④-8
地表に一番近い部位が尾だったのか、大黒蛟は木の根が張り巡らされているはずの地面を容易く突き破ってまず尾から姿を現した。そこからべきべきと音を立てて地面が裂け始めたのを見て、大黒蛟が地表へ這い出ようと身じろぎをしていることが分かった。頭はまだどこに在るか分からない。玄狐は地割れに沿って移動した。
黒炎の結界は五芒星を描く様に引かれ、それを避けるためか割れ目が星の中心へと向かって発生していた。玄狐の炎を嫌がっていると見ていい。炎が効かなければ対抗手段が限られるのでまずは一つの懸念が払拭されたと言えそうだ。
天里の声が聞こえて、イオシフとジーナも中心へ向かっていると伝えられた。彼らに敵の注意を引きつけてもらいつつ相手の体力を削っていく――まずは基本的なやり方で戦うしかない。それが上手くいくかは分からない。何しろ誰も大黒蛟との戦闘を経験したことがないのだ。数百年に一度姿を見せる災害級の化け物。天里ですら大黒蛟の詳しい生態を知らないのだった。
星の中心へ近付くと、隆起した地面から鋼鉄のような鱗に覆われた蛇の胴が見えた。鱗の一部が捻じれた棘のように開いてごりごりと地面を削っている。まるで掘削機だ。水生生物には必要のない能力ではないのか。水界の主は地上へ現れる時鱗の機能を変化させるようだ。滅茶苦茶だ。地形を変えるつもりか。
玄狐が身構えると体毛が逆立ち、身体が燃え盛り始めた。火の粉が舞い上がって頭上に巨大な火球を形成していく。それは咆哮と共に放たれ、大蛇の身体に直撃した。蛇は鱗を焦がしながら身体を波打たせたが、しばらくすると再び前進を始めた。胴を攻撃しても大したダメージは与えられないようだ。その太さからして全長は数キロメートルにも及ぶかもしれない。討伐するには確実に心臓を潰す必要があるが、まずは頭を叩きたい。弱らせてから心臓を探した方が良いだろう。伝承によると大黒蛟は、ある程度自在に心臓の位置を移動させることができるらしい。出鱈目な身体の構造だ。せめて腹を晒してくれればこの顎で噛み付いて喰い千切ってやるのに。
しかし初手で範囲を狭められたのは良かった。水樹沢全域を動き回られたのではまともな狩りにならない。まずはイオシフたちと合流しよう。そう思って先を急ごうとした時だった。
「!」
真横から進撃してくるものがあった。限界まで開かれた深淵のような喉に凶悪な牙、暗赤色の舌。体高三メートルの玄狐を余裕で丸呑みできる長大な口が迫って、反射的に前方へ跳んで回避する。しかし着地した際に激痛が走った。小型の蛟が玄狐の身体に絡み付き、返しの付いた棘が突き刺さっていた。蛟は玄狐の炎に焼かれながらも決して離れようとはしなかった。通り過ぎた大黒蛟の頭が再びこちらへ向く。首を縮めて飛び掛かる体勢を取った時、茂みから灰褐色の影が飛び出してきた。影は大蛇の頭に向かって跳んだ。目玉に噛みつかれた大蛇は堪らず頭を激しく左右に振った。影は空中で身を翻して堂々と着地する。灰褐色の大狼、イオシフだ。
イオシフに続いて彼よりやや小柄な狼、ジーナも駆けつけた。二頭が勇ましく吠えた後、大蛇の喉元へ噛みつこうと身を低くした時、大黒蛟の頭は後退して再び幽暗の樹海へと沈んでいった。
なんて奴だ。地中から回り込みおった。
天里が忌々しそうに声を低くして独りごちた。大蛇の頭が何の前触れもなく現れたのは、水界と呼ばれる神域の一種を通って移動してきたためだと天里は推測した。胴はごりごりと派手に地面を削って這い出してきているくせに、首から上は地中を泳ぐように移動するという。これではどこから襲い掛かってくるか分からない。
水界を観測することはできない。奴が出てきた瞬間に動きを止めるしかない。彦一、
天里の問いに玄狐は頷いた。そして左前脚に突き刺さったままの蛟の棘を咥えて引き抜いた。返しのせいで余計に広がった傷口から鮮血が吹き出したが、そこから蒸気のようなものが上がるとやがて傷口が塞がっていった。玄狐が身を低くして唸る。すると宙に粉塵が漂い始め、チリチリと音を立てて玄狐の周囲に広がっていった。イオシフとジーナが玄狐から距離を取る。獣たちは息を潜め、辺りには雨が地面を打ち付ける単調な音だけが響いていた。
