(19)“世界三大聖地”フェティエでパラグライディング

 巨大な凧のような機体に乗って、自由に空を飛ぶアクティビティ、パラグライディング。

 世界にはパラグライディングの“聖地”と呼べる場所がいくつかあり


 スイスのインターラーケン

 ネパールのポカラ

 そしてトルコのフェティエ


 この3つの都市が特に有名なのだという。言ってしまえば『パラグライディングの三大聖地』だろうか。


 ところが、Googleで「パラグライディング 三大聖地」と日本語で検索してもそれらしきものはヒットしない。私がこのことを知ったのは、トルコの港町カシュのドミトリーで一緒の部屋になった韓国人のジュン君に教えてもらったからだ。

 ジュン君はパイロットの養成学校を卒業し、就職までの休暇で世界を回っていた。パラグライディングについて詳しいのも、空を飛ぶことへの興味があってのことだろう。私が彼の情報を信用したのも、そうした背景があってのことだった。



      *  *  *



 私はカシュのゲストハウスを引き払い、バスでフェティエに向かうことにした。

 荷物をまとめると、テラスで朝食をとっていたジュン君に別れを告げる。私が「君が操縦する飛行機に乗ることを楽しみにしているよ」と伝えると、彼は恥ずかしそうにはにかんで「ありがとう」と答えた。


 私が興味のなかったパラグライディングに挑戦してみようと思ったのも、ジュン君にフェティエのことを教えてもらったからである。そういった意味では、彼は旅の水先案内人になってくれたのだ。


 バスは10時にカシュを出発し、地中海沿いの道を走っていく。フェティエのバスターミナルに着いたのは12時過ぎだった。ここから乗り合いバスに乗って、10分ほどで市街地に入る。


 初めて訪れた街では大体いつも安宿探しに難航するのだが、フェティエではすぐにゲストハウスの看板を発見し一泊250リラ(約2000円)のドミトリーの部屋にありつくことができた。


 しかも素晴らしいことに、宿の近くに安くてうまい食堂があった。おかずが一品にライスとスープを付けて30リラ(約240円)とお手頃な値段だ。私は大変満足し、この食堂に毎日通うことを決めた。


 宿から少し歩くと、海に出る。パラグライディングを抜きにしても、フェティエは過ごしやすい街だった。


 宿のオーナーにおすすめのパラグライディング会社を尋ねると「『SKY INFINITY』がこの辺りでは最大手だよ」と教えてもらった。


 『SKY INFINITY』


 日本語に訳すと「無限飛行社」と言ったところだろうか。その仰々しい名前に若干の違和感を覚えたが、せっかくなので話を聞いてみることにした。


 教えてもらった番号に電話をかけると、「そちらのホテルに向かう」とのことだった。直接来られると、思っていたような値段帯ではなかった時に断りづらいのだが、腹をくくって了承した。


 20分ほどして、中年の男性がバイクでゲストハウスの前にやってくる。男性の説明によると「パラグライディングの料金は125ドル。撮影した写真のデータの受け取りに別途25ドルほどかかる」とのことだった。


 ——合計で150ドルか……


 この時の1ドルが大体150円なので、日本円にして22500円の大出費である。

 痛い。あまりにも痛すぎる。


 しかし、このままパラグライディングをせずにフェティエを去るというのは考えられなかった。普段ケチっている分、こういう時に思い切り金を使うというのも悪くないのかもしれない。


「OK。それでお願いするよ」


 私は血を吐く覚悟でパラグライディングを申し込んだ。

 この日にいくらかの現金をデポジットで渡し、残りを当日に支払ってほしいとのことだった。私は100リラ(約8000円)を現金で渡した。こういう時に相手が大手の会社だといくらか安心できる。個人業社だと「受け取っていない」と難癖を付けられ二重に支払う羽目になる場合もあるからだ。


 当日の朝に車で迎えに行くという約束を交わして、男性とは別れた。



 パラグライディング当日。


 朝10時に迎えにくるとのだったので支度をしていたのだが、車は9時45分に宿の前に来た。私は慌てて身支度を終えて車に乗る。

 別のホテルで女性2人を拾うと、車は20分ほど走って隣町のオルデニズに入った。ここに『SKY INFINITY』の事務所があるのだという。受付で残りの代金の支払いを済ませると、空いた時間で周囲を散策する。オルデニズは小さなビーチリゾートだった。砂浜は海水浴を楽しむ観光客で溢れている。


 『SKY INFINITY』に戻ると、ちょうどパラグライディングのレクチャーが始まるところだった。女性が前に立ち、映像を交えて離陸時の注意点などを教えてくれる。


 レクチャーが終わると、参加者たちはマイクロバスに乗り込んだ。ここからフライトポイントがある山の上に向かう。

 バスは急な山道を登っていく。私はトルコに滞在中に散々バスに乗って三半規管が鍛えられていたのでなんともなかったが、かなりグネグネした道を走って車体も揺れたので、心配な人はバスに乗る前に酔い止めを飲んでいた方がいいかもしれないと思った。


