第6話 制勝の朝(6)信仰③

 信長は、皮相な溜息をひとつき、

番頭ばんがしらに澄んだ眼差しを向けた。


 「玄公が言われるであろう、

良う働いた、武田の為にと。

あの世で亡き殿に伝えるが良い、

信長は、ほんに嫌な男であったと」


 番頭を捉えている徳川兵が沙汰に迷って、


 「首を打てば宜しいので?」


 と誰にともなく確認の意で訊くと、

信長自らが、


 「腹を切らせてやれ。

織田や徳川で働けと言っても、

きかぬであろう。

首は残り四人が国へ持ち帰り、

勝頼に渡せ。

その者の末期を語り聞かせよ」


 引き立てられる前、

番頭は不自由な指を突き、平伏し、

面を上げると信長を見据え、

何かを告げようとし、言葉にならず、

今一度、頭を垂れた後、

姿を消した。

 その背から、憤怒の影は消えていた。


 四人の足軽、雑兵達は、

涙を止められぬ者、

助命された喜びが隠し切れぬ者、

不安に安堵を滲ませる者と居たが、

とある一人だけは身なり、風貌、悪くなく、

番頭の家臣であったか、

無表情を通し、ただ唇を噛んでいた。


 信長の面前ながら家康が、


 「追い腹を考えておるのか。

無用ぞ。

既に何万という両軍の血を、

この原は吸った。

志多羅の神が申されておる。

十分だ、もう武田は帰れと」


 と、胸の内を見抜き、命じた。

 

 仙千代と変わらぬ年頃の兵だった。

おのが主、番頭に付き従って、

死出の旅路を決していたのに違いなかった。


 大名、諸将は当然のこと、

信長も、家康を黙して認めた。


 若者は項垂うなだれて激しく肩を震わせ、

やがて、


 「殿、殿!……」


 と、番頭の去った行方に嗚咽を放ち、

果てない涙を腕で拭った。


 家康の情けある「厄介払い」に、

仙千代は家康の人品骨柄を見た。

 畏怖すべき信長が居ようとも、

家康は言うべきは言う男だった。

 いつも信長の前では、

ひたすらにこやかな様を通し、

信長の眉間に皴が寄れば直ちに対応し、

同盟者であり、舅同士といっても、

あくまで身を低くして仕えて見せる。

 が、それだけの人物ではないことが、

何日か共に過ごすうち、

未だ深くは世を知らぬ仙千代にさえ、

伝わった。


 羽柴様同様、

徳川様も底知れぬ御方……

上様もそうだと思うておったが、

我が殿は喜怒哀楽が澄み切って、

畏れ多くも、

ある意味、純に過ぎるのやもしれぬ……


 信長が、侍る仙千代に、つと、顔を横向けた。

 何を言われずとも、

渇きを覚えたのだと知って、

直ちに竹筒の清水を差し出した。


 「美味い」


 何かを吹っ切るように、

信長は明快に声を響かせた。


 次いで、

他の武田兵も呼び込んで、

首実検は終わった。


 信長、家康は、

陽の高いうちに馬を西へ進め、

初夏の三河路を岡崎へ向かった。


 

 


 



 


 




 


 


 


 








 




 




 




 

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