(8)サバサンドでサヨウナラ

 私は珍しく悩んでいた。

 この日の夕飯を何にしようか、という問題ではない。


 イスタンブールを去って次の街へ行くべきか否かという問題である。


 最初から日数が決まっている旅ならともかく、明日の予定も決まっていないような旅の場合、気に入った街を去るタイミングというのが見つけづらい。居心地がいいのならば、いつまでも滞在していればいいのだから。

 イスタンブールに来てから10日近くが経とうとしている。そろそろ次の街へ行きかねばという気持ちが芽生えてきたのだが、踏ん切りがつかない。どうしても未練が残ってしまうような気がする。


 ——どうしたもんだか……


 私はベッドの上でゴロゴロしながら考えていたが、ひとまずやり残したことを消化していこうという答えに至った。

 そうと決まれば話は早い。私はベッドから這い出て、イスタンブールの街へ飛び出していった。


 名所旧跡の宝庫とも言えるイスタンブールで、私がまだ訪れていない観光地は多い。その一つが地下宮殿だ。

 宮殿と名は付いているが、実際には東ローマ帝国時代に作られた巨大貯水池だ。地下空間に柱が並ぶ光景が宮殿を思わせるため、そう呼ばれているらしい。写真で見た限りでは、なかなか雰囲気のある場所だった。


 ところが、この地下宮殿もアヤソフィアに負けず劣らず入場待ちで長蛇の列ができている。時間を変えて何度か前を通りかかってみたが、うんざりするような人の混み具合は変わらなかった。

 そしてさらにうんざりすることに、地下宮殿周辺で立ち止まっていると決まって日本語で話しかけてくるトルコ人が寄ってくるのである。

 イスタンブール、特にスルタン・アフメト地区で日本語を話すトルコ人は絨毯屋か土産物屋の店主であることがほとんどだ。フレンドリーに接してきて自分の店に誘導する、というのが彼らのやり口である。

 私は早々に地下宮殿に入ることを諦めた。


 一歩目から挫折してしまった私は、地下宮殿のあるスルタン・アフメト地区を離れてガラタ橋周辺に戻ってきていた。


 次の“やり残したこと”はこの周辺にある。しかし、がっかりする結果が見えているようで手を出してこなかったのだ。

 イスタンブール名物のB級グルメ、サバサンドである。


 ガラタ橋に来たなら絶対外せないグルメとして定着しているのか、周辺のサバサンド屋はいつも観光客でごった返している。焼いたサバをパンで挟んだいたってシンプルな食べ物なのだが、なぜイスタンブール名物として親しまれるようになったのかは定かではない。

 私がサバサンドを敬遠してきたのは、食欲をそそられない見た目が理由の一つだ。港のレストランのメニューに載っていた写真を見たのだが、白パンにちょこっとサバがはみ出ているだけのあまりにもおいしくなさそうな写りをしていた。実物を見ても、その感想はあまり変わらなかった。


 もう一つの理由が値段だ。

 色々回ってみたところ、旧市街のエミノニュ側では45リラ(約350円)、新市街のカラキョイ側では40リラ(約320円)が相場のようだった。


 決して高価ではない。しかしドネル・ケバブが20リラちょいで買えることを考えると、どうも観光客の足元を見過ぎているようにしか思えないのだ。


 しかし、食べると決めたからには食べなくてはならない。

 もしも懸念の通りまずかったとしても、それはそれでいい土産話ができるだけだ。


 通りがかりにエミノニュ側の店を覗いてみると、いつも通りの盛況だった。店員の男たちは海に浮かべた船の上でサバを焼き、パンに挟んで次から次へと客に提供している。

 サバは鉄板で焼いているのだが、「本当にそれで中まで火が通っているのか?」と心配になるほど焼き時間が短い。押し寄せる観光客に対応するためなのだろうが、それで味が犠牲になっていては元も子もない。


 私はガラタ橋を渡ってカラキョイへ来た。こちら側では、船の上で焼くという“パフォーマンス”がない代わりに、いくらか安く買うことができるのだ。

 海沿いの店はどこもサバサンドをメニューに入れているのだが、やはり食欲が湧かない。


 ——きっとどこも同じ味なんだろうなあ。


 半分諦めの境地で適当な店に入ろうとした時、食欲を掻き立てる焼き魚の匂いがどこからか漂い鼻腔をくすぐった。


 私は入ろうとしたレストランからUターンし、匂いのする方へとふらふらと歩いていく。そこで見たのは、発泡スチロールで作った即席の台の上でサバを焼くおじいさんの姿だった。

 コンロの中でパチパチと爆ぜているのは炭火の火だ。おじいさんはサバに火が通ると慣れた手つきでトングを使って皮を剥がし、骨を早業で取り除いていく。


 私は確信した。


 ——あ、これ絶対うまいやつだ。


 値段は40リラ。カラキョイ側のサバサンドの相場通りである。

 私は50リラ札を渡して、お釣りを受け取った。


 私はすぐにでもかぶりつきたかったのだが、おじいさんはいい意味でたっぷりと時間をかけてくる。サバに香辛料を振ってタレを塗ると、もう一度炭火にかけた。サバが焼き上がると、野菜と一緒に薄焼パンに巻いて、その上から香辛料とタレを付けてさらに焼く。


 できあがったのはサバサンドというよりも“サバロール”と呼ぶべきものだったのだが、よほどこちらの方が食欲をそそられる。

 私は近くの売店でビールを購入すると、岸壁に腰掛けた。


 サバサンドにかぶりつくと、炭火で焼かれたサバのうまみと香辛料のピリッとした味が口の中で広がった。味の余韻が残っている間にビールを流し込む。


「あああ、たまらん!」


 私は思わず感激を口に出していた。

 本当にうまいものを食べたと心の底から実感するのは久しぶりだった。サバを焼いている段階でこれは間違いないと踏んでいたが、私の想定をはるかに超えてきた。

 もしも日本に帰った時に旅の食事で何が一番うまかったかと尋ねられたら、私はこのサバサンドを挙げるような気がする。それだけ圧倒的上位にランクインしてきたのだ。


 店によって味の差異は大きいだろうが、確かにガラタ橋に来たならサバサンドを食べるべきである。イスタンブール名物の看板に偽りはなかった。


 サバサンドを食べ終えた私は、上機嫌にガラタ橋を歩き出す。ふと顔を上げると、空が金色に輝いていた。雲の切れ間から光が漏れ、いわゆる“天使の梯子”が空にかかっている。


 その美しい光景を見た時、私は「今が去り時かもしれない」と思った。

 今ならば気持ちよくイスタンブールを後にすることができる、と。


「次の街に行くかあ」


 私は黄金の空を見上げながら呟いた。

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