ロシアによるウクライナ侵攻について

 2022年7月現在、ウクライナ情勢が混迷を極めている。同年2月に開始されたロシアによる軍事侵攻は当初予想されていた以上に長引き、戦争は泥沼化の様相を帯びてきた。戦場となっているウクライナ各地からは、連日ロシア兵による兵士、一般市民を問わぬ無差別の残虐行為が報じられる。この責めを負わねばならぬのが、今や独裁者となり果てたロシア大統領ウラジミール・プーチンであることは間違いないが、一連の報道を見るにつけ思い起こされるのは、ナチスドイツによるヨーロッパ侵攻である。この時も戦地では筆舌に尽くしがたい暴虐が繰り返された。戦後戦犯となったナチスの将校アイヒマンは、裁判の席でこう証言している。


「将校として自分の行ったことは全て軍の命令であり、自分はただ命令を遂行しただけだ」


と。アイヒマン裁判を取材したユダヤ人女性ハンナ・アーレントは「悪の汎用性」という言葉を用い、アイヒマンに起こった出来事はどんな人間にも起こり得ると述べ、ユダヤ社会から顰蹙を買った。

 現在ロシア兵が行っている蛮行は彼女の主張の正しさを証明しているかのように見えるが、この論にはどこか受け入れがたいものがある。たしかに、人間社会に起こる諸々の問題は善悪の二元論で片付けられるものではないし、時代と場所、時と場合により、社会や個人の価値観・道徳観は変わる。しかし、人間存在の根本の部分には、正しいこと、間違ったことはやはり存在するのではないだろうか。ユダヤ社会がアーレント女史に示した反感は、人間としてごく自然な反応であろう。世間一般、大人の社会においては、感情的になることをある種劣った反応とみなすきらいがあるが、感情こそがどんな社会にも通底する原理であり、時代と場所を超えた人間社会の普遍性はここから生まれるものだ。法律や論理が押しつける正義は、社会を円滑に機能させるための道具であり、絶対的に正しいこととは違う。だからこそ、人間には絶対的善としての神、もしくは、世の混沌を超越する道を示す何者かが必要なのだ。(宗教の名の下に人間は戦争を繰り返してきたが、これはまた別の問題である。)

 さて、西側諸国の目には暴挙と映るロシアによるウクライナ侵攻だが、プーチンにはプーチンなりの情勢判断と行動原理がある。諜報機関であるKGB出身の彼にとって、アメリカをはじめとする西側諸国は気を許すことの出来ぬ隣人なのだ。加えて、ソ連時代の大国意識を棄てきれないことが、国家拡大を志向する潜在意識となって燻り続けている。冷戦後ソ連から独立した国々に対しては、ロシアの属国という意識さえ持っているかも知れない。ロシアのGDPは現在世界十一位で、経済規模だけを見ると大国とは言いがたい。ロシアが大国たり得るのは、強大な軍事力を持っていることに加え、石油や天然ガスなどの天然資源が豊富だからである。さらに、人口に対して広大な穀倉地帯を有し、食料を自給できることも大きな優位点となっている。ロシアとヨーロッパ諸国は天然ガスのパイプラインで繋がっており、ウクライナ侵攻が始まった後も、ヨーロッパ諸国はロシアに対して経済制裁を課す一方で天然ガスの供給を受けている。当然金融機関の取引も続いており、制裁は十分な効果を発揮していない。これが、ウクライナとの戦争が長引く中、ロシアが強気でいられる理由の一つである。

 ロシアが冷戦終結後も旧ソ連時代と同じ大国意識を持ち続けているとしたら、NATOやEUの拡大を脅威とみなすのは無理からぬことだろう。プーチンの側から見れば、ウクライナやフィンランドのNATOへの加盟は旧西側諸国の勢力の拡大を意味し、これを許せばロシアとヨーロッパの間の緩衝地帯がなくなることになる。だからロシアはウクライナのNATO加盟に反対し、その動きを牽制してきた。

