第10話 ありがとう

俺はなんでこんな簡単なことが出来なかったんだろう。

母さんに、弁当を手渡された時、ありがとうと…行って来ますと…なんでもない一言なのに、親孝行以前にそんな簡単なことすら出来てなかった。

そう思うと、情けなくて涙が溢れた。

俺、結局誰にも何にも伝えられてない。

せめて、まだ彷徨っている間に言いたいこと伝えるべきことは、伝えたい!萌にも。


母の話では、萌は俺が死んで以来不登校になっているらしい。部屋に篭りっきりで誰にも会おうとしないそうだ。

どうしたらいいんだ。

俺は萌の家の前に立ち、萌の部屋を見上げた。日中だと言うのにカーテンで閉ざされたままだった。


一か八かで、萌の家を訪ねてみた。

学校のカウンセラーとして、少し話ができないかと。しかし、やはり萌は誰とも会いたくないと言って部屋から出てこなかった。

「すいませんね、せっかく訪ねて下さったのに…私もこのままでは良くないと思うんですが、時間も必要かと…」 

萌のお母さんは、申し訳なさそうにしながら、俺を見送ってくれた。

「また、寄らせてもらいます。」

お辞儀をして玄関を後にした。

俺はもう一度、萌の部屋の窓を見上げた。


その時、激しいめまいを感じた。大きなめまいに、倒れそうになり道端で尻餅をついた。

スゥーッとめまいが波のように引き、頭を横に振って目を開けると、目の前に修二さんが立っていた。

「修二さん!?」

修二さんも片手で頭を押さえながら、目を開けた。

え?修二さんが目の前にいるってことは…

我に返り、自分の姿を見てみると俺に戻っていた。修二さんが目を覚ましたから、体から追い出されたのか?

「何で?俺はこんなところにいるんだ?」

呆然とする修二さんをなだめようとした。

「修二さん!これには訳があって…」

「君は…んー、頭が割れるように痛い!」

そう言うと両手で頭を抱えた。

「かなりの負荷がかかってますね…」

「うわっ…正路!」

何の前触れもなく俺の横に正路が現れた。

「生死を彷徨った上に、憑依されたので、心身ともに混乱してるんでしょう。しっかり休ませてあげた方がいいですよ。寝てる間に、君に体を奪われたんだから…」

少し皮肉に感じた。

「わっわかってるよ。」

でも、修二さんにもいつまでも俺が見える訳じゃないかもしれない。何とか早めに手を打たなきゃ。

「そうでもないかもしれないですよ。でも、まだいろいろと時間がかかりそうですね。」

俺の心の声が聞こえたかのように、正路が返事をした。

「え?どう言うこと?」

そう言って振り返ると、もう正路の姿はなかった。


修二さんの部屋へ帰ると、俺も疲労感がドッと押し寄せてきた。

知らないうちに寝てしまったようだ。何も考えずにいられたおかげで、久々に爆睡できた。


そして、修二さんと2、3日生活を共にするようになった。

まだ修二さんには、俺が見えているようだ。

俺の話も半信半疑ながら、信じてくれたようだ。

「俺にはもう何にもないし、思い残すこともない。君の心残りを昇華出来るなら、いくらでも俺の体を使ってくれ。人の役に立って死ねるなら、俺の人生も無意味ではなかったってことだ。」

そう言って、修二さんは熱いコーヒーを一口ゆっくり味わうようにすすった。

「あっ…ありがとうございます…」

俺は丁寧にお辞儀をした。

「そんなかしこまらなくても…」

「いや!俺生きてるうちに、自分の気持ちを大事な人たちに伝えてこなかったこと、めちゃくちゃ後悔してるんです。だから、せめて今は思ってることをちゃんと言葉にして伝えようって思って…」

言葉に詰まると、修二さんは俺の頭をくしゃくしゃっと撫でた。


俺は修二さんが寝ると、彼に憑依し、萌に会いに行った。しかし、まだ一度も会ってもらえないままだ。


そんなある日、珍しく修二さんの部屋のインターホンが鳴った。今まで誰も訪ねてくることはなかった。

「俺がここにいることは誰も知らないんだが…」

修二さんは不思議に思いながら、ドアを開けた。

側から見ていても、修二さんが動揺しているのがわかった。しばらく固まっていた修二さんがやっとのことで、声を絞り出した。

「どっ…どうして?由紀子!」

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