夏の夜

ぽぽ

falling love

暑いくせにどんどん冷え切っていく心。

この夏、僕にとってただただ寂しい毎日で、死ぬほど暑い、リモートワークとは何なんだと思わせる汗にまみれた電車通勤、帰れば父と母の喧嘩、趣味もない、別れたばかりの彼女にはついにあらゆるSNSのフォローをはずされ"向こう"は縁は切れたことにしたんだと。僕には一体何があるんだろうと。


そんな時に。


夏のせいでもなくて、夜のせいでもない。

1人の僕という人間も、これから登場するとある1人の女性もおそらくそれに気づいていた。


実家の犬の散歩をしながらぴたぴたはりつく暑さにやられて、ベンチに腰掛けたとき、そのとき僕の右肘にすこし冷たい何かがぴたっとはりついた。それは人の肌で。いつも電車に乗るときは中年男性の汗だくの腕にうんざりするのに、その肌は嫌な感じがしなかった。氷のように冷たくて心地よくて、同時に温めてあげたくなるような。その肌は透明に透き通るようで、冷たい滴に濡れたロングヘアが二の腕にはりついていた。指先には黒い煙草を燃やしていてその人はこう言った。


逃げ道がなかったんです。


ただそればかり彼女は冷え切った声で言うものだから、僕は勝手に居場所を用意してあげたくなってしまって、抱きしめてしまった。

ちょっと待ってねと僕はまっすぐ家に帰って散歩していた犬を母に預け、先程のベンチへ走る。

戻ればちゃんと彼女は其処にいて、手に持った煙草をひっくり返して待っていて、僕を見るなりそのままそれを僕の口に押しつけて吸わせた。

僕は、それが僕にとって初めての煙草で、その煙草の吸い口の甘さに転がり落ちた。煙草ってこんなに甘いものなのかと。当然ながら彼女の唇も甘い。甘かった。甘かった。とろけるように甘くて、僕の心は転がり落ちていった。この子はなんて麗しくて甘いんだと。


濡れた髪を乾かそう、と僕は彼女の手をとって走り出したけど、数分もしたら彼女が先をゆく。


今日はあなたなんだ。

微かな声で彼女は何か呟いて、僕が「何?」と言う。


「流れとタイミングなの、全て!」


と、彼女は呟いて、僕の目を下からスッと覗き込んだらケラケラ笑って、濡れた髪を揺らしながら走り出した。暗い公園を抜けて、明るいコンビニに入って、私これがいい、とガツンとミカンを指差す。じゃあ僕も、と2本会計する。ひんやり冷えるアイスを2人でくわえながら走る。高速道路を横目に見ながら僕たちは汗だくになりながら走って、彼女は1泊9800円するホテルに僕を引っ張り込んだ。


明日は休みだから。明日の逃げ場を僕は彼女にあげられればいいと思った。ただ、この子にはゆっくり眠ってほしい。とは思ったんだけど。思ったんだけどね。


朝になってホテルを出る時、僕が財布を開こうとすると「お父さんのお財布から全部抜いてきちゃったから大丈夫」と小声で彼女は囁いて1万円を自動精算機に入れた。


「これも流れとタイミングなの、全て。今日はありがとう。」


またそれだけ言って彼女は僕にキスして消えた。


僕はそれから煙草を吸い始めた。

煙草の箱はどれも似ていて、彼女が吸っていた煙草がどれだかわからなかった。すぐわかったことは、煙草というものはいずれも吸い口が甘いものであるわけではないのだということ。たしか、"黒い箱"ということを頼りに片っ端から煙草を買っては試した。そしてもうひとつわかったのは彼女が吸っていたものはコンビニに売っているものではないということ。


ホテルを出るなり走って消えたあの彼女の味を思い出したかった。本当は、本当は、僕が明日のあの子の居場所をつくってあげたいと思っただけだったのに、僕は明日もその明日もその明日もずっと居場所をつくってあげたくなってしまったんだろうな。

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