④-6

「きょんちゃんこれっ、バスタオル! うちから持ってきたから使って!」

「ありがとうございます矢野さんっ、他のタオルが玄関に置いてあるので一緒にしてもらってもいいですかっ?」

「きょんちゃんストーブどこにあるかやあ? 防災倉庫になかったんだがばあちゃんたちが寒がってるから出してやりてえんだよ」

「防災倉庫にはないんです、事務室の隣の物置にあったと思うので見てきてもらえますか? ……あ! そこに段ボール置かないで! 入り口の近くは広くしておきたいんです。車いすの人が来るから!」

 奥社参集殿を避難場所として解放してから一時間程が過ぎ、円窟神社がある奥木蘇地区の住民たちが続々と集まってきていた。十年近く前に工事関係車両が通るための道を開通させ参集殿を増築して以降車でも奥社へ行くことが可能になったため、今も住民同士乗り合わせて車で避難をしてきているのだった。隣組同士連絡を取り合い、安否の確認を進めている。それに、近所の飲食店店主が十人乗りのワンボックスカーで足のない人たちを迎えに行ってくれている。皆で協力して、危機を乗り越えようと奮起していた。どうか誰一人欠けることなくこの大雨が止みますようにと、何かに祈らずにはいられなかった。

 毛布を抱えながら廊下を走る。窓から外の様子を確認しようとしても何も捉えられなかった。まだ昼間だと言うのに外は暗く、打ち付ける雨のせいで尚更視界が悪い。これではまるで滝の中だ。天の底が抜けたかのように激しく叩き付ける雨粒が、建物ごと自分たちを圧し潰してしまうのではないかと嫌な想像をした。

「なあ! うちのかあちゃん知らねえかい⁉ 十五区の公民館にいねえんだよ!」

 避難開始からしばらく経ちようやく人の波が落ち着いてきた頃、五十代くらいの男が雪崩れ込むように玄関に飛び込んできた。男は近くにいた知り合いの肩に掴みかかりながら非情な剣幕で訴える。

「俺の嫁さん、連絡取れねえんだ、ちっと前に電話したときにゃ公民館に避難するって言ってたんに、公民館にいねえんだよ、家にもいねえし、でも車はねえから外にはいるはずなんだ、俺ぁ仕事でこっちいたから朝から顔合わせてねえんだよ、誰か、誰かかあちゃんを見たって奴は……」

「ひっちゃんかいっ? わりぃが俺も見てねえな……おーい! 誰か唐沢さんとこの日登江ひとえさん見た奴ぁいるか⁉」

「かあちゃん! いねえのか! ……あーもう、ケータイも繋がりゃしねえしなにやってんだよあいつは……!」

 悪態を吐きながらも、男の声が震えていた。本来は健康的に焼けた厚そうな肌が、血の気が引いて真っ青になっていた。

 連絡が取れないという唐沢日登江さんは町内会女性部の部長さんだ。朗らかな性格で面倒見が良く、潔乃も八月の例祭の時には非常に世話になった。あの元気でしっかり者の日登江さんが突然いなくなるなんてあり得ない。絶対にどこかへ避難しているはずだ。何かできることはないか、潔乃は考えを巡らせた。すると、騒ぎを聞きつけた中年の女性数名が駆けつけ、その中の一人が口を開いた。

「日登江さん公民館にいないのっ? 一時間ちょっと前に白樺平の……なんて言ったっけ、日登江さんと切り絵教室に行ってる」

「フミさん?」

「そう、フミさん! フミさん迎えに行くって、あたし電話した時にそう言ってたよ! 誰かフミさんに連絡取れる人いないっ?」

「私フミさんの家電知っとるよ! 電話してみるわ!」

 そう言うと中年女性は自分のスマートフォンをポシェットから取り出し、急いで電話を掛けた。いつの間にか皆の注目が集まっていたその場が静まり返り、多くの避難者たちが固唾を呑んで事の成り行きを見守っていた。

 しばらく電話を耳に当てていた女性が不意に首を横に振り「呼び出し音が鳴らない……」と沈痛な面持ちで呟いた。呼び出し音が鳴らないということは、停電か、電話線が切れたか、もしくはもっと緊急の事態に陥っているか――そんな最悪の想像がその場を凍り付かせ、誰もが表情を硬くして押し黙った。そこへ、沈み切った空気を破るように、潔乃の声が凛と響いた。