「さぁ、着いたぞ。ここは標高2000mだ」


 運転手が今立っている場所の高さを教えてくれる。バスを降りると、ちょっとした肌寒さを感じた。確かにこれは山の寒さだ。

 少し待っていると、担当のパイロットに名前を呼ばれた。私の担当になったのは、エムレさんという男性だった。

 エムレさんはパイロット歴9年。シーズン中は1日5回、毎日飛行しているという。


「『るろうに剣心』は好きかい? 私は大好きなんだ。ヒムラバットーサイ。サトウタケルはいい役者だ」


 エムレさんは“るろ剣”好きだった。佐藤健、ということは実写版の映画を観たのだろう。私も『るろうに剣心』なら漫画を全巻読んだし、映画も観た。


「もちろん。マコト・シシオは最高の悪役だ」


 そう話すと、エムレさんは喜んでいた。ちなみに「悪役」の英訳がわからず、アメコミ映画で見かける「villan」という言葉を使ったのだが、うまく伝わっていたかわからない。


 フライトポイントには大勢のパイロットと参加者が集まっていた。順番待ちはなく、準備ができ次第と次々と崖の上から飛び立っている。


 ——こんな場所から飛ぶのか。


 自分が今から標高2000mの高さから飛び降りようとしていることを実感し、そわそわしてきた。恐いというより、自分がどうなるのだろうという未知への不安だ。


 これまで、飛行機に乗る以外で“空を飛ぶ”という行為をしたことがなかった。

 生身で空に飛び立つのは、どのような感覚なのだろうか。

 というか、あんな凧みたいなもので本当に人間が飛べるのだろうか。


 ポケットの荷物などをエムレさんに預け、パラグライダーに乗る。乗るというよりは、特殊なスーツを装着する感じだ。

 エムレさんの準備も終わり、いよいよ飛び立つ時だ。補助員の男性に機体を引っ張られ、崖に向かって走っていく。


「テイクオフ!」


 補助員の合図で、地面を蹴る。

 体がふわっと浮き上がり、足元から地面が消えた。

 眼下には山の緑が生い茂り、視線の先には地中海が広がっている。そしてその上に私はいる。


 これが飛ぶという感覚か!


「イヤッホォォオオオオオウ!!」


 柄にもなく私は叫んだ。

 座席に座ると、体から浮遊感が消えた。空中散歩と表現するような安定感だ。

 パラグライダーはゆっくりと海に向かって飛んでいく。私はしばし空からの景色を楽しんだ。


「操縦してみるかい? 結構簡単なんだ」


 エムレさんはそう言って操縦桿のような取っ手を渡してくれた。

 左の取っ手を引くと機体は左に傾き、右の取っ手を引くと右に傾く。確かに慣れれば自由自在にパラグライダーを操ることができそうだ。


 ——たったこれだけの操作で空を自由に飛ぶことができるのか。


 私は右に左に機体を動かしながら、そんなことを思った。

 徐々に高度が下がり、海面が近づいていく。空中散歩もそろそろ終わりのようだ。


「このまま海に着水するぞ。準備はいいか?」


 エムレさんに言われ、私は慌てる。服はすぐに乾くからいいとして、首にかけたパスポートは濡れても大丈夫だっただろうか。


「ジョークだよ。ビーチの砂浜に着陸するから大丈夫」


 私の慌てっぷりが面白かったのか、エムレさんは笑っていた。


 ——なんだ、ジョークだったのか。


 しかし、このまま本当に海に飛び込んでもいいかもしれない。足元に広がる美しい地中海を見ていると、そんな思いがこみ上げてくる。

 そうしたら、どれだけ気持ちがいいだろうか——


 パラグライダーは無事、砂浜に着陸した。空気を受けていた布の翼が、しぼんで砂の上に落ちていく。およそ20分ほど離れていただけなのに、足元に地面があることに安心感を覚えた。


 空を見上げると、私の後に飛び立ったパラグライダーたちの色とりどりの翼が見える。

 ほんの少し前まで、自分は空を飛んでいたのだ。その事実がなんとなく信じがたいことのように思える。


 飛行中、エムレさんはGoProを使って写真を撮ってくれていた。写真を見て気に入ったら、有料でデータをもらうことができるという仕組みらしい。

 撮影代は会社を介さずに直接パイロットに渡す。彼らの貴重な収入源になっているらしい。25ドルはやや高いと感じていたが、感謝の意味も込めて私はエムレさんに金を渡した。


 エムレさんと別れた後、私はすぐに荷物を預けている『SKY INFINITY』の事務所には戻らずに、しばらくビーチを散歩していた。


 なんだか心がふわふわして落ち着かない。まだ空を飛んでいるかのようだ。

 飛行機での移動が当たり前となった時代。空を飛ぶという行為は身近なものとなっている。しかし、それでも生身で空に放り出される感覚はとても新鮮だった。


 いや、逆かもしれない。


 当たり前になってしまった空を飛ぶという行為が、本当は特別なものだったのだと思い出させてくれたと言った方が正しい。私にとってパラグライディングはそんな体験となった。

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