(11)湖上のアブ・シンベル神殿

 私がラムセス2世の名前とともにアブ・シンベル神殿のことを初めて知ったのは、高校の英語の授業がきっかけだった。

 教科書にラムセス2世が自己紹介しながら自らの偉業を語る英文があり、「ラムセス・ザ・セカンド」という響きと、文章に添えられたアブ・シンベル神殿の写真が印象に残っていた。


 私がアブ・シンベル神殿前に到着したのは午後1時過ぎだった。9時にアスワンを出発してから、灼熱のバスに約4時間揺られていたことになる。

 本来ならばバスは街中のバスターミナルに停まるのだが、運転手の好意で私と同乗していたフランス人カップルは神殿の前まで連れてきてもらった。


 バスを降りると、強い日差しが真上から降り注いできた。昼過ぎは一日の中で最も暑くなる時間帯だ。スマホを見れば気温は42度を記録していた。おそらく自分が体験した中で、最も高い気温だろう。


 入場料は150ポンド(約1000円)。通常は300ポンドなのだが、オフシーズンで客が少ないため半額になっていると受付の男性は話していた。確かに真夏にエジプトを旅する酔狂はなかなかいないだろう。

 形だけの荷物検査を終えて中に入ると、眼下にはナセル湖が広がっていた。神殿一帯が湖の上に浮いているかのようだ。


 こんなにも湖と遺跡の距離が近いのには理由がある。

 1960年代にアスワン・ハイ・ダムの建設でアブ・シンベル神殿は水没の運命にあった。ダム建設はナイル川の氾濫による被害を抑えるためであり、過去の遺物よりも現代の人々の生活を守るための判断が下されたのだろう。

 しかし、ユネスコの呼びかけで世界中から援助が集まり、アブ・シンベル神殿そのものを高台に引っ越しさせることで保護に成功するのだ。

 この一連の保護活動をきっかけに、世界遺産という仕組みが誕生したという。


 神殿に向かう途中の道には湖の方向に向かって「Original Site of the Temple」つまり「神殿が本来あった場所」と書かれた看板が立っており、何もしなければ湖の底に沈んでいたのだと、改めて実感する。


 初めて見るアブ・シンベル神殿は、入り口に座る4体のラムセス2世像の圧に驚いた。左から見て2体目の像は破損してしまっているが、まさしく“巨人”がそこに座っていると思わせる迫力だった。


 しかし、より深く印象に残ったのは神殿内部に描かれた壁画だ。エジプトに来てから様々な場所で壁画を見てきたが、これほど精巧な絵を前にするのは初めてだった。

 戦車に乗って弓を引く様子や敵兵に剣を突き刺そうとするなど戦争を描いたものから、王に貢物を贈る民衆など、数千年も前に描かれたはずなのに何をモチーフにしているのかはっきりと分かる。


 複雑に入り組んだ回廊を進みながら壁画を鑑賞し、私は自分が古代エジプトの世界に入り込んだかのような気分を楽しんでいた。


 もしも神殿が湖の底に沈んでいたなら、私もこの素晴らしい壁画を目にすることはなかっただろう。

 古代に築かれたのちに砂に埋まり、長い時を経て学者や冒険家によって発見され、多くの人々の尽力により水没の危機も逃れ、今こうして当時の姿を見ることができている。


 その歩みに思いを馳せると、なんとなく「歴史」というものが朧げに見えてくるような気がした。

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