第1章-1 ひとりぼっちの夏休み

 窓の向こうの真っ青な空を、ひとかけらの雲が流れていく。

 居間に行けばクーラーだってあるんだけど、なんとなく動く気にならずに、僕は学習机にもたれて、なんとなくぼんやりと窓の外を眺めていた。


 今日もセミは賑やかに鳴き続けている。窓を閉めていても、その音はガラスや壁をすり抜けて伝わってくる。


 静かな部屋。ひとりぼっちの部屋。




 机の正面に置いた写真立てを、僕はぼんやりと手に取った。


 まだ鮮やかな――そう、まだ色褪せていない、写真と記憶。

 三年前の春休み、家族みんなでハイキングに行ったときの写真だ。家族全員が公園で揃って撮った写真。


 大きなライオンの像の前で、左端に照れくさそうなお父さん。右端ににこにこと笑うお母さん。その間で、ぴんと背筋を伸ばしてちょっとだけ格好を付けたつもりらしい僕。そして、お母さんの手を片手で握って、一歩踏み出して、意味もなく思いっきりピースをしている芽衣。




 お父さんが僕たちを残して旅立ったのは、二年前のことだった。


 離婚とかそういうのじゃない。むしろ、お父さんとお母さんはものすごく仲が良かったかと思う。一切喧嘩がなかったかどうかまでは知らないけど(むしろ、小さな喧嘩ぐらいはしてて当然な気がするけど)、取り敢えず僕の記憶の中で、二人が喧嘩していた記憶はない。


 ――人間というのは簡単に死ぬことを、初めて知らされたあの日。


 病気だった。僕には細かいことはよく分からないけど……職場から電話が掛かってきて、お母さんが僕と芽衣を連れて病院に駆けつけた時には、もうお父さんが僕たちに反応を見せることはなかった。

 お父さんの横にはモニターがあって、心臓に合わせてグラフが動いてぴこん、ぴこんと音を立てていた。ドラマとかでよく見るけど、ああ、本当にこういう機械があるんだなぁ、と思ったのを今でも覚えている。

 その日の晩、薄暗い待合室で僕と芽衣がうとうとしていて、お母さんに揺すり起こされた時には――グラフは、ただ一直線を描いていた。




 だから、芽衣の時は、僕は落ち着いていたのかもしれない。


 電話を受けて事故現場に駆けつけた時も、その後病院で「残念ですが……」とかドラマみたいにお医者さんが言うのを聞いた時も、お通夜の時もお葬式の時も、ついでに言うと骨を拾った時にだって、ほとんど泣かなかった。……あまりに突然なことの前では、悲しみなんかが湧いてくるより、ただ呆然とするだけだということを知った。今自分に起こっていることが現実だと分かっていなかった。


 初めて思いっきり泣いたのは、葬式が終わった数日後……遠い親戚の人たちや手伝いに来ていた近所の人たちもようやくみんな帰って、日常が戻ってきて……そして、一人っきりになった時だった。

 何のきっかけもなく不意に、涙が溢れてきて、止まらなくなった。




 写真立ての中で、お父さんもお母さんも僕も芽衣も、みんなにこにこと笑っている。


 でも、お父さんも芽衣も、もういない。




 そしてお母さんからも――いつしか、こんな笑顔は消えてしまった。


 工学系の研究所に勤めているお母さん。研究する仕事自体不規則になりがちだし、時には泊まりきりになることもあった。同じ研究所で知り合ったお父さんが亡くなってからは、それを忘れるように研究に打ち込んでいた。

 そしてそれは……芽衣が死んでから、さらに酷くなった。


 僕はたった一人で布団を敷いて、誰もいない部屋の電球に「おやすみ」を言う機会が増えていた。


 そして、朝になると誰もいない家で、一人でパンを焼いて、一人で学校へと出て行く。

 誰もいない家に向かって「行ってきます」を言って。


 お母さんが冷たい人じゃないのは分かってる。むしろ、僕と芽衣の二人を守るために、一生懸命に働いている。それは分かってる。でも、寂しくないなんて、そんな嘘は僕には言えない。


 うん、分かってる。今までだって、一人の時はいくらでもあったはずだった。芽衣が友達の家に遊びに行ったりして出かけていて、僕に予定がなければ、今までだっていつも一人で留守番していた。


 だけど、寂しいよ。


 もう、僕の妹は……芽衣は、二度と帰っては来ない。

 そう言い聞かせてみても、僕の気持ちが落ち着くことなんて無かった。


 もしかすると全て嘘で、今すぐにも「お兄ちゃんお兄ちゃんっ!」とか言いながら階段を駆け上がって来るんじゃないか、って気がして仕方がない。


 悲しいわけじゃなく、抜け殻のような、何もしたくない気持ちだけが僕を覆っていた。

 夏休みの宿題をしなきゃ、と思って、ドリルを開いて、何問か解いては、また閉じてぼんやりと考え込んでしまう、そんな日々。


 外に出ると太陽は大きく西に傾いている。クーラーのきいていた家の中へと、外のむっとした生ぬるい空気が流れ込んでくる。


 ――いつまでも、過去に拘っていてはいけない。

 そう言ったのは誰だったんだろう。それは僕だって分かっている。分かっているから、毎日行くようなことはやめようと心に決めていた。でも、結局は三日に一回ぐらいは足を運んでしまう。夏休みに入ってからは二日連続で行くことも珍しくはない。


 県道の外側にはガードレールは設置されているんだけど、カーブの電信柱の辺りだけガードレールが途切れている。本当は切れ目なく続いていたんだけど、事故で壊れたところだけが撤去されている。もう何事もなかったかのように見える中で、その切れ目だけが未だに直っていない。


 電信柱の付け根には、誰が置いてくれるのか、今でもよく花が供えられている。花屋さんで買ってきたらしき色鮮やかな花もあれば――いかにもその辺りで摘んできたかのように見えるのは、もしかすると芽衣の同級生なのかもしれない。


 神さまも仏さまも信じないけど――もしいるのなら芽衣がこんなことになるもんか――、でも今の僕には手を合わせるぐらいしか芽衣にできることはないから。


 背後をトラックが通って、僕は一瞬身をすくめた。

 あれ以来ずっと、トラックが来ると足が止まってしまう。


 大きく息を吐いてから、電信柱の前にしゃがみ込んで、目を閉じて両手を合わせる。


 目を閉じると今も、芽衣の声が聞こえるような気がする。お兄ちゃんお兄ちゃんっ、といつもと変わらない元気な口調で呼びかけてくるような気が。


「おにいちゃん!」


 ……そう、こんな感じで。


「おにいちゃん、ねぇ、和広お兄ちゃん!」


 ……あれ?

 目を開ける。いつも通りの電信柱に、僕の後ろから別の小さな影がかかっている。


「ただいまっ」


 おそるおそる後ろを振り向く。

 ちょっと広めのおでこに大きな目。明るい笑顔。

 そして頭の上で揺れる、両側でくくった髪の毛。


「……芽衣?」


 呆然と呟いた。


「お兄ちゃん、どうしたの?」


 目の前の女の子は、不思議そうに小首を傾げた。

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