「私が探しに行きます」

 多くの視線が一斉に降り注いだ。それに怯むことなく、潔乃は周囲を見渡して力強い眼差しを返した。


 車軸を流すような豪雨が身を貫かんばかりに打ち付け、合羽を着ているにも拘わらず底冷えするような寒さに襲われる。まだ九月の中旬だと言うのに異様な気温の低さだ。厚い雨雲が太陽を覆い隠し一筋の光も通さない。まるで世界が水の中に沈んでしまったような、このまま不可逆的に終わりへと向かっていくような、そんな救いのなさを感じてしまう。

「孝二郎さん、無理言ってごめんなさい。でもこんなこと、孝二郎さんにしか頼めなくて……」

「んにゃ、気にすんなって。伊澄ちゃんの判断は正しいよ。今白樺平に近付くのは危ないからさ」

 潔乃は孝二郎の車に乗って白樺平のフミさん――谷口フミという老女の自宅へ向かっていた。以前日登江と話す機会があった時、フミの話題が出たことがあった。白樺平別荘地の閉店したカフェの隣に一人で住んでいる、切り絵の上手な九十歳のおばあちゃん。それが潔乃が教えてもらったフミの情報の全てだ。

 日登江とフミを探しに行くと宣言した時、当然に日登江の夫も一緒に行くと言って聞かなかった。しかし白樺平は今、〝楔石〟と呼ばれる結界生成に必要な道具が設置されている。楔石で囲まれた領域が結界として作用するため、大捕り物がある時は必ずそれらを使って狩場を作っているそうだ。故に、一般人が近付いて良い場所ではない。他の場所を探すよう日登江の夫を説得して、潔乃は孝二郎と二人で避難所を出発した。孝二郎の車は高い走破力を持つオフロード車なのでぬかるみや急勾配などの悪路でも走行が可能だ。白樺平は高台にあり狭い上り坂を登っていかなくてはならないため、あちこちの沢が氾濫し道路が川のようになっている今の状況では、彼の車が頼りだった。

 濁水に押し流されていく木々や何かしらの人工物の残骸を見つめながら逸る気持ちを抑えていると、孝二郎が普段通りの軽やかな口調で声を掛けてきた。

「伊澄ちゃん」

「はい?」

「怖い?」

「えっ……」

「怖いに決まってるよな、得体の知れないバケモンがこの雨を降らせてるなんて知ってたら、余計に」

「……」

 返答ができなかった。場違いなくらい穏やかな孝二郎の語り口に、「怖くない」なんて嘘を吐くことが、できなかった。もし、もし本当に強大な化け物が自分の心臓を狙っているのだとしたら。「おびき寄せる罠だったら」という彦一の言葉が頭から離れない。でも――そうだとしたら、自分には果たせるがあるはずだ。

(却って迷惑をかけるだけかも……でも……)

 自分のせいで災害が引き起こされたのだとしたら、木蘇の人々に合わせる顔がない。自分だけ安全圏で黙ってやり過ごすなんてできない。自己満足で自分勝手な願いだと分かっている。……それでも、何か一つだけでも、成し遂げたかった。

「そんなに暗い顔するなって。伊澄ちゃんのせいじゃないよ」

「……」

「大丈夫、きっと彦一達が何とかしてくれる。俺らは俺らでできることをやって、あいつらを笑って出迎えてやろうぜ。だからさ、前向きに行こう。伊澄ちゃん泣かせたら俺が彦一に怒られちまう」

「へ?」

 最後の一言が予想外で、思わず気の抜けた返事をしてしまう。孝二郎はこちらを見つめてニコっと笑い、すぐに前に向き直った。潔乃は顔を上げて、そこで初めて自分が俯いていたことに気付いた。

 孝二郎の気遣いに胸中で感謝する。いつも上機嫌で楽しそうにしているのは、生来の明るさもあるだろうが、きっと周りの人間に余計な気を遣わせないためだ。物凄く大人なのだこの人は。こんな時に頼れる大人が一緒にいてくれることが、何よりもありがたかった。

