第2話:十人のうち、八人が、死に絶えた。 そういう計算になる・・

自然はあまりに厳しく、

そして人間は、

あまりにも弱かった。


アベルは物心ついた頃から、

すでに帰りたいと思っていた。

赤ん坊の頃に、

帰りたいと願い続けていた。


あこがれ、――

そうそれは、

原初の憧れとでも言うべき、

すべての官能や性愛を凌駕した、

あまりにも狂おしい希求であった。


人はすべて、

愛されたい、

そう強く願いながらこの世に生まれてくる。

そして最も確かに愛された、

全能感、――

この世のすべてを手中に収めていた時代は、

母の、

その柔らかな肌に包まれて、

その嫋やかな腕に護られた、

赤ん坊だった頃の自分に遡るのだ。


人は生まれてすぐに、

何処かに帰りたいと希求する、

悲しく、不完全で、哀れな生き物だ。


**


アベルには、

兄弟が十人いた筈であった。

しかし生き残ったのは、

兄であるカインと、

弟であるアベルの、

たった二人だけであった。


自然はあまりに厳しく、

そして子供は、

あまりにも弱い生き物だったのだ。


兄弟は十人とも、とても健康に生まれついた。

しかし厳しい自然の摂理の前に、

次々に弱り、倒れ、死の淵から空虚の闇の中へと、

滑り落ちていった。


一人は、

乳を喉に詰まらせて死んだ。


一人は、

高熱を出して、次の朝には冷たくなっていた。


一人は、

寝床だった洞穴ほらあなむしろの上で毒虫に刺されて死んだ。

父と母は、

まだ可愛らしい赤ん坊だったカインに、

目と注意こころとを、

完全に奪われてしまっていたのだ。


一人は、

食あたりを起こして死んだ。

まだ乳呑み子だったカインとアベルは、助かった。


一人は、

病に倒れ、弱って死んだ。


カインも、アベルも、

かつて同じ病にかかっていた。

しかし、

二人は助かった。


疱瘡ほうそうに罹った子供には、七日経っても高熱が下がらなかったら食事を与えないのが慣わしだった。自然は厳しく、生活は激しく、虚しい努力を、それでも続ける優しさは、いや余裕は、まだ人間じんかんには無かった。しかし母親は、自分の子供の頃に似ている女の子のように可愛らしいこの二人を、見捨てることが出来なかった。反対する周囲の目に表情を固くし、泣きながら、それでも食事を与え続けたのだ。


一人は、

飢えのせいで死んだ。


食べ物は、まだ、何時でも手に入る訳ではなく、逆に言うと、ある時にしか無い、そういう物だった。集落全体を支配する深刻な飢餓の中、自らの食べる物も無く、しかし周囲の大人は、わずかな食べ物をこっそり持って来ては、カインやアベルに、分け与えた。カインとアベル、分け与えた。カインとアベルは口に糊するを得て、その飢餓を何とかギリギリでやり過ごし、生き延びた。


一人は、

口減らしで、殺されて死んだ。


カインやアベルに負けないくらい、利発で元気な男の子だったが、顔に、かつて罹った疱瘡の痕が残っていた。カインとアベルも、罹っていた時はそれはひどい状態だったが、すぐに治り、以前のきれいな肌を取り戻していた。違いといえば、それだけだった。たった、それだけだった。しかし度々襲う飢餓の中で、山に食べ物を探しに行こうと手を引かれたのは、カインとアベルではなかった。


一人は、

肉食獣に襲われて死んだ。


皆で狩りをしていた。しかし岸辺に憩う水鳥の群れを狙っていたのは、人間だけでは無かったのだ。その肉食獣は、人を見付けると、目標を変えて、襲い掛かってきた。経験が足りない子供はどうしても逃げ遅れてしまう。二人の子供が逃げ遅れ、そのうちの一人がアベルだった。アベルの方が、もう一人より逃げ遅れていた。しかし、子供をどちらか一人でも助けようと残った大人は、太った背の低い男の子の方ではなく、しなやかな体躯に長い手足を持つ、アベルの手を取った。


こうして、アベルは、大人に手を引かれて走り続け、時に転びそうになりながらも、長い「子供時代」という名のトンネルを抜けて、やがて十一歳を迎えるのだ。


まだ大人ではない、

しかし大人の庇護なしでも辛うじて生きて行ける、

性徴の少し手前の、

生命の安定期を迎えるのだ。


子供時代に、

十人のうち、八人が、死に絶えた。

そういう計算になる。


子供が大人になる、

ということは、

並大抵の事業ことではないのだ。



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