(16)リゾート地で寝込んだ話(前編)

 自分に備わった“力”は何かと問われたら、私は多分「回復力」だと答えるだろう。


 身体的な意味で言えば、昔から傷の治りも病気からの回復も早い方だった。メンタル的な意味でも、何か大きな失敗をして落ち込んでも次の日にはけろっと立ち直ってしまうのだ。


 この回復力を活かし、「失敗して傷つく→回復する→適応する」のスパンを高速で回すことで、割とどのような環境に放り込まれても順応できるのが私の強みと言えば強みだった。


 仕事をしている時は身体面よりもメンタル面で傷つくことが多いが、旅をしていると文字通り生傷が絶えなくなる。生傷だけで済めばいいが、時には環境の変化や疲労から体調を崩してしまうこともある。


 今回は長期旅行中に体調を崩した場合、私がいかにして回復するかの話をしようと思う。



      *  *  *



 私はトルコ中部の街エイルディルでの滞在を終えて、地中海沿いのアンタルヤという街を目指してバスに乗っていた。

 アンタルヤはトルコで最も有名なリゾート地だ。バカンスシーズンの8月である今は、欧米からの観光客でごった返していることだろう。


 人混みが苦手な私が、なぜ混雑が容易に予想できるリゾート地に向かおうとしているのか。深い理由はないのだが、ギョレメのドミトリーで同室だったフランス人が「アンタルヤは素晴らしい場所だった」と熱心に話していたのが引っかかっていたのかもしれない。


 エイルディルからアンタルヤまではそう離れていない。10時半に出発したバスは途中で休憩を挟んで13時半に到着するとのことだった。


 バスの中では、オランダから来たという妙齢の女性と話をした。娘がエイルディルで働いているので会いに来たのだという。どれくらいの期間旅をするのかと尋ねられたので「半年です」と答えると、女性は嬉しそうに笑った。


「私も若い頃は働いて旅をして、働いて旅をしてを繰り返していたのよ。一番長い時には2年間旅をしたわ。今はもう、長い旅はできないけれどね」


 私は女性の話を聞きながら、それもいいなと思った。この旅から帰ってから何をするのかは決まっていないが、一定期間働いて金を貯めて、また旅に出るのもいいかもしれない。ただ、その生き方をしていたらいつ旅から抜け出すのかわからなくなってしまいそうだ。


 娘がいるということは、この人もどこかのタイミングで旅を切り上げ家庭を築いたのだろう。人生と旅をどのように折り合い付けたのか知りたかったが、込み入った質問をするだけの語学力が私にはなかった。


 いや、そもそも折り合いなど付けていないのかもしれない。今もこうして旅に出ているのだから——



 バスはやや遅れて午後2時前にアンタルヤのバスターミナルに着いた。1時間前から尿意を我慢していた私はバスの扉が開いた瞬間に飛び出し、預けていたバックパックを拾うとトイレに駆け込んだ。


 トルコでは公共のトイレであっても、使用するのに金がかかることが多い。バスターミナルのトイレの使用量は3リラ(約24円)とやや高めだったが、膀胱が破裂寸前の私は迷わず支払った。たとえ10リラだったとしても、躊躇はなかっただろう。それ以上になったら屋外の茂みを探すかもしれないが。


 用を足して落ち着くと、街の中心部までの行き方を調べる。

 バスターミナルからアンタルヤの中心部までは約5キロの距離だ。トラムや地下鉄、バスと移動手段は豊富だったが、エイルディルでのんびり過ごして鈍った体を起こすために歩いていくことにした。


 異変を感じたのは、歩き始めて20分ほど経った時だった。


 体が妙に疲れている。歩き疲れた、とはまた違う。全身に怠さを感じる。日陰のベンチで少し休んでも、歩き出すとまたすぐに体が疲れて休みたくなった。


 ——なんか、体が変だな。


 違和感は感じていたが、この時はまだ「体が鈍っていて疲れやすくなっているのかな」ぐらいの認識しかなかった。


 ホテルを見つけてベッドに横になった時、自分が本格的に体調を崩していることに気がついた。一度横になると、体が怠くて起き上がる気になれない。ひたいに手を当ててみると、なんだか熱っぽいように感じた。


 間違いない、体調不良だ。


 しかし、一体なにがきっかけで体調を崩したのだろうか。

 水場で遊んだわけでもないし、クーラーが効きすぎている部屋で腹を出して寝たわけでもない。まさか、前日に食べたザリガニ料理が原因というわけでもないだろう。


 コロナウイルスに感染したのかとも考えた。トルコではすでに収束したものとして扱われているが、根絶した訳ではないだろう。しかし、2月に感染した時と症状は異なるのでおそらく違うと判断した。


 ——しかし、まいったナァ。


 異国の一人旅で体調を崩すと頼れる人がいない。よほどのことになればホテルのオーナーに助けを求めることもできるのだが、基本的には自分1人でなんとかするしかないのだ。


 日本から持参した薬は、腹を下した時のための『正露丸』のみ。となると自分の体の抵抗力だけで戦うしかない。


 病名が何であれ、体調を崩した時にする対応は以下の3つだと考えている。


・消化の良いものを食べる

・水を十分にとる

・温かくして寝る


 とにかくこの3つを守ってさえいれば、体は自然に回復する。少なくとも今までの人生ではそうだった。


 水は道中で購入していたが、食料は『ハリボー』のグミしかない。しかし、今から外に出て買い物に出る元気はない。フルーツ味のグミを食べて気を紛らわせると、しっかりと布団にくるまって横になった。


 夜になると、外からノリのいい音楽と騒ぐ声が聞こえてくる。おそらく、近くのクラブかバーでDJが流す音楽に合わせて観光客が盛り上がっているのだろう。

 自分にも騒ぐ元気があれば……と思ったが、万全な状態だったとしてもクラブで踊るようなことはしないなと考え直した。


 身体と一緒に心も弱っているのか、ひとりぼっちの寂しさが沁みた。なぜおれはこんな場所にたったひとりでいるのかと、旅の間考えたこともなかった疑問が熱っぽい頭の中に浮かんでくる。


 ——ああ、ちくしょう。本格的にまいってやがるな。


 私はわざとらしく大きなため息をついた。だが、返ってくるのは外のクラブの騒ぎ声だけである。その声も、やけに遠くから聞こえてくるようだ。

 しばらく真っ暗な部屋の天井をぼーっと眺めていたが、気がついたら眠りに落ちていた。

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