「げっ。マジか」

 苦々しい孝二郎の呟きと共に車が速度を落とし、やがて停止した。孝二郎が前を注視して眉をひそめている。口元には薄っすらと笑みが浮かんでいるものの、困惑している様子が見て取れる。潔乃も同じように、ライトが照らす先を見据えた。

 倒木だった。法面が崩れ、根を剥き出しにした木が道路を塞ぐように倒れていた。貯えきれない雨水が崩れ落ちた斜面から溢れ、小川を作り出している。これでは先に進めない。

「あー……あと少しなのにな。ここら辺って迂回路あったっけ?」

「調べてみます!」

 スマートフォンを取り出し地図を検索しようとするが上手くインターネットに繋がらない。潔乃は焦りつつも持ってきていた紙の地図を広げた。孝二郎と一緒に地図を覗き込む。

 すると、背後から車の走行音が聞こえてきて、ヘッドライトが潔乃たちを眩しく照らした。赤い警光灯がルーフに取り付けられた大型の警報車だった。警報車が孝二郎の車の運転席側に横付けすると、助手席の男が窓を開けてこちらに呼び掛けてきた。

「奥木蘇ダムの者です‼ どうかされましたかっ⁉」

 雨の轟音に負けじと声を張り上げる。孝二郎も窓を開けてそれに答えた。

「この先に逃げ遅れた人がいる可能性があります! 私たちはその方々を探しに来ました!」

「そうでしたか……ですがこの先は危険です! 我々が代わりに探しに行きましょう! お知り合いの方はご自宅ですか? 場所を教えてください!」

 聞けば、男たちは白樺平のさらに奥に建設された奥木蘇ダムの職員であり、異常洪水時の防災操作の関係で下流警報局の巡視を行った、その帰りだそうだ。これからダムに戻るため、日登江たちを拾い上げてダム管理所に隣接する防災館へ送り届けてくれるとの申し出があった。潔乃は職員たちの提案を受け、彼らの車へ乗り込むために急いで合羽を着直した。

「ちょっ伊澄ちゃんっ?」

「私が道案内します。孝二郎さんはこのまま参王橋さんのうばし方面に坂を下りてください。日登江さんの旦那さんから、もし谷口さんの家に二人ともいなかったら参王堂を探してほしいって言われてるんです。参王橋は分かりますか? その近くにお堂へ上がる階段があります。孝二郎さんにはそこを探してきてもらいたいんです」

「それなら谷口さんとこはこの人らに任せて伊澄ちゃんも一緒に」

「案内した方が早いし確実です。それに二手に別れた方が効率もいいはずです。時間がない……早く……早くしなきゃ。お願い孝二郎さん」

 気迫のこもった眼差しで孝二郎を見つめる。孝二郎も真剣な表情でしばらく熟考し、徐に口を開いた。

「……分かった。じゃあ、これ持ってって」

 そう言いながら、作業服の内側のポケットを探り始め、何かを取り出した。木製の小刀だった。孝二郎は左手の人差し指と中指以外の指を折り、二本の指を口元に当てると不明瞭な、潔乃にはよく聞き取れない言葉を発した。それから、小刀の刃に当たる部分を二本指でなぞる。すると指が触れた部分から、銀白色の光が宿り始めた。

「俺の守り刀なんだ。護身術の一つでさ。俺も十代の頃はそこそこ苦労したから」

「そ、そんな大切なもの、受け取れません」

「いやいや、俺は大丈夫だからさ。伊澄ちゃんに持っててほしい」

「でも……」

「危険な場所に行くんだろ? 伊澄ちゃんを守れるようまじない掛けておいた。これでちょっとは安心できるといいな。気休め程度にしかならないかもだけど」

 孝二郎に手を取られて強引に小刀を渡された。潔乃は両手でそれを丁寧に包み、合羽の内ポケットに大事にしまった。

「……ありがとうございますっ。孝二郎さんも気を付けて。また後で、合流しましょう」

「ああ、また、必ず」

 手をひらひらとさせて笑顔で見送る孝二郎に頷き答えて、潔乃は呑まれるような暗闇が広がる車外へと飛び出した。

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