④-3

 諏波大社は県内で最も社格の高い県唯一の一宮である。全国に一万社ある諏波神社の総本社で、七年に一度斎行される式年造営御柱大祭しきねんぞうえいみはしらたいさい――通称「御柱祭おんばしらさい」が特に知られている。古来諏波信仰においては諏波大社上社本宮には龍宮に通じる神秘の泉があると信じられており、そこは天下を乱し悩ませていた荒神を退治して世に泰平をもたらした大明神様が顕現する場所だとされている。しかし伝承はあくまで伝承で、正確な記録などは残っておらず実際に在るとしても当然に秘匿された聖域と言える。そんな、古代信仰の神秘の結晶みたいな場所を、潔乃は訪れていた。

(どう考えても場違いだよ……!)

 完全に委縮しきった状態でなんとか立ち続けている。潔乃の背後には諏波大社の代表である大宮司、以下上社下社の神官総代が居並び、表情をぴくりとも崩さず恭しく頭を垂れている。さらにその後ろに孝二郎と彦一も待機しており、孝二郎は衣冠単いかんひとえという神職の正装の姿、彦一は上下黒の着物と袴に白地に銀色の意匠を凝らした羽織を重ねて着ている。二人とも静かに目を閉じて宮司たちと同じく礼をしていた。

 そして目の前では――泉の縁に設けられた神籬ひもろぎと呼ばれる神の依り代の向こうでは――月白色の巨大な龍が水面から頭だけを出して、こちらを見下ろしていた。宮司たちが「お穴」と呼ぶこの泉は地下空間にあるため暗く、壁に取り付けられた松明がなければ何も見通せないほどだ。その微かな灯りに照らされ浮かび上がった神龍の姿は、潔乃が十七年の人生で知れたどんな生き物の姿とも違って、奇態だった。瞳は血のように赤黒く瞳孔は縦に長い。白く長い髭は風が吹いているわけでもないのにゆらゆらとしなやかに揺れ、反対に、頭のてっぺんから突き出た二本の角や後ろ首と背に生えたたてがみは硬質な印象を受ける。そして体表を覆う鱗はぬめり気を帯びていて、角度によっては虹色に輝いて見えた。

「――――!」

 神龍――諏波の大明神が咆哮すると、空気が大きく震え、洞の中は神の息吹で満たされた。潔乃は蛇に睨まれた蛙のように、自分を捉える深い赤の瞳から目を離すことができなかった。


「まだ心臓がドキドキしてる気がする……」

「そんなに?」

「うん、思い出しただけで変な汗かいちゃうよ」

 九月中旬の三連休最終日、昼前の時間帯。勉強を教えてほしいと潔乃から頼まれ、近所の公民館にある学習室で教科書とノートを広げていた。明日から始まる中間考査に向けての最後の悪あがきとのことだ。松元高校の大抵の生徒は言われなくても自主的に勉強するので教師も指導が楽だろうなと思う。進学校ではあるが大らかな校風で、典型的な堅物優等生といった生徒が意外に少ない。卒業生である孝二郎は推測するに不真面目側の生徒だったろうが、なるほど自由にしていられたのも納得がいく。周りから浮いているんじゃないかと当時は心配していたのだが。

 公民館は数年前に改装されたため新しく清潔な雰囲気で、二階建てのこじんまりとした建物ではあるものの、一階にはパン屋とイートイン、ちょっとした展示ホールがあり、二階は学習室兼フリースペースになっていて、住民の憩いの場として親しまれている。しかし今日は朝からずっと雨が降っているので、数組の若い親子が一階で談笑しているだけだ。二階には彦一と潔乃の二人しかいない。そんな緩やかな空気では集中力を保てないのか、一時間もするとぽつりぽつりと雑談が交じるようになった。

「私みたいな一般人が顔合わせちゃって本当に良かったのかなあ。龍神様私のこと睨んでなかった……?」

「そんなことはないと思う。むしろ機嫌良かったみたいだけど、大明神」

「あの迫力の神様に機嫌良いとかあるんだ……」

「うん。案外気さくだって天里から聞いた。あの時尾ひれ振ってたから諏波湖に荒波が立ったらしい。雨風のせいで遊覧船が航行してなくて良かったって宮司も言ってた」

「えぇ……」

 潔乃が頬を引き攣らせて苦笑を浮かべた。彼女にしては珍しく覇気がない。一昨日諏波大社を訪れてからどうにも夢うつつで何にも身が入らないらしい。「テストどうしよー……」と弱々しい声を漏らして潔乃は机に突っ伏した。

 諏波の大明神は地主神じぬしがみの中でもとりわけ格が高く、十月に出雲いづもに召集される神々の内の一柱である。しかし、飛び抜けて大きな体躯を持つ大明神は、その頭が既に出雲に達しているのに尾はまだ諏波湖にあるほどで、それ故他の神々に気を遣われて集まりを免除されたという逸話がある。それが原因なのかは分からないが、多くの信仰を集める高名な大明神様は、実は寂しがりらしい。

 木蘇にも縁があって友好的な関係を築いている。龍麟岳の名前の由来は「積もった雪の表面にできた風紋が龍の鱗のように見えるから」であり、古くから龍麟岳は龍の棲み処とされている。その龍が諏波の大明神と同一視されることも多く、水神である大明神と山神である天里との相性も良いため、今回の拝謁も快く許可してくれたようだ。

 そんな親交の深い龍神からあの時、〝黒い蛇に気を付けなさい〟という忠告を受けた。それを天里に報告すると彼女は考え込むような厳しい表情を作って、台風の間は大人しくしていろとごく当たり前の指示を出した。言われずとも静かにしているつもりだ。今日も雨足が本格的に強まる前に切り上げるよう潔乃には伝えてある。

「……そう言えば、彦一君が着てた服って、正装なの? すごく綺麗な羽織だったね」

「いや、特に決まってはいない。用意されたものを着ただけ」

 潔乃が身体を起こして一昨日の話を続けるので質問に答える。勉強を再開する気はないらしい。

 玄狐に正装というのもおかしな話だ。神によっては戦の装束などが決まっているようだが玄狐にはそれがない。神事で祀られるような神ではないからだ。玄狐――天比熾神は火之迦具土神ひのかぐつちのかみの血から生み出された火の戦士たちの眷属であり、本来は神格を具えていない。長い時を経て、土着の信仰により玄狐=火の神と認識されるようになっただけだ。本当だったら人々に恐れられて、対立して、争いを引き起こすような、そんな――

 ふと気が付くと、潔乃が不自然に落ち着かない様子でこちらを見ていた。ちらちらと視線を合わせたり外したりして様子を窺ってくる。それに、何故だか頬を薄っすらと赤く染めている。……なんだ?

 潔乃が意を決したように口を開いた。

「着物も、袴も、羽織も、ぜんぶ似合ってた。……えっと、その、すごく――」

 小声で呟いたその言葉は、頭の中に響いた声に搔き消されてしまった。


 彦一聞こえるか? 緊急事態だ。何者かがミズチを呼び起こした。これで決まりだ。やはり敵対者がいる。

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