 ロシアによるクリミア半島併合を皮切りに両国が戦争状態に陥った背景にはこうした事情があるのだが、ウクライナの側から見れば、これは一方的な侵略である。1994年、ウクライナは旧ソ連時代から保有していた核兵器を放棄し、米・英・露の三国から自国の安全を保証するというお墨付きを得た。20年後、ロシアはこの約束を反故にし、米・英両国は事実上この事態を傍観している。他のヨーロッパ諸国も同様である。表向き、ロシアの侵略行為を非難し、経済制裁を加えたり、軍民両面においてウクライナへの支援を行ったりしているが、前面に立ってロシアと対峙しようという国はない。エネルギー政策においてロシアに依存していることもさることながら、プーチンが核のカードをちらつかせ始めたからだ。ロシアが実際に核兵器を使用した場合、これを看過すればロシアはますます増長する。しかし、報復措置としてロシアに核ミサイルを撃ち込む国はないだろう。となると、犠牲になるのはウクライナ一国であり、その受ける被害は現在とは比べものにならぬ程大きなものとなる。誰もがこのシナリオを思い描き、これが現実となることを恐れている。プーチンはそれを見越した上で侵略行為を続けているのだ。

 そんな中、ウクライナにゼレンスキー大統領という新たな指導者が現れ、事態は混迷の度合いを深めている。ナショナリズムを掲げ、人々の愛国心を煽るヒーローの登場に、西側諸国は実のところ困惑しているのではないだろうか。表向きはゼレンスキーを支持しつつ、早く戦争を終わらせたいというのが本音だろう。ゼレンスキーがいくら勇を鼓したところで、ウクライナ一国ではロシアには到底太刀打ちできない。これ以上事態が悪化する前に、この紛争はロシアとNATOの間で解決されるべきである。具体的に言えば、ロシア側はNATOの拡大を問題にしているわけだから、ウクライナをロシアとヨーロッパの間の緩衝地帯として残せばよい。地理上、もともと経済的な結びつきの強い地域なので、ウクライナがEUに加盟することについては、ロシア側にもそれほど大きな抵抗はないだろう。今まで通りウクライナを通じてヨーロッパ各国へ天然ガスを供給できれば、ロシアにとっても利のある話だ。その一方で、ウクライナをNATOに加盟させないことを、ロシア、ウクライナ、NATOの間で確認すれば、当事者全てが納得する形でことを収めることが出来るのではないだろうか。

 地理上ロシアと国境を接しているか、国境に近い場所に位置するため、ウクライナと似た立場にあるのが北欧のフィンランドとスウェーデンである。このほど、この二国のNATO加盟の見通しが立った。NATOへの加盟には全加盟国の承認が必要だが、二国のクルド人勢力受け入れに対する不満から、二国のNATO加盟に強硬に反対してきたトルコが、方針転換を表明したからだ。ただ、ロシアがこの動きに反発することは必至で、ウクライナ情勢が悪化する今この時期に進めるべき話なのか、疑問は残る。

 ロシアが大国意識を棄て、ヨーロッパ・アジア地域の一国になることに甘んじられるならば、互いの繁栄を模索する道は開ける、というのが西側諸国の思惑だろう。しかし、ロシアは領土拡大を目指す帝国主義国家である。少なくとも、プーチンにはヨーロッパとの融和を目指す意思はない。西側からの圧力が強まって、ロシアが中国にすり寄るような事態になれば、世界情勢は二十世紀の冷戦状態に逆戻りする可能性もある。軍事面・経済面において東西のパワーバランスが上手く取れ、冷戦状態が維持できるなら、世界情勢は安定するだろう。問題はロシアと同様帝国主義への傾斜を強める中国である。国土拡大の意思を露骨に示し始めた中国を、目下世界世論は黙過している。中国の横暴を許せば、アジアの地図は大きく描き変えられることになろう。ウクライナ情勢が日本にとっても他人事ではない所以である。

 ナチスドイツを例に挙げるまでもなく、帝国主義路線を取った国はいずれ衰退する。第二次世界大戦後のドイツにせよ、日本にせよ、国が残っただけ運がよかったと言えるだろう。しかし、帝国主義は終息する前に周辺国に多大な犠牲を強いる。その意味において、現在のロシアや中国のように独裁者や一部の権力者の都合によって運営される国家は非常に危険である。彼らが歴史に学ぶ謙虚さや自制心を持ち合わせているようには見えないからだ。人類が同じ過ちを繰り返すだけの種族ならば、いずれ滅びの道を歩むことは避けられまい。それとも、人類社会は過去の惨禍から教訓を得、次なる段階へと進化できるであろうか。我々は後者の可能性に望みをかけるしかない。となると、現在の西側諸国のロシアに対する姿勢は、大筋では正しいということになろう。

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