 冷たい風にちぎられた声が大樹の耳を掠めた。

『どうなるのかな、私たち』

 そう聞こえた気がした。

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