後方から異音がした。地の底深くを驀進していくような重たい音だった。玄狐が振り返るより早く大蛇の頭が地面から飛び出し、そして――
轟然と音を立てて大気が爆発した。爆風が枝葉を散らし灼熱に煽られた雨が水蒸気となって辺りに立ち込める。至近距離で爆発に見舞われた大蛇は仰け反って身を震わせ、地面にその頭を叩きつけた。その隙を見逃さず、イオシフとジーナが大蛇の喉元へ食らいついた。鋭い牙が食い込みどす黒い血が滴り落ちる。背は硬質な鱗に覆われているが、内側は攻撃が通る。このまま畳み掛けて制圧してしまおうと玄狐が地面を蹴った時、大蛇の身体が突然青白く発光した。
ギャウという叫び声と共に二頭の大狼の身体が浮かび上がった。突如発生した球状の水塊に捕らえられその中でもがき苦しんでいる。自力では出られそうにない。瞬く間に空へ上がっていく水塊に玄狐は跳びついた。水が弾けて二頭の大狼が落下する。地面に身を打ち付ける前に身体で受け止め、狼たちは玄狐の背からずるりと滑り落ちていった。二頭とも激しく咳き込んではいるが無事なようだ。彼らは濡れそぼった身体を震わせ水しぶきを散らした。
気が付くと周囲の地表から次々に水塊が発生していた。こちらを捕まえるべく好き放題乱発している。玄狐らはそれを避けることに専念しなければならなかった。これでは近付けない。
大黒蛟が首をもたげた。爆風で爛れた頭を力なく揺らしている。水界へ戻る気だ。逃がしてはならない。時間を稼がれ、体力を回復されたら埒が明かない。この大雨の中で長期戦に持ち込まれてはこちらが圧倒的に不利だ。
沈んでいく大黒蛟の頭に玄狐が火炎を放とうとした時だった。大蛇の周辺の水たまりが急激に乾き始めた。大雨が地面を打つと同時に吸い込まれていく。無作為に発生していた水塊も地面に引き摺り込まれる様に吸収されていく。恐らく天里の力だ。
玄狐は駆け出した。イオシフとジーナもそれに続く。大地に圧迫され身動きが取れなくなっている大蛇の首に食らいつき地面から引っ張り出す。二頭の大狼が大蛇を仰向けにさせ抑え込んだ。玄狐がその腹を鋭い鉤爪で引き裂く。赤黒く粘ついた血が勢いよく吹き出して玄狐の鼻を濡らした。心臓はどこだ。首の近くにはないのか。隠していると言うのならこの
彦一右だ! もう一体いる!
天里の叫び声が聞こえた時にはもう、大蛇の凶悪な牙が己の腹に食い込んでいた。
もう一体の大黒蛟は玄狐を咥えたまま、彼を地中へと連れ去った。だがそこは土の中ではなかった。温く不快な液体が纏わりついてきて玄狐は息を止めた。暗く、底のない、永遠の水の領域。ここはきっと水界だ。彼らの縄張り。沈めて溺死させる気だろう。
臓腑を喰い破られて大量の血液が水中に滲み出した。抵抗しようにも身体をがっちりと抑えられていて抜け出せない。それに、玄狐の炎が発現しなかった。水界を満たすこの液体は通常の水ではないようだ。これでは相手の思うがままだ。何か、反撃の手段を考えろ。息苦しさと腹の痛みで遠のく意識を必死に繋ぎながら、玄狐は水中でもがいた。しかしその抵抗も虚しく、やがて視界の隅から黒い染みが浸食し始めた時――
頭の奥底で、何かが切れる音がした。
――二体目だと? いい加減にしてくれ――
身体の深い場所から湧き上がってくるものがあった。玄狐は牙を剥き出しにして激昂した。
一体どれだけの魂力を溜め込んだら二体もの化け物が出来上がると言うんだ。こんなのは自然発生的ではない。故意に引き起こされている事態だ。敵の目的はなんだ。木蘇に何の恨みがある。
全身の毛が膨れ上がった。思考が暗い感情に支配されていった。全部、全部終わらせて俺は帰るんだ。待ってくれている人の所へ、あの娘の元へ。俺の行く手を遮るものはなんであろうと許さない。全部殺してやる。
全ての音が消え去った世界で、真っ白な光が一際強く輝いた。それはまるで星が新しく生まれた時のような、無垢な光だった。
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